40 / 50
第四十話 田管の縁談
しおりを挟む
武陽は陥落し、李建と二世皇帝は、もうこの世にない。諸国を滅ぼし統一を成し遂げた普の帝国は、ここに崩壊したのであった。一つの時代が、終わりを告げたのである。
しかしこの時、南部戦線における戦闘は、まだ続いていた。普将黄歓と反乱軍の英非将軍は、藍江と呼ばれる大河川を挟む形で睨み合っている。
数においては、英非率いる反乱軍の方が圧倒的に多い。だが、英非自身の将才の乏しさと黄歓の守りの上手さ、それに加えて南方の湿潤な気候と病気の蔓延によって、反乱軍は大軍の強みを活かせぬまま足踏みをしていた。
張石は、涼しくなってきた時期を見計らって、北と西からそれぞれ十万ずつの軍を南部戦線へ送り込んだ。決着はすぐについた。英非軍を睨んでいた黄歓は、後方を脅かされたことで怖気づき、戦わずして張石へ降伏したのである。
最後は、かつての王敖将軍が北辺に残してきた部隊である。彼らは北方の騎馬民たちを防ぐために築いた長城を守備していたが、張石軍と戦う意志を持っていなかった。彼らもまた、干戈を交えることなく、張石軍に降った。
こうして、普の残存勢力は、天下より一掃されてしまったのであった。
「縁談?」
田管は、いささか素っ頓狂な声を出してしまった。
「そうだ」
成梁の、元は郡守が使っていた屋敷で田管と対面していたのは、張石であった。
「思えば我々の戦いには、一度たりとも楽なものはなかった。田管、其方の力は我が軍には欠かせぬものであった。そこで、だ。私の娘に張香という者がいる。すでに存じているであろう」
張香、という名を聞いて、田管は右の目元に黒子のある、豊かな胸の美人の姿を思い出した。彼女は薬師であり、魏遼の矢が頬をかすめた時に薬を塗ってくれたのが思い起こされる。
「年の頃十九で、まだ嫁には行っていない。是非ともあやつを妻として迎えてはくれぬか」
「は、はぁ……」
歯切れの悪い、気の抜けた返事しか、田管はできないでいた。婚姻と言われても、どうも実感が湧かない。今まで弓を引き、馬の背の上で過ごしてきたと言っても過言ではない自分が、妻と共に歩んでいくというのは想像が難しかった。
「もしやそれとも、すでに婚姻を決めた相手でも? それなら無理強いすることもないのだが……」
「いえ、そういうわけではないのですが……」
田管は、目線を下に落とした。
「なら、娘が気に入らぬということか? あやつが粗相をしたというのであれば厳しく言って聞かせておこう」
「いえ、滅相もございません。戦で傷を負わされた際には大いにお世話になりました。気に入らないどころか、寧ろ私には過ぎた相手なのではと」
「はは、あまり謙遜するなよ田管。戦場でのことだけではない。張舜のことでも、私は其方に感謝している」
張石は、心の底から笑っているような、陽気な笑みを浮かべている。それとは対照的に、田管の方は何処か、ばつが悪そうな表情をしていた。
「少し……考えさせてはいただけませんか」
「おお。まあすぐに答えるのも難しかろう」
そうして、縁談は一度、棚上げとなった。
「田管さま」
その日の黄昏時のことである。仮の住まいである成梁の屋敷に戻る途中で、後ろから呼び止められた。聞き覚えのある、甲高い少年の声である。
「張舜さま、いかがなされましたか」
「いいや、別に、何も。ちょっと二人きりで話したい気分だから、よかったら付き合ってほしいな」
言いながら、張舜は小首を傾げつつ両手を合わせて、頼み事をするような仕草をした。その様子は如何にも子どもじみているが、同時に可愛らしくもある。
そういえば、田管が張舜と初めて出会ったのも、ここ成梁であった。時勢が巡って、再びこの場所に戻って来たかと思うと、田管は感慨深いものを感じていた。
成梁を占領した後、張石はかつての魯王宋商のように配下に戦いを任せることなく、自ら前線に赴き、武陽の攻略までやり遂げたのである。それがために、国都として定めようと思っていた成梁にじっくり腰を落ち着けることはなかった。それは、父に付き従って策を献じていた張舜とて同じことである。
「ええ、それなら構いません」
「じゃあ決まりだね」
田管は、張舜に連れられて、再び張石の屋敷へと入った。張舜はそのまま田管の手を引き、張舜の使っている部屋へと通された。
「ねぇ、一つ聞いていい?」
