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1章はじまりの場所[ヘイルの里]編

6 穏やかな朝

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 もうすぐ夜明け、けれどまだ日が昇る前。
 辺りはうっすらと暗く、周囲の景色もよく見えない。あれは誰だとはっきり見分けられない時間を”彼誰時かわたれどき”という。

 闇に包まれた暗い夜に、うっすらと光が差し込み始め、朝の気配が顔をのぞかせる。
 小鳥のさえずりが静寂をやぶり、朝の訪れを告げた。
 
 地面が温まってくると、木々を揺らす音の中に、あちらこちらで小鳥の呼び合う声がうるさいくらいにこだまし始める。朝からとても賑やかだ。

 いつもなら元気をもらえるその鳴き声も、今朝はどこか遠くで聞こえるようにイレインには感じた。
 
 あの後、少しだけ眠れたのか…。
 少し前に目が覚めたイレインは、辺りが仄々ほのぼのと明けるのをぼんやりと眺めていた。

 風に変幻して洞穴を抜け出した後、二人はそのまま里まで戻った。すでに疲労困憊だったイレインに先に休むよう告げると、リヴィエラはその後また出かけてしまった。
 おそらく里の皆にイレインが見つかったことを伝えに行ったのだろう。

 里の皆に迷惑をかけてしまった。そう思うとどうにもいたたまれなくて毛布を引きかぶってしまう。
 そして毛布の中でイレインはまた思い出していた。
 
――名モ無キ者ヨ――
――私ヲ目指セ――
――次ノ迷図ハ今ヨリ難シクナル――
 
 あの言葉、そしてしっかりとイレインを捕らえたあの真紅の眼差しを。
 昨夜も寝床に入ってから何度も脳裡によみがえり、泥のように疲れ切っているにも関わらず、いっこうに眠気が訪れなくなってしまった。

 やがて夜遅くにリヴィエラが戻り、イレインの様子を見に部屋を訪れ、自室にさがるまで、イレインは寝たふりをしてずっと起きていた。そのまま朝を迎えるものと思ったが、どうやら少しは眠れたらしい。

 寝台の中でひとしきり寝返りを打ったり体勢を変えたりしてみたものの、もはや眠れる気配はなく、イレインは観念して半身を起こした。

 いつもよりだいぶ早い時間だが、昨日は早くに寝床に入ったことになっているから、少し早めに目が覚めたと言ってもおかしくはないだろう。

 部屋を出て居間に行くと、土間にはすでにリヴィエラの姿があった。こちらもいつもよりずっと早い。

「おはようございます。リヴィエラ様」
 イレインは前掛けを取ると、首を通しながらかまどの前のリヴィエラに近づく。その手から火吹竹ひふきだけを取り上げようと手を伸ばしたが、リヴィエラは微笑みながら、やんわりとその手を押し戻した。

 「久しぶりに私が作りますよ。とびきり美味しい朝食を作りますから楽しみにしていてください」

 そう言われると引き下がるしかなく、落ち着かない気分で囲炉裏いろりのそばに腰を下ろした。すっかり手持ち無沙汰になってしまったイレインは、改めて家の中をぐるりと見渡す。

 太い梁が渡された高い天井には煙を出す穴がぽっかりと二つ。そして東側に一つ、南側に二つの窓がある。
 朝日が差し込む東側の窓は神さまが出入りする神聖な窓だから、人は外から覗いてはいけないのだと小さい頃に教わった。

 炉の上には焼いて天日で干したウグイが吊るされ、さらに小分けに束ねられた薬草が所せましと吊り下げられている。いつもの見慣れた我が家の風景だ。

 この囲炉裏を囲んで、毎日食事をしたり、時にリヴィエラが薬作りをするのを眺めたりしながら、イレインは1日のほとんどをここで過ごす。

 もっとも成長と共に、こなせる里の仕事が増えてくると、大人衆に混じって山菜を採ったり蜂蜜を集めたりと、そうそうのんびりする暇もなくなってしまったが。
 それでも当たり前のように過ごしてきたここが自分の居場所だ。

 土間の方から白い煙が立ちのぼり、いい香りが漂ってきた。リヴィエラが料理をする音だけが、ひとしきりその場を占める。
 …こんな朝は久しぶりだ。

 まだ師弟という間柄でもなく、イレインが調理場に立つことが出来ないくらい幼かった頃。
 あの頃はいつもこうやって、リヴィエラの料理をする音を聞きながら、ゆっくりと目を覚ましたものだ。

 「ご飯炊けましたよ」
 リヴィエラから声がかかる。
 炊き上がったご飯は蒸らす前にすぐにほぐしてやると美味しく仕上がる。ご飯をほぐすのは物心ついた頃からイレインの役割だ。
 イレインは丁寧にお釜のふちに沿ってしゃもじを入れて1回転させた後、飯櫃めしびつに移す。

 ふっくらと炊けたご飯は、もうもうと湯気を吐きながらつややかに輝いている。
 米の甘い香りに急にお腹がすいてきて、キュウと腹の虫が鳴りそうになった。

 その間にリヴィエラがたっぷりの⼭菜とキノコ、そして魚を一緒に煮込んだ汁物をお椀に盛りつける。さらにもう一品、甘い串焼きはイレインの好物だ。そこに今朝もいだばかりのスモモを加えて、それぞれの角盆に綺麗に並べる。

 相変わらずリヴィエラの手料理は美味しく、こんな朝は久しぶりだと互いに笑い合う朝のひと時となった。ゆっくり食事を楽しんだ後は、二人で手早く後片付けを済ませる。すべてが済んで、さて部屋に下がろうとしたイレインをリヴィエラが呼び止めた。

「今日の学びの庭はありません」
「―――え?」

 やはり昨日の罰だろうか。困惑は隠せない。
 すぐにそれと見抜いてリヴィエラは笑った。

「罰ではありません。街に行く用事があるので、学びの庭を少しお休みするんです」
「それに」とリヴィエラは続けた。
「昨日はほとんど眠れていないでしょう?今日はゆっくり休みなさい」
 
 すべてお見通しのようだ。とっさに言葉の出ないイレインを見て、リヴィエラは困ったように笑ってみせる。
「だてに長い間、一緒にいたわけではありませんからね」
「でも……」

 昨日、里の皆に面倒をかけておきながら、自分だけがのうのうと朝寝をするなんて。
 複雑な気分で黙り込んでいると、見透かしたように「イレイン」と呼びかけられる。

 「大丈夫ですよ――大丈夫」
 それは、これまで何度となくイレインを安心させてきた、ゆるぎない言葉で。
 「よろしいですね?」とリヴィエラは、そっと彼女の背後にある扉を手で示した。
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