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3章 歓びの里 [鳥の妻恋]編

3-4 君は猫である、名前はまだ知らない

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 その後、速攻でランドがエンジュを部屋から追い出した。いや叩き出すと言った方がいいかもしれない。

 改めて寝台のそばに戻ってくると、傍らに身をかがめる。下からのぞき込むようにして、いたわるような眼差しがフェイバリットを見上げた。

 穏やかな茶色の眼差しには、先ほどエンジュに見せた怒りは微塵も残っていない。

「目覚めたばかりだというのに騒がしくしてすまない。お前の体のことだが、この一週間ですっかり筋肉が衰えてしまっているはずだ――むろん体力も」

 ランドの言葉にフェイバリットは己の体を見下ろす。先ほどは起き上がることさえ自力で出来なかった。

 思い出すと、気持ちが沈みそうになる。それでも自分なりに俯かないよう精一杯、気をつけたつもりだった――だが。

「落ち込むことはない。体はじきに戻る」

 しっかり見透かされ、フェイバリットは恥ずかしさも手伝い、小さな体をさらに縮こませる。

 その途端、ぽんっと頭にごつごつとした手が置かれた。髪が乱れるのも構わず、昔よりずっと大きくなった手が、無造作に髪に指を突っ込んで、わしわしと掻き混ぜる。

 落ち込んだりベソをかいていると、ずっと小さい頃には、こうしてよく慰められた。

 力加減も何もあったものじゃない。それでも口下手なランドなりの励ましが幼心おさなごころに嬉しかったものだ。

 互いに年頃になってからは、こんなふうに触れ合う機会は当然ながら久しくなかった。

 久しぶりのランドの“よしよし”に、肩から力が抜けて、フェイバリットの口から思わずホッと息が洩れる。

「うん…」
「体を戻す為に、まずは食事を摂ることから始めよう。なにせ水分だけでずっと眠っていたのだから、きっと最初は歩くこともままならない。食事を摂り、着替えや部屋の移動など、身の回りのことから少しずつやっていけばいい。焦らずゆっくり体を戻していこう――な」

 フェイバリットは笑みを作ろうと、ぎこちなく口角を引き上げる。

 きちんと笑顔になっているだろうか。
 そんな心配事も、気にするなというように、ランドがまなじりを下げて笑う。心からの笑顔――それは何ひとつ変わらない。

「こちらの人は皆、良い方ばかりだ。お前は安心してしっかり体を戻すことに専念すればいい。いいな?」

 フェイバリットが頷くのを見届けると、ようやく安心してランドは部屋を後にした。

 一人になると、部屋は途端に静まり返る。静寂が耳に痛いほど。一人になってホッとするのか、それとも一人ぼっちが寂しいのか。

 どちらともつかず、大きなひと息を吐いてフェイバリットは寝台の上に横たわる。

 目に映るのは見慣れない天井だ。
 先ほどの賑やかなやり取りのおかげで、夢の余韻はずいぶん遠ざかった。

 さっきは考えるだけで胸に走った、穿うがつような痛みも、今はそれほどでもない。

 ――目が覚めた時のことを、はっきりと思い出せる。

 薄暗い部屋の中、ぼんやりと見えた天井に、反射的に違うと思った。あの懐かしい部屋じゃないと。

 十年以上過ごした部屋だ。ひと目でわかる。そればかりじゃなく、嗅ぎ慣れた匂いが全くしないことを不思議に思った。

 家中に染みついた薬草の匂い。囲炉裏から漂ってくる炭が燃える匂いも。

 ほんの少し前まで、力強く誰かの腕にぎゅっと抱き込まれていたように思う。きっと夢で見たものに違いない。もちろんそんなことはわかっている。

 けれども体全体をすっぽりと包み込む大きな腕は――その温もりもひどく懐かしいものだった。願わくば、この夢から覚めたくないと思うほどに――。

 温もりが失われると、急に心寂うらさみしい気持ちに襲われた。視界に映る心配そうな幼馴染みの顔を見た時は正直、喜ぶどころか落胆した。

 ここはヘイルじゃない、と――。

 そんな自分に、フェイバリットは呆れるどころか嫌悪すら感じる。情のない、自分勝手な自分につくづく嫌気が差した。
 
「……最低だ―――」

 両手で、目を覆う。固く閉じた目が熱くなり、じわりと涙がこみ上げる。泣くまいとフェイバリットは目に力を込めた。

 そこに気を取られていたからだろうか。扉が開く、小さな音に気づかなかった。

 肌を撫でる風の流れに目をやると、さっきまで固く閉ざされていた扉が、ほんの少しだけ開いていることに気づく。

 もしかしたら食事を届けに誰かが来てくれたのかもしれないと、指の隙間から扉を見る。しかし声をかける者の姿はない。風で扉が開いてしまったのだろうか?

