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第6話 ヒグマ対ムカデ

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 二人の少年は、純白のムカデを前にして、ただただ正気を失い見惚れていた。

 ムカデは体の下部を地中に埋没させたまま、じっとヒグマを見下ろしている。ヒグマの方も、巨大なムカデを相手に臆することなく立ち上がり威嚇した。
 先に仕掛けたのは、ヒグマの方であった。ヒグマはムカデに突進して右腕を振りかぶり、鋭い爪のついた右手でムカデを引っ掻いた。人間が食らえばひとたまりもない攻撃だ。
 しかし、その爪の一撃は空を切った。突進するヒグマを前にして、ムカデはまるでモグラのように地面へと引っ込んでしまったのだ。
 ヒグマは目を怒らせ、鼻を鳴らしながら首を振って地面を眺めまわしていた。ヒグマは嗅覚に優れており、これを頼りに消えた巨大ムカデを探しているのだろう。このヒグマに逃走という選択肢はないらしい。自分よりも大きな怪物にさえ立ち向かうのだから凶暴もいいところである。
 その時、突然地面がぐらぐらと大きく鳴動した。そして、ムカデは予想外の場所から姿を現した。

 なんと、ムカデはヒグマの真下から現れたのである。

 ヒグマを真下から突き上げたムカデは、自らの牙でヒグマの筋肉質な肉体をがっちりと掴み、そのまま自分の細長い体をぶるんぶるんと振るって振り回した。ムカデに捕まったヒグマは空中で脚をじたばたさせていたが、ムカデは構わず三周ほど大きく振り回した後、そのまま藪の方へと放り投げてしまった。
 
 そして、ムカデの首が、ぐるりと少年たちの方に向けられた。この時、硬直していた二人の体が、ようやく動くようになった。

「クソッ!」

 ゼルエはライフルを構えて発砲した。銃弾は見事ムカデの腹に命中したが、貫通はしていない。どうやらこのムカデ、素早いだけでなく硬さもあるようだ。このサイズのムカデの外骨格ともなれば、銃弾程度では貫徹できないほどの強度があるのだろう。

「……駄目だ。逃げよう」

 ゼルエは咄嗟にロジェの手を掴み、全力で逃げ出した。もうとにかく、この場を離れなければならない。そう瞬時に判断したのだ。
 ムカデの方は、頭を少年たちの方に向けながら、ずるり、と地面から這い出した。これまで体の半分は地面に埋まったままであったが、ここでムカデは全身を空の下に晒したのである。
 地中から抜け出たムカデは、たくさんの脚を波打たせながら、地を這って追いかけてきた。積もった雪の上を、ざくざくざくざくと二十一対の脚が蹴り上げて進んでいる。

「うわっ! 追ってきた!」

 後ろを振り向いたロジェは、猛烈な速さでムカデが追ってきているのを見てしまった。このムカデには、明確にこちらを襲う意志がある……そう思うと、ヒグマ以上に恐ろしい相手であった。ヒグマを牙でつまんで放り投げてしまうような、物凄い力を持つ化け物だ。その上銃弾でも貫けない硬い鎧をまとっている。まさに完全無欠のモンスターであった。
 いよいよ、ムカデがロジェの背中に追いつこうとしていた、その時のことであった。
 ワン! という、聞き覚えのある吠え声が少年二人の耳に届いた。

「チェロル!」

 ゼルエとロジェ、二人の声が重なった。チェロルは雪を蹴り上げて横合いから猛然とムカデに突進し、巨大ムカデの頭部から伸びる触覚の片方に噛みついた。
 ムカデは頭をぶんぶんと振って、チェロルを振り落とそうとした。だがチェロルの白い牙はがっちりと触覚に食らいついていて離さない。やがて、ぶち、という音とともに、ムカデの触覚が一本、食いちぎられた。
 チェロルは触覚を咥えたまま地面に着地し、ぺっと触覚を吐き捨てた。ムカデは触覚を食いちぎられた部分から白い汁をまき散らしてもだえ苦しんでいる。体は硬いが、触覚のような細長く突き出たものは流石に耐久力が低いようだ。

 そのムカデが、反撃に出た。まるでヘビのように鎌首をもたげ、チェロルを見下ろすような形となったムカデは、その口から真っ白いガスを噴霧したのだ。チェロルの体は、たちまち白いガスに覆われて見えなくなった。
 ガスが霧散すると、そこにはただ雪の上に横向きに倒れたチェロルの姿があった。

「チェロル! クソッ! こいつめ!」

 立て続けに、銃声が響いた。ゼルエが発砲したのだ。この年若い美丈夫はぎりぎりと歯を食いしばり、必死の形相で銃弾を撃ち込んでいた。ムカデの外骨格を貫くことこそできないが、流石にムカデの体内に衝撃は届いているのであろう。ムカデの注意が、ゼルエの方を向いた。

「俺が注意を逸らす! ロジェはチェロルを連れて帰れ!」
「で、でも!」
「早く!」

 ロジェは黙ってうなずくと、素早くムカデに接近し、チェロルの体を抱きかかえた。ゼルエは恐らく不退転の決意をしている、それを止めるのは不可能だ、と、ロジェは察したのである。
 チェロルの体は、ぞっとするほどに冷たく、そして半ば凍りついていた。あのガスはどうやら、浴びたものを凍らせてしまうらしい。先ほどあの洞窟で見た獣や人の冷凍死体は、もしかしたらムカデのガスによってああいう風になり果てたのかも知れない……ロジェは走りながらそう考えていた。

 雪原の上を、ロジェはただ一人走り続けた。雪を蹴り、藪をかき分け、曇り空の下で時折吹き寄せる冷たい風にもめげずに走り続けた。雪の上を走るのは慣れているが、それでも足を取られないように走るのは肉体的につらいものがある。けれども立ち止ることはできない。細い太ももが悲鳴を上げそうになっても、ロジェは足を止めなかった。
 途中、何度も後ろを振り向きたくなった、が、この少年はそうしなかった。振り向いてしまったら、見てはいけないものを見てしまいそうであったから……だから、振り向くことなく走り続けた。
 ムカデは、ロジェの背中を追ってこなかった。山小屋からさほど離れなかったことも幸いして、ロジェは無事に小屋に帰ることができた。

 ロジェは暖炉の火でチェロルを温めながら、残してきたゼルエのことを思っていた。
 ロジェは、ゼルエのことを信じていた。ゼルエは僕よりもずっと強くて頼もしい男なのだから、よもや彼が死ぬことはあるまい……という絶対の信頼は、こうしている間でも変わらない。けれども、心の中にちらと、疑念の影が見え隠れしている。ゼルエは僕と飼い犬を逃がして、一人死ぬるつもりでいるのだ……そう思うと、恐ろしくて仕方がない。ゼルエが死ぬ……そのような想像は、冬の寒さよりもずっと、ロジェの心胆を寒からしめた。

(祖先の霊よ、どうか……どうか僕の良き友をお助けください)

 ロジェはずっと祈り続けていた。自分を加護する祖先の霊たちに、ゼルエの無事を祈願した。困った時の神頼みとはよく言ったもので、自分の力ではどうにもできない出来事に直面した時、人間は超常的なものに頼るより他はなくなるのである。「彼が死ぬのではないか」という疑念の影は、祈る時間に比例するかのように膨れていった。
 暖められたチェロルは、いつの間にか四本脚で立てるようになっていた。あの冷凍ガスを浴びても、即死はしないらしい。チェロルは助かったのだ。あとは、この犬の飼い主……ゼルエの無事を祈るだけであった。
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