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2章 異国[羈旅( きりょ)]編

2-24 打潰 [ぶっつぶす]

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「おいっ、ずらかるぞ!」

 怒りんぼイルㇱカが厳しい声をかける。

 迫りくる蟻の大群はみるみる間に距離をせばめてくる。
 ランドの口に猿ぐつわを噛ませ、手足を縄でしっかり拘束した半笑いアㇻケミナが焦ったように肩にその体を担ぎ上げると、荷車へと急いだ。

 フェイバリットも背負い袋を引き摺りながら荷車に向かって必死に走る。ひとまず、今は逃げるのが先決だ。

 赤ん坊ほどもある蟻の脚は、恐ろしいほどに速い。

 今やその触角や長く鋭い牙までもはっきりと視界に捉えられるほど、すでに、そこまで距離は近くなっていた。重い荷を両手に下げて走るフェイバリットは、一人遅れがちだった。

 このままだと、荷車に乗る前に追いつかれるかもしれない。それよりも慌てふためき、今にも荷車を走らせかねない怒りんぼイルㇱカたちに置き去りにされる方が先かもしれなかった。

「おいっ! 急げ!!」

 荷を捨てて走るべき。頭ではわかっているが、この中にはランドの大切なもりがある。どうしても置いて行くことは出来なかった。

 荷台にあげられたランドがくぐもった声を懸命にあげるのが、虫たちの足音の中に紛れて聞こえた。きっと自分を呼んでいるのだ。もう少し――。

 「車輪止めを外せ」「薬を撒け」など複数の怒号が飛び、荷台を所せましと行き交う足音が激しく響く。

 フェイバリットが、なんとか荷車にたどり着いた時は足がもつれそうなほど、膝から下がガクガクとしていた。腕をぷるぷるさせながら背負い袋を持ち上げる。

 肩を入れて押し上げて、やっと荷台に積み込むことが出来た――ほっと息を吐いたその時。

 ガタン。荷車の車輪が動く音がした。馬たちは異変を感じ取り、興奮して地面に蹄を何度も打ちつけている。

 鞭を入れるまでもなく、動き出したら一気に走り出してしまうだろう。

 そこでようやく荷台にかけた手に力を込めた。這い上がらなければ、置いて行かれる。

 力を込めようとして、その手に全く力が入らないことに気がついた。飛び乗ろうにも萎えた足でどれほどの跳躍を望めるか。

「あ……」

 荷車の車輪がゆっくりと回転する。最初の重い漕ぎ出しを過ぎれば、一刻も早くこの場を立ち去りたい馬に引っ張られて、どんどん加速していくに違いない。

 荷台に手をかけながら、荷車の動きに合わせて数歩を駆け足でついていく。

(置いていかれたくない)

 ぎゅっと目を瞑った途端――ふわりと体が浮き上がるのが分かった。

 目を開けると、大きな体をいっぱいまで伸ばして、丸太のような太い腕が、片手で外套ごと背中を鷲づかみにしてフェイバリットの小さな体を持ち上げていた。怖がりイシトマだ。

「だ、だいじょうぶ…?」
「何やってんだ?! 早く出さねえかっ!」

 怒りんぼイルㇱカの怒号で、大男は慌てて御者台に戻り、荷車が全速力で走り出した。砂地とは言え、跳ねるように激しく揺れる車上でフェイバリットは投げ出されないように必死になって荷に縋りつく。

 すぐ後ろからガチガチという刃がぶつかり合うような音が聞こえたが、しがみつくのに必死で、それを見るどころではない。それが蟻が牙を打ち鳴らす音だと知ったのはずっと後だった。

 男たちの怒声や激しく何かを打ち据える物音が頭上で繰り広げられるのを聞きながら、どのくらい経った頃か。どうやらからくも蟻の群れから逃げおおせたらしい。

 気がつくと、フェイバリットが顔を上げられるほど、荷車の速度が緩やかになっていた。

 見ると、先ほどよりもずっと穏やかな振動に揺られながら、積み荷を背もたれにして、怒りんぼイルㇱカ半笑いアㇻケミナが疲れたように座り込んでいる。

 ランドは手足を拘束されたまま、床に寝転がった状態だ。その目はまだ、ぼんやりとして焦点が定まらないように見える。視力はまだ戻らないのだろうか。そんなことを思っていると。

