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網底島
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青野優李。小学五年生。
小柄で色白、それでいて中性的で何処か女の子めいた彼は、同級生たちに何かとからかわれることが多かった。彼はそういった場合、特に反発するでもなく、いつも薄笑いを浮かべながらごまかしていた。だが、彼のそういった対応は、
――こいつはやり返してこない。
というよからぬ学習を周囲にさせてしまっていたらしい。彼への誹謗中傷じみたからかいは、次第にエスカレートしていった。
それがさらに悪い方向へと傾いた。そのきっかけは、警察官である父親の、業務上のとある出来事であった。
優李の父親、青野幸平は東京都西部のとある警察署に勤務する警察官である。
彼が勤務する地域で、野犬が男性に噛みつき負傷させるという事件が起こった。その捜査に関わった幸平は、仲間の警官とともにその犯人である野犬を発見した。ところが、野犬というものは存外手強く、また人が想像する以上に危険性の高い生物である。徒手空拳で敵う相手ではない。幸平は仲間の警官とともに銃を抜き、合計十二発の弾丸を発砲した末に野犬を無力化した。要は野犬を射殺して事を収めたのである。
幸平は立派に職務を果たしたはずであったが、市民の中にはそれを快く思わない者もいた。野犬射殺のニュースが流れると、SNSやインターネット掲示板などでは「射殺」という対応を取った警察官をバッシングする動きが巻き起こった。それによって、彼の勤務する署にも頻繁に抗議の電話が寄せられるようになった。大方、少数の動物愛護にかぶれた偏狭な狂信者によるものであろうが、幸平はそのことを気に病んで参ってしまっていた。元々責任感の強い男であったからだろうか、自責の念に駆られて苦しんでいることは職場の誰の目にも明らかであった。
幸平にとってのただ一つの救いは、彼の勤務する署が、「拳銃の使用は正当なものである」として、本件における警官の行いを断固徹底して擁護したことであった。幸平が今も警察官であり続けられたのは、そうした署の断固たる姿勢に守られたというおかげもある。
だが、この一件の累は、残酷にも当時小学五年生になったばかりの息子の優李に及んだ。
「青野のお父さんが、犬を撃ち殺したらしい」
そのニュースはあっという間にクラス中に拡がった。ある日、彼が登校してくると、下駄箱に入っていた上履きに赤いマジックで、
「犬殺し」
と大きく書いてあった。優李の心が、急に冷え冷えとした。強烈な悪意を、その赤いインクから感じ取ったからだ。
そこに、同級生の男子生徒が三名、近づいてきていた。
「お前の父ちゃん、犬を銃で撃ち殺したんだろ!」
「犬殺し! 犬殺し!」
その蛮声を聞いて、優李の頭の中は真っ白になった。優李は何を言うでもなく、足早に彼の横を通り抜けていった。
それから、優李への苛烈な虐めが始まった。
机へ落書きをされる。いつの間にか物が無くなっている。上履きを隠される。そのようなことは日常茶飯事であり、直接的な暴行を加えられたことも多々あった。得てして子どもというのは弱肉強食の世界に生きており、彼のような小さく弱々しい生き物は被捕食側の弱者として逼塞を余儀なくされる。
結局、優李を虐める者たちは、都合の良い口実が欲しかっただけなのだ。「愛護精神」なる歪な盾を構えながら、正義の立場に立って一方的に攻撃を加える快感に、彼らは溺れているのである。
とうとう、苛烈な虐めに耐えかねて、優李は学校から足が遠のき、不登校になってしまった。
その年の夏のこと。青野一家に、突如父親の転勤という事情が舞い込んできた。赴任先は、東京都に幾つもある離島の一つ、網底島の駐在所であった。その島に、父は九月から配属されることとなったのである。
僻地への異動というとすぐに「左遷」の二文字をイメージされるが、実際にはそうではない。寧ろ、離島の駐在所などは一人で何でもこなせる優秀な者が配属される場所であり、将来の出世が見込まれる勤務地なのである。父親の勤務優秀ぶりが評価された結果の人事と言えよう。
実はこの島、優李の母である青野理子の故郷でもあった。島には高等学校が存在しないため、彼女は十五で島を出たのであるが、生まれてから義務教育卒業までをこの島で過ごしたのである。
