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逃げろ蘭子
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私の背中に、ぞわりとするものが走り抜ける。危険が近づいているときの、いつものサインだ。なぜだかはわからないけど、いつの頃からか、私の肉体はこうして危険を察知し、私の意識に教えてくれるようになった。
自分の顔から表情が一瞬で消え去るのがわかる。頭の芯がキンと冷えて、周囲の情報を冷徹に処理することに集中しはじめる。
私が気付いたのと、先輩が気付いたのと、どちらが先だったのか。
私たちはお互いほぼ同時に、互いの身体を咄嗟に押しのけていた。
「えっ」
近くの木陰から、季節にそぐわないコートを着た人影が飛び出してくる。先輩は私をその人影から遠ざけるように、そして私は、その人影の方へと先輩を押し出してしまっていた。
しまった、と思ったときにはもう遅い。
先輩が後ずさりする。人影から離れた先輩のお腹からは、ぽたぽたと何かが落ちている。
「守須、逃げろ……」
先輩の声は苦しそうだ。
私の中のもう一人の私が、状況を冷徹に分析している。コートを人影は肩までの髪の女性で、手に包丁のようなものを握っている。その先は黒っぽく濡れている。
包丁。あれで、先輩は刺されたのだ。
先輩は近くの木立を背に立っている。お腹を片手で圧迫するように抑えている。
女の包丁を見る。血に濡れているのは三分の一ほどまでだけ。深くは刺さっていないと判断。先輩も意識はある。重傷だが、今すぐどうこうという状態ではない。
「あんたらのせいで……」
女は小さな声で唸っている。
「あんたらのせいで、うちの旦那は……」
その一言で、頭の回転が増している状態の私は、すべて理解できた。
ああ、この女の人、きっと中華屋さんのおかみさんだ。
つまり、同機は、純粋な怨恨。私たちに対する逆恨み。了解把握。
私は後ずさる。同じぶんだけ女が距離を詰める。よし。ともかく、先輩から引き離さないと。
「あんたら、絶対、許さない……!」
「私たちは被害者です。逆恨みしないでくれませんか。正直ウザいんですけど」
無表情かつ抑揚のない口調で告げると、効果はてき面だった。
「殺してやる……!」
よし、意識が完全にこちらへ向いた。
「逃げろ! 蘭子!」
先輩の叫びと同時に、私は駆け出した。
スタートダッシュは全力でしたけど、私は引き離しすぎないよう後ろを振り返って確かめる。
大丈夫。ちゃんとついてきている。しかも足は、やはり若い私の方がちょっぴり速い。
少しスピードを緩めて、がんばれば届くかもという間隔を維持して公園の縁を大回りすように駆けてゆく。このルートで進めば先輩から離れることができるし、距離も稼げる。
スタミナを消耗しないように。それを心がけて、私は逃げる。
先輩の教えが、脳裏によみがえる。
『彼らは必ず、目についた中で弱そうに見えるものを狙う』。
そして、
『悪いことをする大抵のヤツは長く速くは走れない』。
だから私は、長く走ることを意識する。
少し前までの私なら、できなかったことだ。でも、先輩の指導を受けた日から今日まで、私はジョギングを欠かさず続けている。
正直、まだまだ体力がついたとは言えない。でも、普段から特別な運動をしていなさそうな、中華料理屋のおかみさんと比べれば、どうだろうか。
公園に設置された水飲み場の辺りに差し掛かる。その陰から、ダッシュで距離を詰めてきた女が飛び出してくる。
だけど残念。この辺りの地理は、すべて把握している。
予測していた私は逆に水飲み場を盾にするように、くるりとターンして突撃をかわす。
ちらりと振り返ると、女は相当苦しそうだ。今ので、相当無駄なスタミナを使っただろう。
私自身も息が切れてきている。でも、もうひと踏ん張りだ。
私は駆ける。駆ける。駆ける。
振り返ると、女がいない。
私は立ち止まり、周囲を注意深く観察した。
視界の遠く向こう。女が地面にへたり込み、肩で息をしている。どうやら限界が来たようだ。
私もその場に崩れ落ちる。私は荒い息をつきながらスマホを取り出すと、一一〇をプッシュした。
自分の顔から表情が一瞬で消え去るのがわかる。頭の芯がキンと冷えて、周囲の情報を冷徹に処理することに集中しはじめる。
私が気付いたのと、先輩が気付いたのと、どちらが先だったのか。
私たちはお互いほぼ同時に、互いの身体を咄嗟に押しのけていた。
「えっ」
近くの木陰から、季節にそぐわないコートを着た人影が飛び出してくる。先輩は私をその人影から遠ざけるように、そして私は、その人影の方へと先輩を押し出してしまっていた。
しまった、と思ったときにはもう遅い。
先輩が後ずさりする。人影から離れた先輩のお腹からは、ぽたぽたと何かが落ちている。
「守須、逃げろ……」
先輩の声は苦しそうだ。
私の中のもう一人の私が、状況を冷徹に分析している。コートを人影は肩までの髪の女性で、手に包丁のようなものを握っている。その先は黒っぽく濡れている。
包丁。あれで、先輩は刺されたのだ。
先輩は近くの木立を背に立っている。お腹を片手で圧迫するように抑えている。
女の包丁を見る。血に濡れているのは三分の一ほどまでだけ。深くは刺さっていないと判断。先輩も意識はある。重傷だが、今すぐどうこうという状態ではない。
「あんたらのせいで……」
女は小さな声で唸っている。
「あんたらのせいで、うちの旦那は……」
その一言で、頭の回転が増している状態の私は、すべて理解できた。
ああ、この女の人、きっと中華屋さんのおかみさんだ。
つまり、同機は、純粋な怨恨。私たちに対する逆恨み。了解把握。
私は後ずさる。同じぶんだけ女が距離を詰める。よし。ともかく、先輩から引き離さないと。
「あんたら、絶対、許さない……!」
「私たちは被害者です。逆恨みしないでくれませんか。正直ウザいんですけど」
無表情かつ抑揚のない口調で告げると、効果はてき面だった。
「殺してやる……!」
よし、意識が完全にこちらへ向いた。
「逃げろ! 蘭子!」
先輩の叫びと同時に、私は駆け出した。
スタートダッシュは全力でしたけど、私は引き離しすぎないよう後ろを振り返って確かめる。
大丈夫。ちゃんとついてきている。しかも足は、やはり若い私の方がちょっぴり速い。
少しスピードを緩めて、がんばれば届くかもという間隔を維持して公園の縁を大回りすように駆けてゆく。このルートで進めば先輩から離れることができるし、距離も稼げる。
スタミナを消耗しないように。それを心がけて、私は逃げる。
先輩の教えが、脳裏によみがえる。
『彼らは必ず、目についた中で弱そうに見えるものを狙う』。
そして、
『悪いことをする大抵のヤツは長く速くは走れない』。
だから私は、長く走ることを意識する。
少し前までの私なら、できなかったことだ。でも、先輩の指導を受けた日から今日まで、私はジョギングを欠かさず続けている。
正直、まだまだ体力がついたとは言えない。でも、普段から特別な運動をしていなさそうな、中華料理屋のおかみさんと比べれば、どうだろうか。
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だけど残念。この辺りの地理は、すべて把握している。
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