15 / 129
1章はじまりの場所[ヘイルの里]編
14 御印 [みしるし]
しおりを挟む
視界の中の子どもの小さな手が、縄を掴んでいる。自分の手だと認識するまで、わずかな時間差があった。反射的に奥の暗闇に目を凝らす。何かがやってくることを、この体は覚えているのだ。
張り裂けんばかりに叫ぶ自分の声は聞こえない。目の前に立ちはだかる漆黒の塊が歓喜する、なぜかその喜びばかりが伝わってくる。
<見ツケタ>
はっきりと聞こえた。そう言って体を抱きすくめる荒々しいまでに剥き出しの力。呼吸も出来ないほどの力強さに口からカハッと息が洩れる。そこで、死を身近に感じた。
死んでしまう――あの人に会えないまま。
朦朧とする意識の中で、体を締め上げていた闇の力が急にやわらいだのが分かった。かと思うと、空中で形を変えた闇が突然、左腕を捕らえると、肌を食い破り体の内側に入り込んできた。体の中を這いまわるえも言えぬ感触に怖気立つ。
<刻ンダゾ――コレデ何処に紛レテモ見分ケラレル>
<コレハ何者二モ消セナイ印ダ>
七歳の時、イレインは山に一人で迷い込んだ。
どういうわけかリヴィエラの“探索”の術に引っかからず、結局里の皆とで手分けをして山中を探し回り、一昼夜かかって発見されたらしい。
倒れているところを助けられた後、三日三晩高熱を出したが、幸い命に別状はなかった。
時を同じくして、神を祀った風穴に吹く風が、ある日を境に止まってしまった。風の絶えた風穴は、神が去ってしまった証――凶事の前触れだと里で大騒ぎになったのだと、ずっと後になって知った。
イレイン…――イレイン
必死な呼びかけ。今にも泣き出しそうな…。
「イレイン」。これまで聞いたこともない辛そうな声が頭上から降ってくる。
いつも涼し気で、取り乱すことなどない美しい顔が、今にも泣き出しそうなほど大きく歪み、髪を振り乱している。
イレインに零れ落ちるのは、汗だろうか。それとも涙…?
手足を投げ出し、ぐったりと横たわる小さな体の前で、長袍が汚れるのも厭わず、その人が地面に膝まづく。
「大丈夫だよ」。そう言って安心させたいのに、どういうわけか声が出ない。体も全然言うことをきいてくれない。こんな風に悲しそうな顔をさせたくないのに。
抱き上げられ、体の横に力なくぶらりと垂れ下がった腕が、生気を感じさせないほどに白い。
その腕の、肩から少し下がった辺りに、肌の白さと相反する禍々しい黒い痣が、異様な存在感を放っていた。
少し離れたところから、イレインはそれを――自分とリヴィエラとを眺めた。倒れている自分よりも、動かない自分を抱きかかえて座り込むリヴィエラが痛々しくてたまらない。
泣かないで。ごめんね…心配かけて、本当にごめんね――……。
そこで意識が浮上する。イレインはいつもの寝台の中で目を覚ました。ぼんやりと天井を見上げながら、まだ耳の中に残る声を反芻する。
手のひらを開いてじっと見つめる。自分がもう小さな子どもではないことを確認して、ほっとした。
体を起こして少し躊躇った後、イレインは左腕の袖をまくり上げた。腕をのぞき込むと、そこに夢で見たものと同じ黒い痣があった。黒い痣は、蛇が巻きついた跡のような不吉な文様を描いている。
覚えている限り、つい昨日洞穴で倒れるまではこんな痣はなかった。記憶と共に痣も取り戻されたのだろうか。
だとしたら、きっとこれも名にしおう呪術師の手によって、消せないまでも人の目から隠されてきたのだろう。