 身を起こそうとして、今しがたうまく体を動かせなかったことを思い出す。

 寝転ぶのは案外、簡単だった。
 なのに起き上がるとなると、まるでひっくり返った亀の子のように全く身動きならない。

 歯痒い気持ちで身を捻って横向きになり、ぷるぷると震える体を叱咤して、敷布に手をつこうと力を込めた――その時。トンという軽い音と振動を、敷布についたてのひらに感じ取った。

 反射的に顔を上げると、どうやら寝台に飛び乗ったらしい――視線の先には黒猫の姿があった。思いがけない訪問客に、赤い瞳が大きく見開く。

 黒猫はピクリと髭を揺らすも、躊躇ためらいもせずトストスとその小さな足を踏みしめて、横たわるフェイバリットにみるみる近づいてくる。

 あまりにも人馴れした猫の様子に、驚いたのはフェイバリットの方だ。じっと目を瞠っていると、黒猫は顔の前でいきなりドサリと座り込んだ。

 しかもその座り方は、お腹をペタリと敷布につけ、前足と後足を折りたたみ身体の下にしまい込む――いわゆる『箱座り』。

 綺麗に四角くまとまったその見た目からそう呼ばれる、猫特有の座り方だ。

 しかし完全に安心した状態じゃないと、猫はこの座り方をしない。初めて見る人間の前で箱座りとは、なんとも肝っ玉が据わった猫だと思う。

 フェイバリットはまじまじと目の前の黒猫を凝視した。そんな無遠慮な視線をもろともせず、余裕たっぷりに黒猫もまたフェイバリットをじっと見つめ返す。

「ね、猫ちゃん…?」

 一匹と一人が見つめ合うことしばし。

(淡い緑の瞳――可愛い)

 黒猫の虹彩に見惚みとれていると、大人しくこちらを見ていた黒猫が、不意にぐいんと首を伸ばしてきた。その顔を、フェイバリットの顔に触れるぎりぎりまで近づける。

(匂いでも嗅ぐのかな…?)

 肌に触れるかどうかのところで掠める、ふかふかの毛並みが少しくすぐったい。

 ふんふんという鼻息に、ようやくこの猫が夢幻ゆめまぼろしではなく、ちゃんと血の通った生き物だという確信を持てた。

 そのままじっとしていると、黒猫の顔がすぐ眼前まで迫る。次の瞬間、視界が黒一色になった。

 心持ち頭を下げて、黒猫がフェイバリットの顔面に頭突き――もとい力強く額をこすりつけてきたからだ。

「……っ。……ふぁ……ちょっ…」

 黒猫は、額だけではなく頬、いや顔全部を、ごりんごりんと執拗にこすりつけてくる。身動きならないフェイバリットはもはや、されるがままだ。

 満足するまで、猫の動きは止まらなかった。やっと終わったかと思うと、最後に湿った鼻先をチョンとフェイバリットのそれに押しつける。

 その鼻がひんやりと冷たくて、思わず身を竦めると、小さな口が開いてそこに並ぶ白い歯が見えた。

「―――ちょっとは元気でたか?」

 てっきりその口から、ニャアという鳴き声が出るものと想像していたフェイバリットにとって、その衝撃はあまりにも大きかった。

 つかの間、頭の中が真っ白になる。瞬きすら忘れて、フェイバリットの体は固まったまま――動けない。

「なんや――驚いて声も出えへんのか」

 黒猫が可愛らしく小首をかしげる。
 その胸辺りに一点、引きつれたような跡を見つけて、フェイバリットの視線がピタリと止まった。

 おそらく――きっと――間違いなく自分の鼻水だ。顔面に体をこすりつけられた時に、この綺麗な毛並みについてしまったのだろう。

 まんまるな目が、釣られてフェイバリットの視線の先をたどる。鼻水の跡に気づいた途端。

「は――ははっ。カッピカピになっとる。次からは手拭い用意しとかなアカンなぁ――気にせんとき」

 丸い瞳が、糸のように細くなる。ひげ袋をふっくらと持ち上げると、猫の顔が笑ったように見えた。

 このよすがが、終生フェイバリットに大きな影響を与えることになる。もちろんそんなこと、彼女は夢にも思わない。

 なんと言っても、この時のフェイバリットは、その猫の名前すら知らなかったのだから。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 読んでいただき、ありがとうございます。

 すみませんm(__)m

 体調不良につき、執筆を休んでいました。
 次話は一週間後に、更新予定です。
 次回更新も頑張りますので、どうぞよろしくお願いします。
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