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新虞羊陵の戦い その二

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 そうして、梁軍の攻撃が開始された。突撃の合図を表す太鼓の音が、けたたましく戦場に響き渡った。陳軍は、すぐさまそれに応じた。

「何だあ? ありゃあ……」

 前線の兵の一人が、いささか素っ頓狂な声を上げた。彼だけではない。他の兵士たちも、各々、似たような反応を示した。梁軍を迎え撃った陳軍は、異様な光景を目の当たりにしたのである。

 城壁の前に集結した梁軍の兵士は、負傷兵ばかりであった。武器を構えるのも満足にいかぬ者、歩く途中で地面に伏せる者、彼らが前線に駆り立てられるその有様は、それを迎え撃つ陳軍でさえ憐れみの情を禁じえなかった。当然、満足に戦えよう筈もなく、梁軍は城門の上からの攻撃にあっさりと蹴散らされてしまった。

 その様子を見た周安邑の副官である岳丘がくきゅうは、俄かにいきり立ち、周安邑に詰め寄った。

「将軍、今こそうって出て梁軍を撃滅すべきです。今の梁軍を叩き潰すのは蟻を踏み潰すよりも容易いこと。奴らを撃滅すれば、有利な条件で講和もできましょう」

「いや、ならぬ」

 周安邑は、自らの白髭を撫でながら、一言で岳丘の進言を退けた。

 絶対に、裏がある。それは、若き頃より戦場に立ち、多くの戦いを経験してきたこの老将の、肌感覚による判断であった。

 次の日、梁軍はまたしても負傷兵を使って攻め寄せ、そして城壁の上からの攻撃にあえなく蹴散らされた。陳軍は、まるで石像のように、城内から動かなかった。

 陳軍の中には、岳丘の唱える積極策を支持する者もいた。梁軍が無様を晒す度に、その声は増大していった。長期戦にんでいたのは、陳軍も同じであった。弱い梁軍などさっさと叩き潰して、この戦争を終わらせてしまいたい、と考える者は決して少なくなかったのである。

 張章は既に、次の手を打っていた。陳の国内に、密かに間者を多く放っていた。

「梁軍は負傷兵を使って攻めねばならぬ程の弱体ぶりだ。奴らは陳軍が城壁から出て攻めてくることを何よりも恐れている」

 このようなことを、陳の都である夷陽いように盛んに吹聴して回らせた。それは程なくして陳王の耳にも入った。

 陳王の心は俄かに揺れた。陳の方としても、これ以上戦いを長引かせたくはない。大国の梁と小国の陳が我慢比べをすれば、先に倒れるのは陳の方である、と、王は考えている。けれど、避戦策を徹底する周安邑が梁の大軍を相手によく持ちこたえているのも、また事実である。彼なくしては、新虞を守り切れなかったであろう。

 陳王が悩んでいた所に、一通の書状が届いた。その文面にはこうあった。

「周大将軍は臆病風に吹かれ、兵たちは攻めに出ようとする副将岳丘の方へ心を寄せています。王の名において、岳丘殿を総大将に任命するべきと存じ上げます」

 それは周安邑の部下の幕僚の名で書かれた文書であったが、実際には張章が放った間者が捏造した嘘偽りの書であった。しかし、このような陳情を見た陳王の心は、徐々に周安邑への不信を募らせていったのである。



 一方、張章は、自らの手勢と合流した部隊の両方に肉を振舞っていた。彼の宿営地一帯には、肉の焼ける良い香りが漂っていた。

「張章さま、お召しあがりにならないのですか?」

 傍にいた魏令が、張章に尋ねた。張章は自分の分の食事に一切手をつけていなかった。そのことを怪訝に思ったのである。魏令は主人より先に食べ始めるわけにはゆかずに待っていたのだが、彼の腹の方は我慢の限界であったようで、俄かに腹が鳴り出した。

「申し訳ございません……」

「はは、可愛い奴め」

 張章は笑いながら、浮かない顔をしている魏令の銀髪をくしゃくしゃと撫でた。

「まだここにいる下士官には食事を受け取っていない者がいる。それを見届けるまでは食うわけにはいかんな。お前もよく覚えておくのだ」

 張章は、彼の周りにいた下士官たちに食事が行き渡ったのを見て、初めて食事を始めた。張章が食べ始めるのを待っていた魏令も、ようやっと食事にありついた。

「すまぬな魏令。お前にまで我慢を強いるつもりではなかったのだが、これも将たる者の務めよ」

 張章は、部下の心を掴むための努力を惜しまない男であった。食事は部下より先に手をつけず、負傷した味方の元へは欠かさず足を運び、その労苦と勇気を労った。その様子を、魏令も傍らで見て学んでいた。



 新虞の周安邑の元に、王からの書状が届いた。それは、周安邑の解任と、岳丘に全軍権を移譲する旨が書かれていた。

「将たるもの、陣中にあれば君命をも退けることがある」

 周安邑はそう言って、書状に応じず、陣を動かなかった。けれども、暫くして、再び書状が届いた。今度は、応じない場合、斬刑に処すとの文言が付け加えられていた。

 これら二つの書状は、紛れもない本物であった。その証拠に、王の印鑑が押してあった。陳王の、周安邑に対する信頼は、最早不信の念に塗り潰されていたのである。

 斬刑、の二字を見ると、流石に怯えざるを得なかった。周安邑とて人である。自分の命はやはり惜しい。意地を張り通してみたとて、今度は役人が来て拘束されるだけである。軍を使って役人を追い払えば、それこそ反乱になってしまう。流石にこの老将は、そこまでの暴虎馮河ぼうこひょうがは犯せなかった。

「仕方がない。君命とあらば、召還に応じよう。だが、新虞はまもなく梁軍の手に落ちるであろう」

 周安邑は、去り際にそう言い残して、新虞を後にした。書状の通り、後任には岳丘が就任した。



 都へ帰った周安邑の身に待っていたのは、官職の剥奪であった。消極策に徹して無為に戦いを長引かせたことを譴責けんせきされたのである。元服以来、長きに渡って戦いに身を投じたこの老将を待っていた仕打ちがこれであった。最早庶人と変わらぬ存在となったこの男は、潔く故郷へ帰っていった。

 

「あの忌々しい梁軍めを、この地より駆逐してやる」 

 総大将となった岳丘は、血気にはやっていた。彼は部下に命じて、出撃の準備を整えさせた。

「よろしいのでしょうか。未だ梁軍の兵数は多く、城の守りを疎かにすれば敵につけ込まれましょう。それに、敵の出方はどうもおかしくはありませんか」

 幕僚の一人で岳丘の従弟である岳賢がくけんは、岳丘の方策を支持せず、彼の方策に異を唱えた。他にも岳丘の方策に懸念を表明する者が数名いたが、岳丘はそれら一切を黙殺し、相手にしなかった。

 一方、張章は、周安邑の解任を聞くと、その口に笑みを浮かべた。

「仕込みは上々。さて、後は最後の一手だ」
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