何かが足許に忍び寄ってくるような気がして、急に心許ない気持ちになる。痣を押さえる手に、知らず知らずのうちに力が込もっていた。
「ふぅ……」
深く息を吐いて――目を瞑ることしばし。イレインは寝台を下りると居間に向かった。
居間にはいつもと変わりないリヴィエラの姿があった。東側の窓から差し込む明るい日差しに、今日も天気が良いことが伺える。
「おはようございます」「おはよう、イレイン」
二人で朝食を作り、囲炉裏端で共に食事する。
朝食の席でリヴィエラから「今日の学びの時間は二人きりで行いましょう」と告げられた。
「はあ…」と間抜けな声を上げるイレインに、「周りのペースを気にせず集中して取り組むため」とリヴィエラは簡潔に説明する。
その日の学びの時間は、とても丁寧に進められた。
「基本のおさらいをします」と言った通りに、“水脈を探る術”、”水を地中から引き出す術”、”汚水を清める術”、さらにイレインが苦手とする[火属性]の”火口を作る術”や”体温を上げる術”など本当に基礎ばかりを一つ一つおさらいしていく。
「今さら基礎をしなくても」と口を尖らせるイレインに、「二度も山で倒れるあなたが心配だから」と言った後で「三度目は勘弁してくださいね」とリヴィエラは意地悪く笑った。イレインは反論できなかった。
ひと通り学びを終えた後、イレインとリヴィエラはモミジイチゴを採りに山に入ることにした。
途中、秘密のけもの道が気になったので立ち寄ってもらったところ、灌木や藪が生い茂り、入り口は完全に塞がっていた。
日々、枝葉を伸ばす草木がけもの道を呑み込むのは、あっという間だ。小さなけもの道ならば尚さらだろう――つまり八年も前のけもの道が当時のまま、残っているはずなどなかったのだ。
それを前にして、イレインはただただ困惑するばかりだった。
ちなみにモミジイチゴは、リヴィエラと一緒に摘み立てを美味しくいただいた。
張り裂けんばかりに叫ぶ自分の声は聞こえない。目の前に立ちはだかる漆黒の塊が歓喜する、なぜかその喜びばかりが伝わってくる。
<見ツケタ>
はっきりと聞こえた。そう言って体を抱きすくめる荒々しいまでに剥き出しの力。呼吸も出来ないほどの力強さに口からカハッと息が洩れる。そこで、死を身近に感じた。
死んでしまう――あの人に会えないまま。
朦朧とする意識の中で、体を締め上げていた闇の力が急にやわらいだのが分かった。かと思うと、空中で形を変えた闇が突然、左腕を捕らえると、肌を食い破り体の内側に入り込んできた。体の中を這いまわるえも言えぬ感触に怖気立つ。
<刻ンダゾ――コレデ何処に紛レテモ見分ケラレル>
<コレハ何者二モ消セナイ印ダ>
七歳の時、イレインは山に一人で迷い込んだ。
どういうわけかリヴィエラの“探索”の術に引っかからず、結局里の皆とで手分けをして山中を探し回り、一昼夜かかって発見されたらしい。
倒れているところを助けられた後、三日三晩高熱を出したが、幸い命に別状はなかった。
時を同じくして、神を祀った風穴に吹く風が、ある日を境に止まってしまった。風の絶えた風穴は、神が去ってしまった証――凶事の前触れだと里で大騒ぎになったのだと、ずっと後になって知った。
イレイン…――イレイン
必死な呼びかけ。今にも泣き出しそうな…。
「イレイン」。これまで聞いたこともない辛そうな声が頭上から降ってくる。
いつも涼し気で、取り乱すことなどない美しい顔が、今にも泣き出しそうなほど大きく歪み、髪を振り乱している。
イレインに零れ落ちるのは、汗だろうか。それとも涙…?
