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慷慨
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魏恵国は、屋敷に籠ったまま忽然と姿を消し、その足取りは、ついぞ掴めず仕舞いとなった。彼の商売を引き継いだ弟は、結局数年して倒産の憂き目に遭ったが、肆を畳んで郷里に帰ったその後に、都を安碌山の反乱軍が襲った。期せずして、彼は戦火を逃れた形になった。人間万事塞翁が馬とはこのことである。
大燕皇帝を名乗った安禄山の軍隊は、破竹の勢いで各地を占領していった。その過程で、多くの人々が戦火の内に己の命を落とした。後世には安史の乱と呼ばれるこの反乱だが、その終結までに世界人口の六分の一にあたる数の死者が出たというのだから、如何に反乱が凄まじいものであったかが分かるというものである。
この大反乱によって憂き目を見た者の一人に、盛唐時代を代表する詩人の杜甫がいる。漢の武帝に仕えた酷吏の杜周を先祖とする彼は長安で安禄山の軍に捕まり、何とか脱出するも、実家は貧窮し、子どもが餓死するほどであった。彼は南方の蜀へ逃れ、そのまま長安に戻ることなくその生涯を閉じた。かの有名な「国破れて山河在り 城春にして草木深し」の句で知られる春望は、安禄山の軍隊に監禁され、家族と別離したままその消息も知れなかった頃に詠んだものである。
その他、杜甫と並んでその名が知られる李白も、永王李璘に従ったが為に、反乱軍と戦うはずが官軍によって賊軍扱いされて捕らえられてしまった。捕まった李白は、西南の夜郎(この地には元々、西南夷と呼ばれる国々の中でもっとも大国であった夜郎国があった場所である。夜郎自大という成語は、漢の武帝の派遣した使者に対して、漢の大きさを知らない夜郎王が「漢と我と孰れが大なるか」と言い放ったことに由来している)に流された。「早に白帝城を発つ」という詩は、その後に罪を許されて江南へ下る時の作と言われている。
結局、安禄山と、その反乱を引き継いだ部下の史思明は暗殺され、新皇帝代宗によって乱は取り敢えずの終結を見たが、東洋の大国たる唐の落日は明らかとなった。
とにもかくにも、この反乱が社会に与えた影響は、推察するだに余りあるものがあろう。
※
安史の乱が終結してから、百年の月日が流れた。
曇天の下、長安の郊外を、一人の少年が歩いていた。秀麗な目鼻立ちに雪の如くに白い肌、艶のある前髪を横一文字に切り揃えた姿は、あの麗暉にそっくりであった。違うのは、何処となくその顔貌に温柔な所のあった麗暉に対して、この少年は目元に峻烈なものを感じさせる所にあった。
だが、そもそも、麗暉や魏恵国のことなど、誰も知る者はない。文選の無名詩に「去る者は日々に疎し」という詩句があるが、あれほどの財を成した魏恵国さえ、最早誰の口にも登らなかったし、彼に寵愛された美少年の麗暉もまた同様であった。
少年の足は、松や柏の林の中に佇立している小屋の前で止まった。
「見つけたぞ」
その戸を乱暴に開け放った少年は、中に向けて言い放った。
中にいたのは、景教の僧侶の恰好をした女であった。彼女の前には、腹を食い破られた、若い男の死体があった。
「役人、ではないようですね。はて、何事でございましょうか」
不気味な程に甲高い声で、女は答えて言った。
「貴様のつまらぬ奸計のせいで俺の兄が死んだのだ。どうして許しおくことが出来ようか」
「ほほほ、そのようなこと、とうの昔に忘れてしまいましたわ」
「貴様が忘れようとも、俺はこの百年片時も忘れなかった」
少年は、あの麗暉の弟であり、名を晨風といった。両親が兄を売ったことに憤激して家を飛び出した彼は、暫くあてもなく彷徨していたが、結局は親元へ戻った。戻った彼と両親の間は頗る気まずかった。