「はい……何でしょうか」
「僕の姉さんと婚姻するの?」
張舜は、田管の瞳を覗き込むように、じっと見つめてくる。それに耐えかねて、田管は視線を下に落とした。
「その件に関しては、考える時間をいただきました。まだ決めかねているのです」
「そうか……」
それを端緒に、二人の間には、暫し静寂が保たれた。向かい合ったまま、互いに一言も発しない。
「田管さま」
その静寂を破ったのは、張舜であった。
「いつか、僕が君を好きだと言ったのを覚えてる?」
「ええ、確か籐に入城した頃のことでしたね」
その言葉を、田管は覚えていた。確か、公孫業を捕虜にした赤陽の戦いの後でのことだ。王敖軍にどう対処すべきか、という話の流れでのことだったはずである。
「僕は田管さまのことが好きだ。だから……姉さんを娶ってほしくはない」
田管は、それを聞いてはっとした。張舜の、その言葉自体というよりは、それを言う張舜自身の様子に、である。
張舜の目からは、涙が溢れ出していた。
しかしこの時、南部戦線における戦闘は、まだ続いていた。普将黄歓と反乱軍の英非将軍は、藍江と呼ばれる大河川を挟む形で睨み合っている。
数においては、英非率いる反乱軍の方が圧倒的に多い。だが、英非自身の将才の乏しさと黄歓の守りの上手さ、それに加えて南方の湿潤な気候と病気の蔓延によって、反乱軍は大軍の強みを活かせぬまま足踏みをしていた。
張石は、涼しくなってきた時期を見計らって、北と西からそれぞれ十万ずつの軍を南部戦線へ送り込んだ。決着はすぐについた。英非軍を睨んでいた黄歓は、後方を脅かされたことで怖気づき、戦わずして張石へ降伏したのである。
最後は、かつての王敖将軍が北辺に残してきた部隊である。彼らは北方の騎馬民たちを防ぐために築いた長城を守備していたが、張石軍と戦う意志を持っていなかった。彼らもまた、干戈を交えることなく、張石軍に降った。
こうして、普の残存勢力は、天下より一掃されてしまったのであった。
「縁談?」
田管は、いささか素っ頓狂な声を出してしまった。
「そうだ」
成梁の、元は郡守が使っていた屋敷で田管と対面していたのは、張石であった。
「思えば我々の戦いには、一度たりとも楽なものはなかった。田管、其方の力は我が軍には欠かせぬものであった。そこで、だ。私の娘に張香という者がいる。すでに存じているであろう」
張香、という名を聞いて、田管は右の目元に黒子のある、豊かな胸の美人の姿を思い出した。彼女は薬師であり、魏遼の矢が頬をかすめた時に薬を塗ってくれたのが思い起こされる。
「年の頃十九で、まだ嫁には行っていない。是非ともあやつを妻として迎えてはくれぬか」
「は、はぁ……」
歯切れの悪い、気の抜けた返事しか、田管はできないでいた。婚姻と言われても、どうも実感が湧かない。今まで弓を引き、馬の背の上で過ごしてきたと言っても過言ではない自分が、妻と共に歩んでいくというのは想像が難しかった。
「もしやそれとも、すでに婚姻を決めた相手でも? それなら無理強いすることもないのだが……」
「いえ、そういうわけではないのですが……」
田管は、目線を下に落とした。
「なら、娘が気に入らぬということか? あやつが粗相をしたというのであれば厳しく言って聞かせておこう」
「いえ、滅相もございません。戦で傷を負わされた際には大いにお世話になりました。気に入らないどころか、寧ろ私には過ぎた相手なのではと」
「はは、あまり謙遜するなよ田管。戦場でのことだけではない。張舜のことでも、私は其方に感謝している」
張石は、心の底から笑っているような、陽気な笑みを浮かべている。それとは対照的に、田管の方は何処か、ばつが悪そうな表情をしていた。
「少し……考えさせてはいただけませんか」
「おお。まあすぐに答えるのも難しかろう」
そうして、縁談は一度、棚上げとなった。
「田管さま」
その日の黄昏時のことである。仮の住まいである成梁の屋敷に戻る途中で、後ろから呼び止められた。聞き覚えのある、甲高い少年の声である。
「張舜さま、いかがなされましたか」
「いいや、別に、何も。ちょっと二人きりで話したい気分だから、よかったら付き合ってほしいな」
言いながら、張舜は小首を傾げつつ両手を合わせて、頼み事をするような仕草をした。その様子は如何にも子どもじみているが、同時に可愛らしくもある。
