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空房
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亡骸の前で、男は哭泣していた。
男の名は魏恵国という。長安の西市では、名の知れた豪商である。布衣蔬食の身から一代で巨万の富を築き、長安の西市でその名を知らぬ者はないという地位にありながら愛妾どころか妻の一人さえ持たなかった男が唯一愛したのが、この目の前の物言わぬ骸であった。
この亡骸は、生きている間の名を麗暉と言った。透き通るような氷肌と、流眄をすれば国さえ傾けんばかりの美しい目をした、誰もが羨む天与の麗質を持った美少年であった。
麗暉は、魏恵国が貧しい彼の両親に財物を与えたことで、買い取られるような形でこの豪商のかげまとなった。かの豪商のこの少年を愛することは甚だしく、惜しみなく財を投じて煌びやかに飾った屋敷を立て、そこで彼を存分に愛でたのである。そのことは忽ちに長安中の人々の知る所となり、「龍陽」「断袖」などという古の男色の故事が、盛んに人の口に乗るようになった。勿論魏恵国自身は、そのようなことなど歯牙にもかけなかった。
麗暉が魏恵国に仕えてから、数えて二年目の秋であった。
彼は突然、姿を消した。人をやって探させた所、草葉の上で冷たくなっている彼が発見された。外傷などもなかったため何が原因なのかは全く分からず、途方に暮れるしかなかった。ただ一つ分かっている事実は、麗暉がその短い生涯を閉じたということだけである。
魏恵国は彼の亡骸を葬った。途端に、世の中が虚しく思えた。どれだけ財を成したとて、麗暉が帰ってくるようなことはない。寵童を失った魏恵国の様子はまるで、涙と共に心胆さえ抜け出てしまったかのようであった。
長夜 何ぞ冥冥たる
一たび往きて復た還らず
黄鳥 為に悲鳴す
哀しいかな 肺肝を傷ましむ
魏恵国は、麗暉のために立てた屋敷の前で、曹魏の曹植の詩を引いて、ただ一人、その死への悲嘆を吐露した。
日は傾き、秋の夜闇が、空を覆い始める。秋風蕭瑟として天気涼し、と詠んだのは曹魏の文帝曹丕であるが、秋の夕風の冷たさは、魏恵国の心中に走る罅隙を吹き抜けて、その奥底を冷気で苛むようであった。庭に植えられた槐の枝葉が風に揺られて立てる音が、寂寞の念をより一層掻き立てる。
魏恵国は屋敷の中の寝室に入った。この場所で、彼は麗暉に大いに愛を与えたが、今はもう、空谷が如き静けさを保っているのみである。温麗な帳の内側で、歓楽に我を忘れた夜のことを思い出す。あの頃は、夜の終わりを告げる朝霞暁星を怨んだものであった。
戚戚として遥悲を抱きながら、これから生きねばならないことを思うと、その虚しさは推察するに余りあるものである。魏恵国は、まるで麗暉の残り香を嗅ぐように、床に臥せって瞼を閉じた。
それからというもの、魏恵国は、商売を全て弟に一任し、例の屋敷に籠って出てこなくなった。弟は人をやって様子を見させたところ、あまりの悲しみに飯が喉を通らないようで、日に日にその痩容は甚だしさを増していった。
「兄者」
弟自らが出向いた時、魏恵国は寝室の中で、呆けた表情をしながら天井を見つめていた。殷の紂王を武力で倒した周の武王を非難し、周粟を食むを拒んで首陽山に幽隠し、薇を食らいながら餓死した伯夷叔斉の如き痩容に、弟は肌が粟立つのを覚え、その場を立ち去りたくなった。
「ああ、お前か」
そう答えた魏恵国の声は、実に力ないものであった。半ば幽鬼と化しているのでは、と思わせるほど、生気の感じられない声であった。いや、声ばかりではない。青白い顔、落ちくぼんだ目、枝のような細腕、それらが彼の生命力のなさを言外に語っている。以前の兄は晋の文人潘岳にも肩を並べよう程の紅顔の美男子であったのだが、その面影は最早どこにも求めようがなかった。
古の時代より、財を誇る者は皆愛妾を抱えたりしたもので、一夫一婦は貧者の象徴として扱われたものであるが、魏恵国は女というものに全くの関心を示さなかった。
孟子に「不孝に三有り、後無きを大とす」という言葉がある。親不孝には三つあるが、そのうちでは跡継ぎを残さないことが最も重い不孝であるということだ。それに敢えて背こうというのだから、不孝の誹りを受けたとしても代えがたいものがあったということである。
魏恵国は、厳密に言えば全く妻というものを持たなかったわけではない。彼が二十の頃、同郷の娘を嫁として迎えたが、些細なことから仲違いをしたようで、程なくして離縁した。それ以降は知っての通りである。「一人の元妻で女全てを知った気になるものではない」と人に諭されても、彼は頑として聞く耳を持たなかった。
弟はずっと、この兄の本性を測りかねていた。であるから、兄が麗暉なる美少年を寵愛したことで、ああ、そういうことか、と腑に落ちた。兄も結局は人であったのだ。ただ、男が女に向けるそれを、兄は美少年に向けるだけのことであったのだ、と。
憐れなことに、兄はその亡き少年への愛ゆえに、今まさにその身を滅ぼそうとしていた。傾国傾城――中華の悠久の歴史においてそう呼ばれる者は少なくない。例えば、夏の桀王は妹喜を愛し商の紂王は妲己《だっき》を愛したが為に亡国の憂き目を見たのである。麗暉の美は、そういった亡国の妖を湛えた、危険な美を漂わせていたように思えた。
