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第5話 ヒグマ襲来
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ユキウサギは背の高い草本がまばらに生える茂みの方に入っていった。それを追って、ゼルエとロジェは茂みをかきわけていく。チェロルにはまたしても回り込みをかけさせようと別の道を行かせている。
いつの間にか空には鉛色の雲が立ち込めていて、あれほど輝いていた太陽はすっかり隠されてしまっていた。ゼルエもロジェも、雪が降らないように祈りながら先を急いだ。
その茂みを抜けた先には川があった。ゼルエは視線を左右させたが、ユキウサギの姿はない。思ったより、ユキウサギは遠くへ移動しているようだ。
川の上流に向かって、ゼルエはずんずん歩いていく。ロジェの方はその背を追うので精一杯であった。
そのゼルエが、急に立ち止まった。
「どうした?」
「……ロジェ、動いたらだめだ」
ゼルエはロジェの方を一切振り向かずに答えた。ゼルエはじっと何かを睨みつけたまま、まるで硬直したかのようにじっとしている。
ゼルエの向く方向……そこにいたのは、一頭の大きなヒグマであった。
ロジェの頭の中は、恐怖で埋め尽くされた。ヒグマはこの島で最も強く、最も危険な動物だ。セーレル島の住民にとって、ヒグマはまさしく恐怖の象徴たる存在である。
それでもすぐに逃げ出さなかったところに、この太子の理知がある。ヒグマは逃げるものを見ると狩猟本能が刺激され、追いかける習性がある。だから、ヒグマに背を向けて逃走するのは悪手であり、古くから固く戒められてきたことであった。
ゼルエも、ロジェも、じっとヒグマの方を見つめていた。ヒグマと出会った時にとるべき行動は、ヒグマと目を合わせながら少しずつ後退することだ。
ゼルエはじりじり後ずさりながら、ライフルを構えている。いざ向かってきた時にすぐ発砲できるようにするためだ。しかし銃があっても、急所を外せばヒグマを無力化できない。二人の少年は、ヒグマが二人を警戒して去ってくれることを願った。
だが、そんな願いに反して、ヒグマは四つ足で雪を蹴り、二人に向かってきた。
雪の降り積もる時期に冬眠することなく出歩いているヒグマはいわゆる「穴持たず」である。普段のヒグマは警戒心が強く、人間と出会ってもそう軽率に手出しをしない傾向にある。しかし「穴持たず」は別だ。餌になりそうなものであれば手当たり次第襲い掛かる。そんな「穴持たず」にとって、少年二人は餌でしかない。
ぱぁん、と、乾いた音が響き渡った。銃声だ。ゼルエがヒグマに向かって発砲したのだ。もうこうなれば戦うしかない。この見習い狩人の咄嗟の判断であった。
銃弾が命中したのか、ぱっと鮮血が散り、ヒグマが怯んだ。だが仕留め切れてはいないようである。
ゼルエはロジェの手を引いて走った。今の内に、なるべくヒグマから遠ざからねばならない。ゼルエは樹木などの遮蔽物が多く、見通しの悪い場所をなるべく選んで入り込んだ。少しでもヒグマをかく乱し、自分たちを見失わせる可能性を上げるためだ。
そうして暫く走った二人は、岩の壁面にぽっかりと空いている穴を発見した。どうやら、こんな所に洞窟があるようである。
「……入ろう。ロジェ」
洞穴は広く、二人は何なく入ることができた。この広さは身を隠すには若干不都合ではあったが贅沢を言ってはいられない。
奥まで歩くと、ゼルエの足が何かを蹴飛ばした。入り口が広いお陰で、ごろりと転がったそれを確認できる程度には光が差している。
ゼルエが蹴ったそれは、一頭のシカであった。どうやら冷やされて凍っているようで、かちかちに固まっていた。
その先を見てみると、洞窟の地面には、シカやらイノシシやらウサギやら、ありとあらゆる動物が、身動き一つせず転がっていた。恐らく、全て凍っているのだと思われる。