暫くして、麗暉が死に、彼を引き取った大商人の魏恵国なる男が行方知れずとなったことを知った。魏恵国の如き貪婪な商賈のことなどどうでもよい。しかし、麗暉が年若くしてその命を散らさねばならなかったことは、悲嘆の念に堪えなかった。彼を売り渡した両親さえ、そのことを知って涙したのであるから、兄を慕っていたこの弟がどれほど悲憤したかは、自ずから分かろうというものである。
晨風は血の混じるような悲鳴をあげながら、滅茶苦茶に野を走った。走って、走って、疲れ果てて野に伏すまで走った。何処ぞとも知れぬ川の畔の草の上で伏すと、疲労が彼の全身に圧し掛かって来た。四体萎えて動かぬ晨風は、空を仰ぎ見た。木々の枝葉の間から、柔らかな木洩れ日が差していた。仰向けになった晨風の顔に、一片の落英が落ちてきた。
晨風が跳ね起きると、そこは、全く見たこともない土地であった。左右を見渡すと、そこは、桃李の花が咲き乱れ、澄んだ川に魚が跳ねる美しい里であった。
晨風はその里で、鄒と名乗る老爺に出会った。衡茅を住まいに身一つで暮らしている老爺であった。
鄒老師は、まるで晨風のことを待ち受けているようでさえあった。
「まぁ取り敢えずそこに座れ。腹も減ったろう」
老師は晨風を居間に招くと、焼いた川魚を振舞ってくれた。空腹の晨風は、あっという間にその魚を平らげてしまった。
「さて、いきなりで悪いが、伝えねばならぬことがある。其方の兄は魔物の奸計に利用されて死んだ」
老師はそう言った。老師は、縷々面々と、何故麗暉が死なねばならなかったかということを語った。言う所によれば、下手人は西方からやってきた、仙術擬きを身に付けた低級の魔物であるという。人食いの魔物でありながら低級故に魂と一体となった人間を糧とすることが出来ないそれは、まず麗暉を奇術で殺害し、悲しみに暮れる魏恵国に言い寄って、その魂を肉体と分離させ、そして食らったのだという。
「どうだ、一つ、この化け物を退治してはくれぬか」
老師の提案を拒む選択肢は、晨風にはなかった。
晨風は不死の霊薬を賜ると共に、魔物と戦う力を身につけた。そして里から送り出された晨風は、かつての兄のように前髪を横一文字に切り揃え、兄の仇を探す旅に出た。自身の非力を理解しているこの魔物は狡猾で、中々尻尾を出さなかった。そうこうしている内に安史の乱が起こり、晨風はその破壊と殺戮の嵐から逃れ、逼塞を余儀なくされた。
そうして、魔物を探すこと幾星霜、とうとうその尻尾を掴んだということであった。
大燕皇帝を名乗った安禄山の軍隊は、破竹の勢いで各地を占領していった。その過程で、多くの人々が戦火の内に己の命を落とした。後世には安史の乱と呼ばれるこの反乱だが、その終結までに世界人口の六分の一にあたる数の死者が出たというのだから、如何に反乱が凄まじいものであったかが分かるというものである。
この大反乱によって憂き目を見た者の一人に、盛唐時代を代表する詩人の杜甫がいる。漢の武帝に仕えた酷吏の杜周を先祖とする彼は長安で安禄山の軍に捕まり、何とか脱出するも、実家は貧窮し、子どもが餓死するほどであった。彼は南方の蜀へ逃れ、そのまま長安に戻ることなくその生涯を閉じた。かの有名な「国破れて山河在り 城春にして草木深し」の句で知られる春望は、安禄山の軍隊に監禁され、家族と別離したままその消息も知れなかった頃に詠んだものである。
その他、杜甫と並んでその名が知られる李白も、永王李璘に従ったが為に、反乱軍と戦うはずが官軍によって賊軍扱いされて捕らえられてしまった。捕まった李白は、西南の夜郎(この地には元々、西南夷と呼ばれる国々の中でもっとも大国であった夜郎国があった場所である。夜郎自大という成語は、漢の武帝の派遣した使者に対して、漢の大きさを知らない夜郎王が「漢と我と孰れが大なるか」と言い放ったことに由来している)に流された。「早に白帝城を発つ」という詩は、その後に罪を許されて江南へ下る時の作と言われている。
結局、安禄山と、その反乱を引き継いだ部下の史思明は暗殺され、新皇帝代宗によって乱は取り敢えずの終結を見たが、東洋の大国たる唐の落日は明らかとなった。
とにもかくにも、この反乱が社会に与えた影響は、推察するだに余りあるものがあろう。
※
安史の乱が終結してから、百年の月日が流れた。
曇天の下、長安の郊外を、一人の少年が歩いていた。秀麗な目鼻立ちに雪の如くに白い肌、艶のある前髪を横一文字に切り揃えた姿は、あの麗暉にそっくりであった。違うのは、何処となくその顔貌に温柔な所のあった麗暉に対して、この少年は目元に峻烈なものを感じさせる所にあった。
だが、そもそも、麗暉や魏恵国のことなど、誰も知る者はない。文選の無名詩に「去る者は日々に疎し」という詩句があるが、あれほどの財を成した魏恵国さえ、最早誰の口にも登らなかったし、彼に寵愛された美少年の麗暉もまた同様であった。
少年の足は、松や柏の林の中に佇立している小屋の前で止まった。
「見つけたぞ」
その戸を乱暴に開け放った少年は、中に向けて言い放った。
中にいたのは、景教の僧侶の恰好をした女であった。彼女の前には、腹を食い破られた、若い男の死体があった。
「役人、ではないようですね。はて、何事でございましょうか」
不気味な程に甲高い声で、女は答えて言った。
「貴様のつまらぬ奸計のせいで俺の兄が死んだのだ。どうして許しおくことが出来ようか」
「ほほほ、そのようなこと、とうの昔に忘れてしまいましたわ」
「貴様が忘れようとも、俺はこの百年片時も忘れなかった」
少年は、あの麗暉の弟であり、名を晨風といった。両親が兄を売ったことに憤激して家を飛び出した彼は、暫くあてもなく彷徨していたが、結局は親元へ戻った。戻った彼と両親の間は頗る気まずかった。
暫くして、麗暉が死に、彼を引き取った大商人の魏恵国なる男が行方知れずとなったことを知った。魏恵国の如き貪婪な商賈のことなどどうでもよい。しかし、麗暉が年若くしてその命を散らさねばならなかったことは、悲嘆の念に堪えなかった。彼を売り渡した両親さえ、そのことを知って涙したのであるから、兄を慕っていたこの弟がどれほど悲憤したかは、自ずから分かろうというものである。
晨風は血の混じるような悲鳴をあげながら、滅茶苦茶に野を走った。走って、走って、疲れ果てて野に伏すまで走った。何処ぞとも知れぬ川の畔の草の上で伏すと、疲労が彼の全身に圧し掛かって来た。四体萎えて動かぬ晨風は、空を仰ぎ見た。木々の枝葉の間から、柔らかな木洩れ日が差していた。仰向けになった晨風の顔に、一片の落英が落ちてきた。
晨風が跳ね起きると、そこは、全く見たこともない土地であった。左右を見渡すと、そこは、桃李の花が咲き乱れ、澄んだ川に魚が跳ねる美しい里であった。
晨風はその里で、鄒と名乗る老爺に出会った。衡茅を住まいに身一つで暮らしている老爺であった。
鄒老師は、まるで晨風のことを待ち受けているようでさえあった。
「まぁ取り敢えずそこに座れ。腹も減ったろう」
老師は晨風を居間に招くと、焼いた川魚を振舞ってくれた。空腹の晨風は、あっという間にその魚を平らげてしまった。
「さて、いきなりで悪いが、伝えねばならぬことがある。其方の兄は魔物の奸計に利用されて死んだ」
老師はそう言った。老師は、縷々面々と、何故麗暉が死なねばならなかったかということを語った。言う所によれば、下手人は西方からやってきた、仙術擬きを身に付けた低級の魔物であるという。人食いの魔物でありながら低級故に魂と一体となった人間を糧とすることが出来ないそれは、まず麗暉を奇術で殺害し、悲しみに暮れる魏恵国に言い寄って、その魂を肉体と分離させ、そして食らったのだという。
「どうだ、一つ、この化け物を退治してはくれぬか」
老師の提案を拒む選択肢は、晨風にはなかった。
晨風は不死の霊薬を賜ると共に、魔物と戦う力を身につけた。そして里から送り出された晨風は、かつての兄のように前髪を横一文字に切り揃え、兄の仇を探す旅に出た。自身の非力を理解しているこの魔物は狡猾で、中々尻尾を出さなかった。そうこうしている内に安史の乱が起こり、晨風はその破壊と殺戮の嵐から逃れ、逼塞を余儀なくされた。
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