男の名は魏恵国という。長安の西市では、名の知れた豪商である。布衣蔬食の身から一代で巨万の富を築き、長安の西市でその名を知らぬ者はないという地位にありながら愛妾どころか妻の一人さえ持たなかった男が唯一愛したのが、この目の前の物言わぬ骸であった。
この亡骸は、生きている間の名を麗暉と言った。透き通るような氷肌と、流眄をすれば国さえ傾けんばかりの美しい目をした、誰もが羨む天与の麗質を持った美少年であった。
麗暉は、魏恵国が貧しい彼の両親に財物を与えたことで、買い取られるような形でこの豪商のかげまとなった。かの豪商のこの少年を愛することは甚だしく、惜しみなく財を投じて煌びやかに飾った屋敷を立て、そこで彼を存分に愛でたのである。そのことは忽ちに長安中の人々の知る所となり、「龍陽」「断袖」などという古の男色の故事が、盛んに人の口に乗るようになった。勿論魏恵国自身は、そのようなことなど歯牙にもかけなかった。
麗暉が魏恵国に仕えてから、数えて二年目の秋であった。
彼は突然、姿を消した。人をやって探させた所、草葉の上で冷たくなっている彼が発見された。外傷などもなかったため何が原因なのかは全く分からず、途方に暮れるしかなかった。ただ一つ分かっている事実は、麗暉がその短い生涯を閉じたということだけである。
魏恵国は彼の亡骸を葬った。途端に、世の中が虚しく思えた。どれだけ財を成したとて、麗暉が帰ってくるようなことはない。寵童を失った魏恵国の様子はまるで、涙と共に心胆さえ抜け出てしまったかのようであった。
長夜 何ぞ冥冥たる
一たび往きて復た還らず
黄鳥 為に悲鳴す
哀しいかな 肺肝を傷ましむ
魏恵国は、麗暉のために立てた屋敷の前で、曹魏の曹植の詩を引いて、ただ一人、その死への悲嘆を吐露した。
日は傾き、秋の夜闇が、空を覆い始める。秋風蕭瑟として天気涼し、と詠んだのは曹魏の文帝曹丕であるが、秋の夕風の冷たさは、魏恵国の心中に走る罅隙を吹き抜けて、その奥底を冷気で苛むようであった。庭に植えられた槐の枝葉が風に揺られて立てる音が、寂寞の念をより一層掻き立てる。
魏恵国は屋敷の中の寝室に入った。この場所で、彼は麗暉に大いに愛を与えたが、今はもう、空谷が如き静けさを保っているのみである。温麗な帳の内側で、歓楽に我を忘れた夜のことを思い出す。あの頃は、夜の終わりを告げる朝霞暁星を怨んだものであった。
戚戚として遥悲を抱きながら、これから生きねばならないことを思うと、その虚しさは推察するに余りあるものである。魏恵国は、まるで麗暉の残り香を嗅ぐように、床に臥せって瞼を閉じた。
それからというもの、魏恵国は、商売を全て弟に一任し、例の屋敷に籠って出てこなくなった。弟は人をやって様子を見させたところ、あまりの悲しみに飯が喉を通らないようで、日に日にその痩容は甚だしさを増していった。
「兄者」
弟自らが出向いた時、魏恵国は寝室の中で、呆けた表情をしながら天井を見つめていた。殷の紂王を武力で倒した周の武王を非難し、周粟を食むを拒んで首陽山に幽隠し、薇を食らいながら餓死した伯夷叔斉の如き痩容に、弟は肌が粟立つのを覚え、その場を立ち去りたくなった。
「ああ、お前か」
そう答えた魏恵国の声は、実に力ないものであった。半ば幽鬼と化しているのでは、と思わせるほど、生気の感じられない声であった。いや、声ばかりではない。青白い顔、落ちくぼんだ目、枝のような細腕、それらが彼の生命力のなさを言外に語っている。以前の兄は晋の文人潘岳にも肩を並べよう程の紅顔の美男子であったのだが、その面影は最早どこにも求めようがなかった。
古の時代より、財を誇る者は皆愛妾を抱えたりしたもので、一夫一婦は貧者の象徴として扱われたものであるが、魏恵国は女というものに全くの関心を示さなかった。
孟子に「不孝に三有り、後無きを大とす」という言葉がある。親不孝には三つあるが、そのうちでは跡継ぎを残さないことが最も重い不孝であるということだ。それに敢えて背こうというのだから、不孝の誹りを受けたとしても代えがたいものがあったということである。
魏恵国は、厳密に言えば全く妻というものを持たなかったわけではない。彼が二十の頃、同郷の娘を嫁として迎えたが、些細なことから仲違いをしたようで、程なくして離縁した。それ以降は知っての通りである。「一人の元妻で女全てを知った気になるものではない」と人に諭されても、彼は頑として聞く耳を持たなかった。
弟はずっと、この兄の本性を測りかねていた。であるから、兄が麗暉なる美少年を寵愛したことで、ああ、そういうことか、と腑に落ちた。兄も結局は人であったのだ。ただ、男が女に向けるそれを、兄は美少年に向けるだけのことであったのだ、と。
憐れなことに、兄はその亡き少年への愛ゆえに、今まさにその身を滅ぼそうとしていた。傾国傾城――中華の悠久の歴史においてそう呼ばれる者は少なくない。例えば、夏の桀王は妹喜を愛し商の紂王は妲己《だっき》を愛したが為に亡国の憂き目を見たのである。麗暉の美は、そういった亡国の妖を湛えた、危険な美を漂わせていたように思えた。
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