奇絵画

武州人也

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揚州の絵売り

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 隋の文帝楊堅ようけんは南征の大軍を送って南都建康けんこうを落とし、ちん後主こうしゅ陳叔宝ちんしゅくほうを捕らえ、南朝最後の王朝陳を滅ぼして中華の統一を成し遂げた。西晋滅亡からの長きに渡る戦乱の世に、一つの終止符が此処に打たれることとなったのである。そのような時世の話。

 江南の港都揚州ようしゅうに、一人の絵売りの老爺が、しばしば姿を現していた。細長い首に鳥のくちばしのように尖った口先、皮膚は赤く、眼光は炯々けいけいとして、いつも骨の秀でた腕を上げて、その白髪ばかりの頭を掻き毟っている。まるで怪鳥けちょうが如き奇怪な姿は、見る者の背中を粟立たせるようなものがあった。
 けれども、彼の奇異たる所以は、決してその容姿によるものではない。陳の滅亡より前に南朝の古都建康けんこうに存立していた華々しい六朝りくちょう文化を象徴するような建物は、戦乱によって悉《ことごと》く破壊され、見るも無残な有様であったが、この老爺は有りし日の建康の都市画を、驚くべき正確さで描いているのである。そればかりではなく、漢の武帝が建築を命じた建章宮けんしょうきゅうや、漢の武帝時代を代表する名将驃騎ひょうき将軍霍去病かくきょへいによる匈奴きょうど討伐を描いた絵なども市に持ち込んでいたが、それらも真に見事なものであった。それは華北中原かほくちゅうげんを追われ、遥か昔東周とうしゅうの頃には蛮夷とされたの地に逃れねばならなかった漢族たちの心に憧憬を呼び起こすものであった。
 彼の描く絵は市中で瞬く間に話題になり、多くの者がかの絵売り老爺の所に押しかけては絵を買い求めたのである。
 彼の絵は市に持ち込んだ先から売れていたから、この老爺の暮らし向きは決して悪いものではなかったはずだが、市場の誰も彼の身の上を知らなかった。いつも、何処からともなく現れては市に座って絵を売り、全て売れてしまうと、そそくさと何処かへ去って行ってしまう。一度、市の若い男がこの老爺を追って彼の住処を突き止めようとしたが、ふとした隙に自分が追っていた筈の老爺は姿を消してしまい、そのまま行方が知れなくなってしまった。それより以降にも、何人かが彼の後をつけるようなことがあったが、いずれも彼の住処を暴くことは出来なかった。
 その後、何処ぞの誰かが「かの画老は古都建康の出身で|侯景こうけいの反乱で妻子を失ったのだ。彼が建康の絵などを描いているのは、それが彼の失われた故郷であるからなのだ。」などという真偽不明の噂話などを垂れ流したものだから、多くの者がそれを信じ込んでいた。

 老爺が姿を現してから数月経った頃のことである。
 ていという商人の男が、件の絵売り老爺が来ていることを知ると、自分もその絵を一つは欲しいと思って、老爺の所にやって来た。
 はたして老爺は市の端におり、数点の絵を持ち込んでいた。そのどれもが素人目に見ても優れたものだと分かる逸品であったが、商人の目をいっとう引いたのは、一人の元服前の少年の立ち姿を描いた絵であった。
 細い首、しなやかな腕と腰、切れ長の目、長い黒髪をなびかせる様、それら全てが、見る者の目を捕らえて放さない。絵の少年の容貌は、えつの美女西施せいしにも勝ろう程に艶めかしいものであった。
 その少年画は、今までの老爺の絵とは全く毛色を異にするものでありながら、それまでのどの絵画よりも、人目を引かずにはおれない魅力に満ちていた。
「いくらだ。この絵を売ってくれ。」
 鄭は、些か興奮気味に声を震わせた。だが、予想に反して、老爺は首を振った。
「分かった。これでどうだ。」
 鄭は持ち金を全て老爺の前に叩きつけた。しかし、老爺はまたしても静かに首を振るばかり。銭を受け取ろうとはしなかった。売り物ではない、ということだろうか。
「じゃあこの絵に描かれている童子のことを教えてくれ。その金と引き換えでな。」
 鄭は考えた。この絵があるからには、これに描かれた少年がきっといる筈だ、と。鄭は男色という程ではなかったが、この絵に描かれた少年が気になって仕方がないのである。
 その時、老爺の、殆ど骨と皮だけの腕が、やおら持ち上がった。
その指先は、西の方角を指していた。
「その方角の何処にいるのだ。」
 鄭は重ねて問うたが、老爺は物も言わなかった。

 その日の内に、鄭は何処かへ出奔し、そのまま消息を絶った。
 同じようなことが、その後に二度もあった。失踪した三人は市では名の知れた素封そほうであったから、人々は訝しみ、恐らくその原因になったであろう老爺には近づかなくなった。老爺もそれを察してか、市に姿を見せなくなった。 