「こんなにたくさん……どういうことなんだ」
ゼルエは首をひねった。まるでここは食糧庫のようだ。しかし、誰がこんなにたくさんの獣を集めたのだろうか。謎は深まるばかりだ。
「ねぇ、ゼルエ。あれ……」
何かに気づいたロジェが指を差した。そのロジェの顔には怯えが見てとれる。何だか、あまり見たくはないものを見てしまったかのような、そんな表情をしていた。
ロジェが指差した先には、毛皮の外套を着た人間三人が仰向けに寝ていた。どれも中年ぐらいの男性である。異様なのは、彼らが目をかっと見開いたまま、微動だにしていないことだ。その表情は、明らかに恐怖に歪んでいる。
ゼルエはそっと男の一人に触ってみた。やはり、先ほどのシカと同じように凍っている。
「……去年さ、猟師の人たちが三人、この山で行方不明になってるんだよね……もしかして……」
ロジェは去年の猟師失踪事件のことを思い出した。行方不明になった猟師三人は現在も発見されていない。もしかしたら、彼らがその失踪者なのかも知れない。そうなれば、山籠もりの通過儀礼などよりも警察への通報を優先すべき事案である。
「チェロルを置いてきちまった……」
そう、逃げるのに精いっぱいで、ゼルエは自分の猟犬を置き去りにしてしまった。流石にヒグマの餌になってはいないと思いたいが、そうでなくとも遭難してしまっている可能性がある。ゼルエはそのことを気にかけて、そわそわし始めた。
その時であった。じゃり……という、雪を踏みしめる音が、二人の背後から聞こえた。驚いた二人は振り返って、各々の武器をそちらに向けた。
二人が見たのは、洞窟の入り口に立つ、一頭のヒグマであった。先ほどの個体が、執念深く追ってきたのだ。恐ろしい咆哮が、洞窟内に響き渡った。
すかさずゼルエは引き金に指をかけ、発砲しようとした。まさにその時であった。
突然、どしん、と、地面が大きく震えた。その地鳴りとともに、地面の雪と土を跳ね上げて、ヒグマの背後から何かが姿を現した。
地面から首を出したそれは、ヒグマを見下ろすほどに大きい、純白の巨大ムカデであった。
いつの間にか空には鉛色の雲が立ち込めていて、あれほど輝いていた太陽はすっかり隠されてしまっていた。ゼルエもロジェも、雪が降らないように祈りながら先を急いだ。
その茂みを抜けた先には川があった。ゼルエは視線を左右させたが、ユキウサギの姿はない。思ったより、ユキウサギは遠くへ移動しているようだ。
川の上流に向かって、ゼルエはずんずん歩いていく。ロジェの方はその背を追うので精一杯であった。
そのゼルエが、急に立ち止まった。
「どうした?」
「……ロジェ、動いたらだめだ」
ゼルエはロジェの方を一切振り向かずに答えた。ゼルエはじっと何かを睨みつけたまま、まるで硬直したかのようにじっとしている。
ゼルエの向く方向……そこにいたのは、一頭の大きなヒグマであった。
ロジェの頭の中は、恐怖で埋め尽くされた。ヒグマはこの島で最も強く、最も危険な動物だ。セーレル島の住民にとって、ヒグマはまさしく恐怖の象徴たる存在である。
それでもすぐに逃げ出さなかったところに、この太子の理知がある。ヒグマは逃げるものを見ると狩猟本能が刺激され、追いかける習性がある。だから、ヒグマに背を向けて逃走するのは悪手であり、古くから固く戒められてきたことであった。
ゼルエも、ロジェも、じっとヒグマの方を見つめていた。ヒグマと出会った時にとるべき行動は、ヒグマと目を合わせながら少しずつ後退することだ。
ゼルエはじりじり後ずさりながら、ライフルを構えている。いざ向かってきた時にすぐ発砲できるようにするためだ。しかし銃があっても、急所を外せばヒグマを無力化できない。二人の少年は、ヒグマが二人を警戒して去ってくれることを願った。
だが、そんな願いに反して、ヒグマは四つ足で雪を蹴り、二人に向かってきた。
雪の降り積もる時期に冬眠することなく出歩いているヒグマはいわゆる「穴持たず」である。普段のヒグマは警戒心が強く、人間と出会ってもそう軽率に手出しをしない傾向にある。しかし「穴持たず」は別だ。餌になりそうなものであれば手当たり次第襲い掛かる。そんな「穴持たず」にとって、少年二人は餌でしかない。
ぱぁん、と、乾いた音が響き渡った。銃声だ。ゼルエがヒグマに向かって発砲したのだ。もうこうなれば戦うしかない。この見習い狩人の咄嗟の判断であった。
銃弾が命中したのか、ぱっと鮮血が散り、ヒグマが怯んだ。だが仕留め切れてはいないようである。
ゼルエはロジェの手を引いて走った。今の内に、なるべくヒグマから遠ざからねばならない。ゼルエは樹木などの遮蔽物が多く、見通しの悪い場所をなるべく選んで入り込んだ。少しでもヒグマをかく乱し、自分たちを見失わせる可能性を上げるためだ。
そうして暫く走った二人は、岩の壁面にぽっかりと空いている穴を発見した。どうやら、こんな所に洞窟があるようである。
「……入ろう。ロジェ」
洞穴は広く、二人は何なく入ることができた。この広さは身を隠すには若干不都合ではあったが贅沢を言ってはいられない。
奥まで歩くと、ゼルエの足が何かを蹴飛ばした。入り口が広いお陰で、ごろりと転がったそれを確認できる程度には光が差している。
ゼルエが蹴ったそれは、一頭のシカであった。どうやら冷やされて凍っているようで、かちかちに固まっていた。
その先を見てみると、洞窟の地面には、シカやらイノシシやらウサギやら、ありとあらゆる動物が、身動き一つせず転がっていた。恐らく、全て凍っているのだと思われる。
「こんなにたくさん……どういうことなんだ」
ゼルエは首をひねった。まるでここは食糧庫のようだ。しかし、誰がこんなにたくさんの獣を集めたのだろうか。謎は深まるばかりだ。
「ねぇ、ゼルエ。あれ……」
何かに気づいたロジェが指を差した。そのロジェの顔には怯えが見てとれる。何だか、あまり見たくはないものを見てしまったかのような、そんな表情をしていた。
ロジェが指差した先には、毛皮の外套を着た人間三人が仰向けに寝ていた。どれも中年ぐらいの男性である。異様なのは、彼らが目をかっと見開いたまま、微動だにしていないことだ。その表情は、明らかに恐怖に歪んでいる。
ゼルエはそっと男の一人に触ってみた。やはり、先ほどのシカと同じように凍っている。
「……去年さ、猟師の人たちが三人、この山で行方不明になってるんだよね……もしかして……」
ロジェは去年の猟師失踪事件のことを思い出した。行方不明になった猟師三人は現在も発見されていない。もしかしたら、彼らがその失踪者なのかも知れない。そうなれば、山籠もりの通過儀礼などよりも警察への通報を優先すべき事案である。
「チェロルを置いてきちまった……」
そう、逃げるのに精いっぱいで、ゼルエは自分の猟犬を置き去りにしてしまった。流石にヒグマの餌になってはいないと思いたいが、そうでなくとも遭難してしまっている可能性がある。ゼルエはそのことを気にかけて、そわそわし始めた。
その時であった。じゃり……という、雪を踏みしめる音が、二人の背後から聞こえた。驚いた二人は振り返って、各々の武器をそちらに向けた。
二人が見たのは、洞窟の入り口に立つ、一頭のヒグマであった。先ほどの個体が、執念深く追ってきたのだ。恐ろしい咆哮が、洞窟内に響き渡った。
すかさずゼルエは引き金に指をかけ、発砲しようとした。まさにその時であった。
突然、どしん、と、地面が大きく震えた。その地鳴りとともに、地面の雪と土を跳ね上げて、ヒグマの背後から何かが姿を現した。
地面から首を出したそれは、ヒグマを見下ろすほどに大きい、純白の巨大ムカデであった。
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