そうして、一家は幸平の夏季休暇と優李の夏休みが重なる八月に、この島に移ることにしたのであった。
小柄で色白、それでいて中性的で何処か女の子めいた彼は、同級生たちに何かとからかわれることが多かった。彼はそういった場合、特に反発するでもなく、いつも薄笑いを浮かべながらごまかしていた。だが、彼のそういった対応は、
――こいつはやり返してこない。
というよからぬ学習を周囲にさせてしまっていたらしい。彼への誹謗中傷じみたからかいは、次第にエスカレートしていった。
それがさらに悪い方向へと傾いた。そのきっかけは、警察官である父親の、業務上のとある出来事であった。
優李の父親、青野幸平は東京都西部のとある警察署に勤務する警察官である。
彼が勤務する地域で、野犬が男性に噛みつき負傷させるという事件が起こった。その捜査に関わった幸平は、仲間の警官とともにその犯人である野犬を発見した。ところが、野犬というものは存外手強く、また人が想像する以上に危険性の高い生物である。徒手空拳で敵う相手ではない。幸平は仲間の警官とともに銃を抜き、合計十二発の弾丸を発砲した末に野犬を無力化した。要は野犬を射殺して事を収めたのである。
幸平は立派に職務を果たしたはずであったが、市民の中にはそれを快く思わない者もいた。野犬射殺のニュースが流れると、SNSやインターネット掲示板などでは「射殺」という対応を取った警察官をバッシングする動きが巻き起こった。それによって、彼の勤務する署にも頻繁に抗議の電話が寄せられるようになった。大方、少数の動物愛護にかぶれた偏狭な狂信者によるものであろうが、幸平はそのことを気に病んで参ってしまっていた。元々責任感の強い男であったからだろうか、自責の念に駆られて苦しんでいることは職場の誰の目にも明らかであった。
幸平にとってのただ一つの救いは、彼の勤務する署が、「拳銃の使用は正当なものである」として、本件における警官の行いを断固徹底して擁護したことであった。幸平が今も警察官であり続けられたのは、そうした署の断固たる姿勢に守られたというおかげもある。
だが、この一件の累は、残酷にも当時小学五年生になったばかりの息子の優李に及んだ。
「青野のお父さんが、犬を撃ち殺したらしい」
そのニュースはあっという間にクラス中に拡がった。ある日、彼が登校してくると、下駄箱に入っていた上履きに赤いマジックで、
「犬殺し」
と大きく書いてあった。優李の心が、急に冷え冷えとした。強烈な悪意を、その赤いインクから感じ取ったからだ。
そこに、同級生の男子生徒が三名、近づいてきていた。
「お前の父ちゃん、犬を銃で撃ち殺したんだろ!」
「犬殺し! 犬殺し!」
その蛮声を聞いて、優李の頭の中は真っ白になった。優李は何を言うでもなく、足早に彼の横を通り抜けていった。
それから、優李への苛烈な虐めが始まった。
机へ落書きをされる。いつの間にか物が無くなっている。上履きを隠される。そのようなことは日常茶飯事であり、直接的な暴行を加えられたことも多々あった。得てして子どもというのは弱肉強食の世界に生きており、彼のような小さく弱々しい生き物は被捕食側の弱者として逼塞を余儀なくされる。
結局、優李を虐める者たちは、都合の良い口実が欲しかっただけなのだ。「愛護精神」なる歪な盾を構えながら、正義の立場に立って一方的に攻撃を加える快感に、彼らは溺れているのである。
とうとう、苛烈な虐めに耐えかねて、優李は学校から足が遠のき、不登校になってしまった。
その年の夏のこと。青野一家に、突如父親の転勤という事情が舞い込んできた。赴任先は、東京都に幾つもある離島の一つ、網底島の駐在所であった。その島に、父は九月から配属されることとなったのである。
僻地への異動というとすぐに「左遷」の二文字をイメージされるが、実際にはそうではない。寧ろ、離島の駐在所などは一人で何でもこなせる優秀な者が配属される場所であり、将来の出世が見込まれる勤務地なのである。父親の勤務優秀ぶりが評価された結果の人事と言えよう。
実はこの島、優李の母である青野理子の故郷でもあった。島には高等学校が存在しないため、彼女は十五で島を出たのであるが、生まれてから義務教育卒業までをこの島で過ごしたのである。
そうして、一家は幸平の夏季休暇と優李の夏休みが重なる八月に、この島に移ることにしたのであった。
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