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供物
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沈んでいく。自分の体が、暗く冷たい水底に沈んでいく。
優李はもう、もがくことなく、静かに沈んでいった。もう助からない。黒々とした絶望が、分厚い雲となって優李の心を覆っていた。小魚の群れが、沈みゆく非力な陸上生物を嘲笑うかのように優李の真上を通り抜けていった。
「優李」
突然。声がした。音として聞こえているのではない。喩えるなら、脳に直接語りかけられているような、そんな感じである。
その声に、優李は聞き覚えがあった。
「真くん……?」
声に出すのではなく、頭に思い浮かべるようにして、優李は返事をした。
いつの間にか、目の前には声の主、真の姿があった。仰向けの優李に真上から被さるような形で、波間に揺蕩う真がそこにいた。
二人はじっと見つめ合っている。海中であるのに、優李は息苦しさを感じなくなっていた。真の日焼けした四肢と、対照的に真っ白な胴体を、優李ははっきりと見ることができた。
「感謝するよ、優李。キミはたくさんの供物を、ヨゴレさまに捧げてくれた」
「供物……?」
真の流麗な双眸が、優李を真っ直ぐに見つめている。
「お陰でヨゴレさまは喜んでいるよ。あれを見てごらん」
そう言われて、優李は身を捩って横の方を見た。
そこには、何か大きな生き物がいた。白と灰の体色、細長い流線型の美しい肉体、ブーメランのような尾鰭、これこそが、「ヨゴレさま」の正体であったのだ。
「優李一人で来ていたら、間違いなくキミはヨゴレさまに食べられていたさ。でも、そうはならなかった」
あれに食べられる。そのようなことは考えたくもない。優李は体の奥が冷えるのを感じた。
やがて、「ヨゴレさま」が何匹も集まってきて、二人の周囲を回るように泳ぎ始めた。けれども、襲ってくる気配はない。
「ボクなら優李を助けてあげられる。だから……その代わりに、ボクの言うことを聞いておくれよ」
「言うことって……?」
何を言われても、真なら信じられる。優李はそう思っていた。
「ヨゴレさまは今、お腹を空かせているんだ。だから……」
***
そこからのことは、優李自身、よく覚えていなかった。気づけば、優李の体は波打ち際に臥していた。白い体に大きな海藻がたすき掛けにへばりついた状態で、島の大人に発見された。
未曽有の大事件であった。網底島小中学校に在籍する男子十三名。その殆どが海に出かけたまま失踪してしまったのだ。発見されたのは青野優李ただ一人で、その他の生徒は行方知れずになってしまった。
流石にこれは静観すべからざる問題であると、議会の方でも認知された。海水浴場への立ち入りが、全面的に禁止されたのである。
唯一の生還者である優李にも、取り調べがなされた。取り調べとはいっても、島に身を置き捜査権を持つ警察官は彼の父である幸平ただ一人であり、ただ単に親が子どもに事情を尋ねるといった、至極アットホームなものであった。
それでも、優李は父の問いかけに対して首を振り通した。何も語らず、怯えた風に、ただただ首を振って知らぬ存ぜぬを決め込んだのである。
――きっと、優李の心も傷ついているのだろう。
この優しい父親は、息子の心を慮って、執拗に問い詰めるようなことはしなかった。
それから一週間後のことである。氷川あかりは、南の海岸にある岩崖の上に来ていた。
「青野くん、どうしてこんな所に呼んだんだろう……」
あの事件があった後も、島で唯一の男子生徒になってしまった青野優李は休むことなく学校に通っていた。あかりは彼の様子をまじまじと観察していたが、特に動揺したり、悲しみに暮れているような様子は見られない。
――多分、人前では気丈に振舞うようにしているのだ。
あかりは優李の様子をそう解釈した。そう思うと、彼のことがより一層、愛おしく思えてきてしまう。あの小動物のように可愛らしい少年がそうした強がりをしている、そこに得も知れぬ魅力を感じてしまったのだ。もっとも、そのようなことは、口が裂けても人に言えるものではなかった。
そうした折に、優李の方からあかりに誘いをかけてきた。初めてのことであった。
「話したいことがあるんだ。二人きりで」
そう言って、優李は土曜日の午後二時に、南の海水浴場を見渡せる岩崖の上に立っている看板で待ち合わせを提案してきた。怪しさは感じたものの、彼の方から誘いをかけてきた喜びの方が勝った。あかりは二つ返事で快諾した。
そうした経緯から、今、あかりはこの岩崖の上に立っている。辺りを見渡してみても、優李の姿はない。もう時刻は二時をとっくに回っている。
誘ってきた側が待たせるという不義理にあかりが苛立ちを覚え始めた、その時であった。
突然、後ろから、あかりの体が押された。
「えっ……」
あかりは、何が何だか分からなかった。分かっているのは、今自分の体が、空中に投げ出されているということだけ……
あかりの体が海中に没するその直前、崖の上に、一つの小さな人影を認めた。
「青野くん……?」
少女と見紛うその少年は、無感動な眼差しであかりを見下ろしていた。
優李はもう、もがくことなく、静かに沈んでいった。もう助からない。黒々とした絶望が、分厚い雲となって優李の心を覆っていた。小魚の群れが、沈みゆく非力な陸上生物を嘲笑うかのように優李の真上を通り抜けていった。
「優李」
突然。声がした。音として聞こえているのではない。喩えるなら、脳に直接語りかけられているような、そんな感じである。
その声に、優李は聞き覚えがあった。
「真くん……?」
声に出すのではなく、頭に思い浮かべるようにして、優李は返事をした。
いつの間にか、目の前には声の主、真の姿があった。仰向けの優李に真上から被さるような形で、波間に揺蕩う真がそこにいた。
二人はじっと見つめ合っている。海中であるのに、優李は息苦しさを感じなくなっていた。真の日焼けした四肢と、対照的に真っ白な胴体を、優李ははっきりと見ることができた。
「感謝するよ、優李。キミはたくさんの供物を、ヨゴレさまに捧げてくれた」
「供物……?」
真の流麗な双眸が、優李を真っ直ぐに見つめている。
「お陰でヨゴレさまは喜んでいるよ。あれを見てごらん」
そう言われて、優李は身を捩って横の方を見た。
そこには、何か大きな生き物がいた。白と灰の体色、細長い流線型の美しい肉体、ブーメランのような尾鰭、これこそが、「ヨゴレさま」の正体であったのだ。
「優李一人で来ていたら、間違いなくキミはヨゴレさまに食べられていたさ。でも、そうはならなかった」
あれに食べられる。そのようなことは考えたくもない。優李は体の奥が冷えるのを感じた。
やがて、「ヨゴレさま」が何匹も集まってきて、二人の周囲を回るように泳ぎ始めた。けれども、襲ってくる気配はない。
「ボクなら優李を助けてあげられる。だから……その代わりに、ボクの言うことを聞いておくれよ」
「言うことって……?」
何を言われても、真なら信じられる。優李はそう思っていた。
「ヨゴレさまは今、お腹を空かせているんだ。だから……」
***
そこからのことは、優李自身、よく覚えていなかった。気づけば、優李の体は波打ち際に臥していた。白い体に大きな海藻がたすき掛けにへばりついた状態で、島の大人に発見された。
未曽有の大事件であった。網底島小中学校に在籍する男子十三名。その殆どが海に出かけたまま失踪してしまったのだ。発見されたのは青野優李ただ一人で、その他の生徒は行方知れずになってしまった。
流石にこれは静観すべからざる問題であると、議会の方でも認知された。海水浴場への立ち入りが、全面的に禁止されたのである。
唯一の生還者である優李にも、取り調べがなされた。取り調べとはいっても、島に身を置き捜査権を持つ警察官は彼の父である幸平ただ一人であり、ただ単に親が子どもに事情を尋ねるといった、至極アットホームなものであった。
それでも、優李は父の問いかけに対して首を振り通した。何も語らず、怯えた風に、ただただ首を振って知らぬ存ぜぬを決め込んだのである。
――きっと、優李の心も傷ついているのだろう。
この優しい父親は、息子の心を慮って、執拗に問い詰めるようなことはしなかった。
それから一週間後のことである。氷川あかりは、南の海岸にある岩崖の上に来ていた。
「青野くん、どうしてこんな所に呼んだんだろう……」
あの事件があった後も、島で唯一の男子生徒になってしまった青野優李は休むことなく学校に通っていた。あかりは彼の様子をまじまじと観察していたが、特に動揺したり、悲しみに暮れているような様子は見られない。
――多分、人前では気丈に振舞うようにしているのだ。
あかりは優李の様子をそう解釈した。そう思うと、彼のことがより一層、愛おしく思えてきてしまう。あの小動物のように可愛らしい少年がそうした強がりをしている、そこに得も知れぬ魅力を感じてしまったのだ。もっとも、そのようなことは、口が裂けても人に言えるものではなかった。
そうした折に、優李の方からあかりに誘いをかけてきた。初めてのことであった。
「話したいことがあるんだ。二人きりで」
そう言って、優李は土曜日の午後二時に、南の海水浴場を見渡せる岩崖の上に立っている看板で待ち合わせを提案してきた。怪しさは感じたものの、彼の方から誘いをかけてきた喜びの方が勝った。あかりは二つ返事で快諾した。
そうした経緯から、今、あかりはこの岩崖の上に立っている。辺りを見渡してみても、優李の姿はない。もう時刻は二時をとっくに回っている。
誘ってきた側が待たせるという不義理にあかりが苛立ちを覚え始めた、その時であった。
突然、後ろから、あかりの体が押された。
「えっ……」
あかりは、何が何だか分からなかった。分かっているのは、今自分の体が、空中に投げ出されているということだけ……
あかりの体が海中に没するその直前、崖の上に、一つの小さな人影を認めた。
「青野くん……?」
少女と見紛うその少年は、無感動な眼差しであかりを見下ろしていた。
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