手足を投げ出し、ぐったりと横たわる小さな体の前で、長袍が汚れるのも厭わず、その人が地面に膝まづく。
「大丈夫だよ」。そう言って安心させたいのに、どういうわけか声が出ない。体も全然言うことをきいてくれない。こんな風に悲しそうな顔をさせたくないのに。
抱き上げられ、体の横に力なくぶらりと垂れ下がった腕が、生気を感じさせないほどに白い。
その腕の、肩から少し下がった辺りに、肌の白さと相反する禍々しい黒い痣が、異様な存在感を放っていた。
少し離れたところから、イレインはそれを――自分とリヴィエラとを眺めた。倒れている自分よりも、動かない自分を抱きかかえて座り込むリヴィエラが痛々しくてたまらない。
泣かないで。ごめんね…心配かけて、本当にごめんね――……。
そこで意識が浮上する。イレインはいつもの寝台の中で目を覚ました。ぼんやりと天井を見上げながら、まだ耳の中に残る声を反芻する。
手のひらを開いてじっと見つめる。自分がもう小さな子どもではないことを確認して、ほっとした。
体を起こして少し躊躇った後、イレインは左腕の袖をまくり上げた。腕をのぞき込むと、そこに夢で見たものと同じ黒い痣があった。黒い痣は、蛇が巻きついた跡のような不吉な文様を描いている。
覚えている限り、つい昨日洞穴で倒れるまではこんな痣はなかった。記憶と共に痣も取り戻されたのだろうか。
だとしたら、きっとこれも名にしおう呪術師の手によって、消せないまでも人の目から隠されてきたのだろう。
何かが足許に忍び寄ってくるような気がして、急に心許ない気持ちになる。痣を押さえる手に、知らず知らずのうちに力が込もっていた。
「ふぅ……」
深く息を吐いて――目を瞑ることしばし。イレインは寝台を下りると居間に向かった。
居間にはいつもと変わりないリヴィエラの姿があった。東側の窓から差し込む明るい日差しに、今日も天気が良いことが伺える。
「おはようございます」「おはよう、イレイン」
二人で朝食を作り、囲炉裏端で共に食事する。
朝食の席でリヴィエラから「今日の学びの時間は二人きりで行いましょう」と告げられた。
「はあ…」と間抜けな声を上げるイレインに、「周りのペースを気にせず集中して取り組むため」とリヴィエラは簡潔に説明する。
その日の学びの時間は、とても丁寧に進められた。
「基本のおさらいをします」と言った通りに、“水脈を探る術”、”水を地中から引き出す術”、”汚水を清める術”、さらにイレインが苦手とする[火属性]の”火口を作る術”や”体温を上げる術”など本当に基礎ばかりを一つ一つおさらいしていく。
「今さら基礎をしなくても」と口を尖らせるイレインに、「二度も山で倒れるあなたが心配だから」と言った後で「三度目は勘弁してくださいね」とリヴィエラは意地悪く笑った。イレインは反論できなかった。
ひと通り学びを終えた後、イレインとリヴィエラはモミジイチゴを採りに山に入ることにした。
途中、秘密のけもの道が気になったので立ち寄ってもらったところ、灌木や藪が生い茂り、入り口は完全に塞がっていた。
日々、枝葉を伸ばす草木がけもの道を呑み込むのは、あっという間だ。小さなけもの道ならば尚さらだろう――つまり八年も前のけもの道が当時のまま、残っているはずなどなかったのだ。
それを前にして、イレインはただただ困惑するばかりだった。
ちなみにモミジイチゴは、リヴィエラと一緒に摘み立てを美味しくいただいた。
0
お気に入りに追加
8
あなたにおすすめの小説
【完結】婚約破棄されたので、引き継ぎをいたしましょうか?
碧桜 汐香
恋愛
第一王子に婚約破棄された公爵令嬢は、事前に引き継ぎの準備を進めていた。
まっすぐ領地に帰るために、その場で引き継ぎを始めることに。
様々な調査結果を暴露され、婚約破棄に関わった人たちは阿鼻叫喚へ。
第二王子?いりませんわ。
第一王子?もっといりませんわ。
第一王子を慕っていたのに婚約破棄された少女を演じる、彼女の本音は?
彼女の存在意義とは?
別サイト様にも掲載しております
私がいなくなった部屋を見て、あなた様はその心に何を思われるのでしょうね…?
