閨怨の夢

武州人也

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麦秀

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 晨風しんふうは、兄の仇と相対していた。その怨懣えんまんの籠った双眸で、目の前の女を睨みつけている。女の前にある死体は、彼女の新たな犠牲者であろう。
 晨風は懐から匕首あいくちを取り出し鞘から引き抜いた。
「笑わせる。わらわが人の子如きにどうして後れを取ろうか」
 女は晨風を見て、嘲弄ちょうろうした。耳を煩わす程の甲高い声であった。
「せっかく兄の仇に会えたのだ。今まさに報いを与えん」
 晨風は女の方へ歩み寄り、匕首を思い切り突き刺した。だが手応えはない。
 女の体は、霧のようになって消え失せていた。
「なるほど。ならこうするまで」
 晨風は懐から小さな壺を取り出すと、その中身を周囲に振り撒いた。それは透明な水であったが、撒いた矢先に、ぎゃっ、と悲鳴があがり、女は再び姿を現した。
「魔除けの水か、おのれ」
「俺が何の用意もなく虎の尾を掴むとでも思ったか」
 晨風は、そのまま匕首の切っ先を女の喉元にねじ込み。喉を掻き切った。鮮血が辺りに散らされ、女の瞳は光を失った。
 
 川で返り血を洗い流した晨風が向かった先は、魏恵国が麗暉のために建てた、あの屋敷であった。屋敷とはいっても、今や屋敷の跡と言った方が正しいような有様である。そこにあるのは僅かに残った外壁と、茂りに茂った雑草のみである。門はこぼたれ、庭は立ち枯れたすすきが茂り、内にある屋敷は、燃えてしまったのか、最早跡形もなくなっていた。
 この屋敷も、やはり戦火を免れ得なかったようであった。その上、誰にも顧みられず放って置かれて、このような見るも無残な様子になっていたのである。

 麦秀でて漸漸ぜんぜんたり 
 禾黍かしょ 油油ゆうゆうたり 
 狡童こうどうは 
 我とからず

 晨風は、その屋敷の跡を眺めながら、いんの忠臣箕子きしが歌ったとされる麦秀ばくしゅうの歌を引いて朗詠した。殷の紂王ちゅうおうが倒され周の天下になった後に、箕子はかつて殷の都である朝歌ちょうかの宮殿跡を訪れた。そこは一面麦の畑に変わっており、その耐え難い悲しみを歌ったものとされている。狡童というのは悪い子どもという意味であるが、ここで「の狡童」が指しているのは暴君で知られる紂王であると解釈され、歌の後半部分は箕子が紂王を諫めるも聞き入れられなかったことを言い表しているのだという。晨風がこの歌を引いたのは、暗に魏恵国を暴君紂王にたとえて謗る意図もあった。
「もしや、魔物を退治してくれたのは其方か」
 突然、声がした。成人した男の声であった。振り向くと、そこには壮年と思しき、眉目秀麗な長身の男が立っていた。
「如何にも」
 晨風は答えて言った。晨風には、その相手が誰であるか分かっていた。
「感謝など必要はない。お前を助けた訳ではないからだ」
 その男は、魏恵国その人であった。晨風にとっては、兄を連れ去った憎き男以外の何者でもない相手である。
「分かっている。君は私を恨んだあの麗暉の弟であろう」
「そうだ。お前が連れて行かなければ兄さんは……」
 晨風は、怒色を含んだ目で魏恵国を睨みつけた。魏恵国が麗暉を引き取った、あの日のように。
「返す言葉もない。けれども、これだけは言わせてほしい。私の魂はずっと過去を彷徨さまよっていた。君のお陰で私の魂は救われたのだ。恩に着る……」
「お前に感謝された所で兄さんは戻ってこない……戻ってこないんだよ」
 晨風はしゃくり上げそうになるのを必死でこらえた。この男の前でだけは涙を見せたくなかった。
「晨風、あまりその方を悪く言わないでほしいのです」
「……その声は……」
 空気が固まって形を作るようにして、魏恵国の隣に、もう一つの人影が現れた。
「兄さん……?」
 姿を現したのは、晨風の兄の麗暉であった。
「確かに僕は売られた身ですし、旦那さまは下心あって私を迎えた。これはその通りです」
 そう語る麗暉の顔は、悲しむでも怒るでもなかった。至極穏やかな、慈母のような表情であった。
「ああ、本当にすまない……私のせいで其方は死なねばならなかったのだ。恨まれても仕方ない」 
「けれども旦那さまは僕を大切に扱ってくれました。決して奴僕などではありません。まぁ、初めての夜は大分苦しかったのですけれどもね」
 言いながら、麗暉は恥じ入るように頬を染めていた。魏恵国はまるで自らの恥部を開示されたかのようにばつの悪そうな顔をしていたし、晨風はいけないことを聞いたような気がして顔を赤くしていた。
「でも、僕からも言わせてほしい。晨風、ありがとう」
 それを聞いて、晨風の目からは一筋の涙が零れ落ちた。
「僕が死んだのもそうだけど、旦那さまもあれのせいでずっと苦しんでたみたいだから」
「兄さん!俺は……」
 晨風は、その先が言えなかった。晨風は、感極まって、麗暉に抱きつこうとした。しかし、その両腕は、虚しく空を切ったのであった。
「ごめんね。僕も旦那さまも、もうこの世の人ではないから」
 そう言って、麗暉と魏恵国の二人は、霧のようになってかき消えてしまった。
 一人残された晨風は、顔に残った涙のすじを拭った。いつの間やら雲は晴れ、鮮やかな夕陽が空をくれないに染めていた。
 
 麦秀でて漸漸ぜんぜんたり 
 禾黍かしょ 油油ゆうゆうたり 
 狡童こうどうは 
 我とからず

 麦秀の歌を口ずさみながら、晨風は、屋敷の跡を立ち去った。
 晨風は、在りし日の、兄との思い出を想起していた。川で魚の釣り方を教えてもらったこと、悪童と喧嘩をして帰ってきた時に慰めてくれたこと、腹を空かした自分のために、こっそり飯を少し分けてくれたこと――それらは全て今となっては、年月を経るごとに擦り切れて不明瞭なものとなった、ほぼ幻に近いものであったが、有為転変ういてんぺんの世にあっても、片時も忘れなかった。
 清風が吹き寄せ、枯草がそよいだ。晨風は、その髪を風に靡かせながら、夕陽を背に歩いて行った――
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みんなの感想(1件)

花菊 芥子(カキク ケコ)

中国情緒と胸が掻き乱されるような切なさがとても好みでした。美少年受けが好きで読み始めたのですが、どんな結末を迎えるか気になって一気に読んでしまいました。このような素敵な小説を読ませていただいて、本当にありがとうございます。

武州人也
2022.03.27 武州人也

ありがとうございます。気に入っていただけて光栄です!

解除

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