「おい。あれ出せ」と怒りんぼイルㇱカが隣の男に、短く言った。いつもはニヤニヤ笑いの男もさすがに疲れたのか、声もなくのそりと腰を上げると崩れかけた荷の中をごそごそと探り始める。

 やがて半笑いアㇻケミナは何かを見つけ出したらしい。手に何か――黒い紐のようなものを持っている。その口もとにはニヤニヤ笑いが復活していた。

 どこかで見たことがある。ポツリとそんなことを思いながら、フェイバリットは黙ってそれを眺めた。

 怒りんぼイルㇱカはそれを受け取ると、口もとに下卑た笑いを浮かべてランドに振り返る。

「さあて、お前にはをつけてもらおうか」

 つける? 知らず知らずのうちにフェイバリットは壁にしていた荷台の縁から背を浮かせて、顔をぐっと前に突き出すと、目を凝らした。黒いそれは――”首輪”だ。

 どこかで見たことがある。記憶をたぐっていると、ふと馬を操る怖がりイシトマの背中が視界に入った。

(あ………)

――――怖がりイシトマがつけていただ。

 どういうことだろう。怖がりイシトマはあれを『遠くにいても呼び寄せるための便利なもの』と言った。だが目の前の怒りんぼイルㇱカの顔を見る限り、とてもそんな風には思えない。

 怒りんぼイルㇱカは床に横たわるランドの耳に顔を近づけると、低く言った。

「これは”隷属の首輪”だ」

 隷属の首輪――おそらくその名の通り、従う意思のない相手を無理やり服従させるための道具だろう。

「人質がこちらの手にあっても、おめえは油断ならねえからな。なあに、言うことをちゃあんと聞いてりゃ、痛い目に遭うこともねえ…」

 女にでも囁くように怒りんぼイルㇱカは甘く耳に吹き込む。きっと人質とはランドの弟――つまりフェイバリットのことだろう。

 自分を使ってランドを思う通りにするつもりなのだ。フェイバリットは、ばくばくと心臓が早鐘を打ちだすのを感じた。それは恐怖でも緊張でもない――怒りだ。

 ランドの翼を折ることなど、許さない。ランドの翼はいつだって自由だ。彼には好きな時に飛び、好きな場所へと羽ばたいて行って欲しい。

 ――例えその結果、フェイバリットが一人、その後ろ姿を見送ることになったとしても。

 それからのフェイバリットの行動はほとんど無意識だった。気がつくと体が動いていたと言ってもいい。そうでなければトロくさい自分があれほどにも素早く動けるはずがない。

 首にはめるのを阻止するだけでは駄目だ。あの首輪を奪うだけでも駄目――ならば。その時、どんな力がフェイバリットを突き動かしのか。

 フェイバリットは腰に下げたをすぐに引き抜けるよう指先で確認する。緊張はなかった――やがて。

 二人の男がランドの首に黒い首輪を着けようと、こちらに背を向けた。己の手元と足元のランドに全神経が集中したと思われた――その時。

 勢いよく、駆け出した。フェイバリットの小さな体なら、足音を忍ばせなくてもほとんど音はしない。死角となる背後から素早く近づく。

 気配に気づいて男が振り返る前に、小さな手は狙いすました通り、男の手から黒い革の首輪を掠め取る。

「てめっ……っっ!!!」

 唐手からてになった手の平を見て、男が憤怒の表情で振り返った。追い縋る手を躱して、フェイバリットは狭い荷台の上で距離を取り、腰から小刀を引き抜く。

 里では女でも山菜採りや獣の皮を剥ぐために持ち歩く道具だ。きちんと手入れをしたそれは切れ味もいい。

 こんな厚い革でも、フェイバリットの貧弱な力で断ち切れるほどに。

「おいっっ! やめ――――!!」

 手の中の小刀を見たのだろう。怒りんぼイルㇱカの焦ったような声が聞こえた。

 フェイバリットは刃に輪になった部分をひっかけると、もう片方の手で力いっぱい引っ張った。ぶつりという手応えを感じて、手の中の首輪が二つに裂けた。
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