新野乃花(大舟)
恋愛
貴族であるファーラ伯爵との婚約を結んでいたセイラ。しかし伯爵はセイラの事をほったらかしにして、幼馴染であるレリアの方にばかり愛情をかけていた。それは溺愛と呼んでもいいほどのもので、そんな行動の果てにファーラ伯爵は婚約破棄まで持ち出してしまう。しかしそれと時を同じくして、セイラはその姿を伯爵の前からこつぜんと消してしまう。弱気なセイラが自分に逆らう事など絶対に無いと思い上がっていた伯爵は、誰もいなくなってしまったセイラの部屋を見て…。
※カクヨム、小説家になろうにも投稿しています!
父が死んだのでようやく邪魔な女とその息子を処分できる
兎屋亀吉
恋愛
伯爵家の当主だった父が亡くなりました。これでようやく、父の愛妾として我が物顔で屋敷内をうろつくばい菌のような女とその息子を処分することができます。父が死ねば息子が当主になれるとでも思ったのかもしれませんが、父がいなくなった今となっては思う通りになることなど何一つありませんよ。今まで父の威を借りてさんざんいびってくれた仕返しといきましょうか。根に持つタイプの陰険女主人公。
(完結)私は家政婦だったのですか?(全5話)
青空一夏
恋愛
夫の母親を5年介護していた私に子供はいない。お義母様が亡くなってすぐに夫に告げられた言葉は「わたしには6歳になる子供がいるんだよ。だから離婚してくれ」だった。
ありがちなテーマをさくっと書きたくて、短いお話しにしてみました。
さくっと因果応報物語です。ショートショートの全5話。1話ごとの字数には偏りがあります。3話目が多分1番長いかも。
青空異世界のゆるふわ設定ご都合主義です。現代的表現や現代的感覚、現代的機器など出てくる場合あります。貴族がいるヨーロッパ風の社会ですが、作者独自の世界です。
初夜に「俺がお前を抱く事は無い!」と叫んだら長年の婚約者だった新妻に「気持ち悪い」と言われた上に父にも予想外の事を言われた男とその浮気女の話
ラララキヲ
恋愛
長年の婚約者を欺いて平民女と浮気していた侯爵家長男。3年後の白い結婚での離婚を浮気女に約束して、新妻の寝室へと向かう。
初夜に「俺がお前を抱く事は無い!」と愛する夫から宣言された無様な女を嘲笑う為だけに。
しかし寝室に居た妻は……
希望通りの白い結婚と愛人との未来輝く生活の筈が……全てを周りに知られていた上に自分の父親である侯爵家当主から言われた言葉は──
一人の女性を蹴落として掴んだ彼らの未来は……──
<【ざまぁ編】【イリーナ編】【コザック第二の人生編(ザマァ有)】となりました>
◇テンプレ浮気クソ男女。
◇軽い触れ合い表現があるのでR15に
◇ふんわり世界観。ゆるふわ設定。
◇ご都合展開。矛盾は察して下さい…
◇なろうにも上げてます。
※HOTランキング入り(1位)!?[恋愛::3位]ありがとうございます!恐縮です!期待に添えればよいのですがッ!!(;><)
【完結】20年後の真実
ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。
マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。
それから20年。
マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。
そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。
おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。
全4話書き上げ済み。
婚約者すらいない私に、離縁状が届いたのですが・・・・・・。
夢草 蝶
恋愛
侯爵家の末姫で、人付き合いが好きではないシェーラは、邸の敷地から出ることなく過ごしていた。
そのため、当然婚約者もいない。
なのにある日、何故かシェーラ宛に離縁状が届く。
差出人の名前に覚えのなかったシェーラは、間違いだろうとその離縁状を燃やしてしまう。
すると後日、見知らぬ男が怒りの形相で邸に押し掛けてきて──?
5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?
gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。
そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて
「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」
もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね?
3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。
4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。
1章が書籍になりました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる