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第2話 太子ロジェ
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猟師たちの失踪事件から、一年が経った。
セーレ山を中心とした山岳地帯の、ちょっとした窪地に、ぽつんと山小屋が建っている。その小屋の中では、二人の少年と一匹の犬が暮らしていた。一人は机で英語の本を読んでおり、もう一人はあぐらをかいて銃の手入れをしている。中は暖炉によって暖められており、窓ガラスは結露して水滴にまみれていた。その暖炉のすぐ近くでは、白と黒の毛を持つすらりとした体型の犬が、地面にべたりとうつ伏せになって眠っている。
「しっかしひでぇ話だよな」
銃の手入れをしている少年が、その切れ長の目を本を読んでいる方の少年に向けて、不満げな声色で話しかけた。
「え?」
「だってさぁ、俺の姉貴が身重だってのに、そのダンナ様をこんな雪山の中に放り出すかよ」
「それがしきたりだからしょうがないよ」
「確かにそうだけどさぁ……」
本を読んでいる少年――ロジェは、この島を統べる王の太子である。この島にはしきたりがあって、いずれ王位を継ぐ太子は十五になるまでのいずれかの時期に同い年の少年一人を選んで近侍とし、冬の時期に百日間、山籠もりをしなくてはならないのだという。この島が初代王によって統一された後、王が十四歳の太子に課したのを始まりとして、王族の間で連綿と続いてきた伝統ある通過儀礼である。閉鎖的な環境下で厳しい冬を体験させることに意味があるらしい。
そして、ロジェの近侍として選ばれたのが、今まさに銃の手入れをしている少年――ゼルエである。
「そろそろ昼メシの支度するか。チェロルにも餌あげないとだし」
「そうだね、そろそろお腹空いてきたかな」
ロジェが答えると、ゼルエは銃を壁に立てかけ、ロジェに背を向けて食糧庫へと向かった。ロジェはゼルエの後頭部から垂らされた、腰まで伸びるポニーテールをまじまじと見つめていた。
この伝統にゼルエが難色を示したのには理由がある。実はこのロジェという少年、齢十四にして妻帯者であり、妻が第一子を妊娠中なのである。その妻というのが、ゼルエの姉であった。ロジェとゼルエ、二人は同い年であるが、同時に義理の兄弟なのである。
セーレル島の男子の初婚は早く、十代の前半から半ばにして父親となるのはそう珍しいことではない。それはこの島の歴史に由来している。
この島はかつて、二つの王家が争っていた。多くの男たちが戦場で命を散らせていった結果、島全体が深刻な男子不足、女子余りとなった。そんな中で子孫を残すためには、性成熟を迎えた男子に早くから世継ぎを作らせなければならない。そのような事情から生まれた男子早婚の風習が、今でもずっと続いているのだ。
ロジェは英語の本を閉じ、結露を布で拭った。窓から外を眺めてみると。白い雪が太陽の光に反射してきらきらと輝いていた。まるで天然の防壁のように山小屋を覆う針葉樹林も、純白の外套を身にまとっている。ロジェは左側頭部に垂らした三つ編みを時折いじりながら、くりっとした丸い目をじっと凝らして、しばらく外の景色に見入っていた。
今、自分たちは完全に、俗世間から隔絶されている。ちっぽけな木造の山小屋に、良き友ゼルエと二人きりだ。頬杖をつきながら、ロジェはうっとりと窓の外を眺めていた。
ほんの少し前まで、真っ白な雪原というのはロジェにとって恐怖の対象であった。
「妖精の人さらい」
セーレル島の民間伝承には、そのようなものがある。「雪山で、人が突然行方をくらましてしまう。何処を探しても、死体さえ見つからない。それは雪山に住む妖精が、雪山を訪ねる人間の無謀さに惚れて連れ去ってしまうからだ」という内容のものだ。
恐らく幼年期にはやんちゃであったロジェを戒めるためであったのだろう。ロジェは母親から繰り返し「妖精の神かくし」の話を聞かされていたために、すっかり雪山に対する恐怖を植えつけられてしまったのである。
けれども、今は不思議と怖くはなかった。それはゼルエが一緒にいてくれるからに他ならない。彼は地上でたった一人の、気の置けない親友なのだ。
ゼルエは代々狩猟を生業とする一族に生まれ、その父は王室に仕える身であった。ゼルエ自身も父から狩りの訓練を施されている見習い狩人だ。山小屋に連れてきた白黒の犬は彼が二年前に父から与えられた猟犬で、名をチェロルという。
物心ついた時から、ロジェの近くにはゼルエがいた。覚えている中で最も古い記憶は、庭で走って転んだ時にゼルエが駆け寄ってきて、
「ほら、立てよ」
と言いながら手を差し伸べてきたというものである。恐らく四つか五つか……そのくらいの年頃であったと、ロジェは記憶している。
幼さ故の無遠慮で、ゼルエは当初、王族であるロジェに馴れ馴れしく話しかけては彼の父母によって戒められていた。流石にゼルエも学習したのか、八つか九つぐらいの頃にはもう敬語でロジェと話すようになったが、それも周囲の目がある時だけだ。ロジェは彼に、せめて二人きりの間だけは、昔のようにあくまで同い年の少年同士としてやり取りしてくれるよう頼んだ。それはロジェの心からの願いであった。
立憲君主制が導入され、王家の存在がほぼ象徴的なものに過ぎなくなった現在にあっても、依然として国王や太子というのは畏敬の念を向けられる立場だ。けれども幼年のロジェは、誰も彼もが自分に対して恭しく接してくることに息苦しさを感じていた。
――自分たちが分別のついた大人になる頃には、もうゼルエも今のように砕けた接し方をしてくれなくなるのではないか。
そうした憂慮が、ロジェの胸中にはある。それはこの多感な少年にとって最も悩ましいことであった。
だから、俗世間から隔絶されたこの場所での、たった二人での山籠もりは、そうした憂いを忘れさせてくれる心地の良いものであった。身重の妻のことは気がかりであるが、彼女の実家――つまりゼルエの一家の人々が面倒を見ているはずなので心配はいらないだろう。
そうしている内に、ゼルエが食糧庫から干し肉やら芋やらを持ってきた。それとほぼ時を同じくして、ロジェの腹の虫が鳴り出した。
「はは、正直者だなぁ、ロジェのお腹は」
そうからかったゼルエの腹も、まるで呼応するかのように鳴き声を発した。山小屋に、二人の少年の笑い声が響き渡った。
セーレ山を中心とした山岳地帯の、ちょっとした窪地に、ぽつんと山小屋が建っている。その小屋の中では、二人の少年と一匹の犬が暮らしていた。一人は机で英語の本を読んでおり、もう一人はあぐらをかいて銃の手入れをしている。中は暖炉によって暖められており、窓ガラスは結露して水滴にまみれていた。その暖炉のすぐ近くでは、白と黒の毛を持つすらりとした体型の犬が、地面にべたりとうつ伏せになって眠っている。
「しっかしひでぇ話だよな」
銃の手入れをしている少年が、その切れ長の目を本を読んでいる方の少年に向けて、不満げな声色で話しかけた。
「え?」
「だってさぁ、俺の姉貴が身重だってのに、そのダンナ様をこんな雪山の中に放り出すかよ」
「それがしきたりだからしょうがないよ」
「確かにそうだけどさぁ……」
本を読んでいる少年――ロジェは、この島を統べる王の太子である。この島にはしきたりがあって、いずれ王位を継ぐ太子は十五になるまでのいずれかの時期に同い年の少年一人を選んで近侍とし、冬の時期に百日間、山籠もりをしなくてはならないのだという。この島が初代王によって統一された後、王が十四歳の太子に課したのを始まりとして、王族の間で連綿と続いてきた伝統ある通過儀礼である。閉鎖的な環境下で厳しい冬を体験させることに意味があるらしい。
そして、ロジェの近侍として選ばれたのが、今まさに銃の手入れをしている少年――ゼルエである。
「そろそろ昼メシの支度するか。チェロルにも餌あげないとだし」
「そうだね、そろそろお腹空いてきたかな」
ロジェが答えると、ゼルエは銃を壁に立てかけ、ロジェに背を向けて食糧庫へと向かった。ロジェはゼルエの後頭部から垂らされた、腰まで伸びるポニーテールをまじまじと見つめていた。
この伝統にゼルエが難色を示したのには理由がある。実はこのロジェという少年、齢十四にして妻帯者であり、妻が第一子を妊娠中なのである。その妻というのが、ゼルエの姉であった。ロジェとゼルエ、二人は同い年であるが、同時に義理の兄弟なのである。
セーレル島の男子の初婚は早く、十代の前半から半ばにして父親となるのはそう珍しいことではない。それはこの島の歴史に由来している。
この島はかつて、二つの王家が争っていた。多くの男たちが戦場で命を散らせていった結果、島全体が深刻な男子不足、女子余りとなった。そんな中で子孫を残すためには、性成熟を迎えた男子に早くから世継ぎを作らせなければならない。そのような事情から生まれた男子早婚の風習が、今でもずっと続いているのだ。
ロジェは英語の本を閉じ、結露を布で拭った。窓から外を眺めてみると。白い雪が太陽の光に反射してきらきらと輝いていた。まるで天然の防壁のように山小屋を覆う針葉樹林も、純白の外套を身にまとっている。ロジェは左側頭部に垂らした三つ編みを時折いじりながら、くりっとした丸い目をじっと凝らして、しばらく外の景色に見入っていた。
今、自分たちは完全に、俗世間から隔絶されている。ちっぽけな木造の山小屋に、良き友ゼルエと二人きりだ。頬杖をつきながら、ロジェはうっとりと窓の外を眺めていた。
ほんの少し前まで、真っ白な雪原というのはロジェにとって恐怖の対象であった。
「妖精の人さらい」
セーレル島の民間伝承には、そのようなものがある。「雪山で、人が突然行方をくらましてしまう。何処を探しても、死体さえ見つからない。それは雪山に住む妖精が、雪山を訪ねる人間の無謀さに惚れて連れ去ってしまうからだ」という内容のものだ。
恐らく幼年期にはやんちゃであったロジェを戒めるためであったのだろう。ロジェは母親から繰り返し「妖精の神かくし」の話を聞かされていたために、すっかり雪山に対する恐怖を植えつけられてしまったのである。
けれども、今は不思議と怖くはなかった。それはゼルエが一緒にいてくれるからに他ならない。彼は地上でたった一人の、気の置けない親友なのだ。
ゼルエは代々狩猟を生業とする一族に生まれ、その父は王室に仕える身であった。ゼルエ自身も父から狩りの訓練を施されている見習い狩人だ。山小屋に連れてきた白黒の犬は彼が二年前に父から与えられた猟犬で、名をチェロルという。
物心ついた時から、ロジェの近くにはゼルエがいた。覚えている中で最も古い記憶は、庭で走って転んだ時にゼルエが駆け寄ってきて、
「ほら、立てよ」
と言いながら手を差し伸べてきたというものである。恐らく四つか五つか……そのくらいの年頃であったと、ロジェは記憶している。
幼さ故の無遠慮で、ゼルエは当初、王族であるロジェに馴れ馴れしく話しかけては彼の父母によって戒められていた。流石にゼルエも学習したのか、八つか九つぐらいの頃にはもう敬語でロジェと話すようになったが、それも周囲の目がある時だけだ。ロジェは彼に、せめて二人きりの間だけは、昔のようにあくまで同い年の少年同士としてやり取りしてくれるよう頼んだ。それはロジェの心からの願いであった。
立憲君主制が導入され、王家の存在がほぼ象徴的なものに過ぎなくなった現在にあっても、依然として国王や太子というのは畏敬の念を向けられる立場だ。けれども幼年のロジェは、誰も彼もが自分に対して恭しく接してくることに息苦しさを感じていた。
――自分たちが分別のついた大人になる頃には、もうゼルエも今のように砕けた接し方をしてくれなくなるのではないか。
そうした憂慮が、ロジェの胸中にはある。それはこの多感な少年にとって最も悩ましいことであった。
だから、俗世間から隔絶されたこの場所での、たった二人での山籠もりは、そうした憂いを忘れさせてくれる心地の良いものであった。身重の妻のことは気がかりであるが、彼女の実家――つまりゼルエの一家の人々が面倒を見ているはずなので心配はいらないだろう。
そうしている内に、ゼルエが食糧庫から干し肉やら芋やらを持ってきた。それとほぼ時を同じくして、ロジェの腹の虫が鳴り出した。
「はは、正直者だなぁ、ロジェのお腹は」
そうからかったゼルエの腹も、まるで呼応するかのように鳴き声を発した。山小屋に、二人の少年の笑い声が響き渡った。
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