 かく何某という下働きの青年が市を往来していた。
 ふと、彼の目は奇妙な風体の老人の姿を捉えた。それは件の絵売り老爺その人であった。例の件によって気味悪がれたのか、以前と違い、彼の前には人っ子一人いない。
 郭には、とてもとても、絵を買い求めるような銭の余裕はなかった。自分と年老いた母の口を糊するのに精一杯な男が、絵画なんぞに目をくれている余裕がどうしてあろうか。けれども、その時、確かにこの青年は、ちらと横目で老爺の絵を見たのであった。
 老爺はいくつかの絵を持ち込んでいたが、郭はその内の一つに、妙に心惹かれるものを感じた。それははたして、件の少年の絵であった。
 郭はどうしてもその絵を欲しいと思ったが、それは叶わぬ夢に過ぎない。然れども、眺めれば眺めるほど、その絵を欲する心は膨れ上がるばかり。とうとう郭は、この老爺から絵を奪い取ろうという悪心を抱くに至ったのである。
 老爺が腰を上げると、郭はこっそりとその後をつけ始めた。老爺は西の方へと、辿々しい足取りで歩いた。郭は息を殺して老爺を追った。
 ところが、老爺は見かけに反して、すこぶる健脚であった。まだ若く、おまけに日ごろの肉体労働で足腰には自信のあった郭でも、離れずについていくのは一苦労であった。
 老爺を追った郭は、いつの間にやら、松やかしわの生い茂る林に足を踏み入れていた。薄暗い空に寂しい風景。急に心細くなった郭は辺りを見渡したが、老爺の姿は何処にもなかった。代わりに、林の向こう側に、何やら灯りの灯っているのを認めることが出来た。
 そのまま進むと、正面に貴人のそれのような立派な屋敷があり、その手前に灯りが立ち並んでいた。庭には松、柏の他に竹も植えられていたが、整然とした青竹の並ぶ竹林であるのを見ると、手入れの行き届いているのがよく分かる。
 郭の視界の端に、不意に何か動くものが見えた。そちらを向くと、それは雄鶏のようであったが、何かがおかしい。よく目を凝らすと、その違和感の正体が分かった。
 顔が、人間のそれだった。
 畏怖嫌厭いふけんえんの念を起こさずにはいられない得体の知れない生き物の登場に、郭は多いに肝を冷やした。人面の鶏は郭をじっと見つめていたが、やがて松の間を抜けて何処かへ行ってしまった。
 郭はここまで来て、老爺の絵を奪おうと後を追ったのを後悔し始めた。けれども、絵のことを思い出すと、それを手に入れたいという欲求は愈々抑え難いものになっていった。ここで引き返してしまえば、あの絵はもう手に入らないだろうという確信が、この男にはあった。
 灯りは、屋敷の門に向かって左右に並んでいた。門の手前には、左右に別たれた池があるのが確認できる。郭は灯りに沿って、まるで自らを奮い立たせるようにずんずんと歩みを進めた。
 池の間を通りかかる時、ぽちゃん、と、右手側の池から魚の跳ねたような音が聞こえ、郭は思わず肩を震わせた。右下の池の水面を流れると、灯りに照らされて、たゆたう魚が数匹、ぼんやりと確認出来た。亀の甲羅のようなものを背負った魚がいたような気がしたが、郭は見なかったふりをして目線を正面に戻した。
 郭は屋敷の門を乱暴に開いてずかずかと中に踏み込んだ。中を見て回ると、何処も小綺麗ではあったが、不気味な程にがらんとしていて、人が生活を送っている様子がまるでなかった。見つかったのは灯りと絵の道具、それと描き上がったと思われる絵が数点だけである。
 絵には、匈奴騎兵の前に倒れる漢兵が、恐るべき躍動感で描かれていた。今にも絵から漢兵と匈奴騎兵が飛び出してくるのではないか、と思ってしまう程の、ぞっとするような出来栄えであった。
 郭は、行きがけの駄賃にこれらも持って帰ろうと手を伸ばした。その時であった。
「客人かな。」
 唐突に、背後から場に不釣り合いな甲高い声が聞こえてきた。郭が恐る恐る振り向くと、そこには、まだ年端も行かない少年が、郭の方をじっと見据えて立っていた。
 郭は驚愕のあまり、腰を抜かしそうになった。その少年の容貌が、老爺の絵の少年にそっくりであったからだ。その姿は、まるで絵の中から抜け出たかのようであった。
 「そう怖がらないでよ。お兄さん。」
 少年の話す漢語は、郭が幼少より馴染んでいた呉の方言ではなく、大興だいこうで話すそれのような言葉であった。少年は、不埒な闖入者ちんにゅうしゃである郭に臆する様子もなく立っていた。そして、郭の方に向かってじり、じりと歩み寄って距離を縮めた。もう、少年と郭との間には、お互いの息遣いの聞こえそうな距離しかなかった。少年は郭のうなじに手を回すと、その頭を引き寄せ、互いの唇を重ねた。
「嫌だった?」
 少年は口を離すと、そう言って悪戯な笑みを浮かべた。忽ちに、郭の内側には、情欲の火がかっと燃え上がった。郭は少年を押し倒し、その瑞々みずみずしい肉体をじっくりと貪った。少年の体の内に欲望を放った郭の意識は、遥か彼方へと遠のいていった……
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