そういえば、田管が張舜と初めて出会ったのも、ここ成梁であった。時勢が巡って、再びこの場所に戻って来たかと思うと、田管は感慨深いものを感じていた。
成梁を占領した後、張石はかつての魯王宋商のように配下に戦いを任せることなく、自ら前線に赴き、武陽の攻略までやり遂げたのである。それがために、国都として定めようと思っていた成梁にじっくり腰を落ち着けることはなかった。それは、父に付き従って策を献じていた張舜とて同じことである。
「ええ、それなら構いません」
「じゃあ決まりだね」
田管は、張舜に連れられて、再び張石の屋敷へと入った。張舜はそのまま田管の手を引き、張舜の使っている部屋へと通された。
「ねぇ、一つ聞いていい?」
「はい……何でしょうか」
「僕の姉さんと婚姻するの?」
張舜は、田管の瞳を覗き込むように、じっと見つめてくる。それに耐えかねて、田管は視線を下に落とした。
「その件に関しては、考える時間をいただきました。まだ決めかねているのです」
「そうか……」
それを端緒に、二人の間には、暫し静寂が保たれた。向かい合ったまま、互いに一言も発しない。
「田管さま」
その静寂を破ったのは、張舜であった。
「いつか、僕が君を好きだと言ったのを覚えてる?」
「ええ、確か籐に入城した頃のことでしたね」
その言葉を、田管は覚えていた。確か、公孫業を捕虜にした赤陽の戦いの後でのことだ。王敖軍にどう対処すべきか、という話の流れでのことだったはずである。
「僕は田管さまのことが好きだ。だから……姉さんを娶ってほしくはない」
田管は、それを聞いてはっとした。張舜の、その言葉自体というよりは、それを言う張舜自身の様子に、である。
張舜の目からは、涙が溢れ出していた。
0
お気に入りに追加
19
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
旧陸軍の天才?に転生したので大東亜戦争に勝ちます
竹本田重朗
ファンタジー
転生石原閣下による大東亜戦争必勝論
東亜連邦を志した同志達よ、ごきげんようである。どうやら、私は旧陸軍の石原莞爾に転生してしまったらしい。これは神の思し召しなのかもしれない。どうであれ、現代日本のような没落を回避するために粉骨砕身で働こうじゃないか。東亜の同志と手を取り合って真なる独立を掴み取るまで…
※超注意書き※
1.政治的な主張をする目的は一切ありません
2.そのため政治的な要素は「濁す」又は「省略」することがあります
3.あくまでもフィクションのファンタジーの非現実です
4.そこら中に無茶苦茶が含まれています
5.現実的に存在する如何なる国家や地域、団体、人物と関係ありません
6.カクヨムとマルチ投稿
以上をご理解の上でお読みください

寮生活のイジメ【社会人版】
ポコたん
BL
田舎から出てきた真面目な社会人が先輩社員に性的イジメされそのあと仕返しをする創作BL小説
【この小説は性行為・同性愛・SM・イジメ的要素が含まれます。理解のある方のみこの先にお進みください。】
全四話
毎週日曜日の正午に一話ずつ公開

日本列島、時震により転移す!
黄昏人
ファンタジー
2023年(現在)、日本列島が後に時震と呼ばれる現象により、500年以上の時を超え1492年(過去)の世界に転移した。移転したのは本州、四国、九州とその周辺の島々であり、現在の日本は過去の時代に飛ばされ、過去の日本は現在の世界に飛ばされた。飛ばされた現在の日本はその文明を支え、国民を食わせるためには早急に莫大な資源と食料が必要である。過去の日本は現在の世界を意識できないが、取り残された北海道と沖縄は国富の大部分を失い、戦国日本を抱え途方にくれる。人々は、政府は何を思いどうふるまうのか。
無職ニートの俺は気が付くと聯合艦隊司令長官になっていた
中七七三
ファンタジー
■■アルファポリス 第1回歴史・時代小説大賞 読者賞受賞■■
無職ニートで軍ヲタの俺が太平洋戦争時の聯合艦隊司令長官となっていた。
これは、別次元から来た女神のせいだった。
その次元では日本が勝利していたのだった。
女神は、神国日本が負けた歴史の世界が許せない。
なぜか、俺を真珠湾攻撃直前の時代に転移させ、聯合艦隊司令長官にした。
軍ヲタ知識で、歴史をどーにかできるのか?
日本勝たせるなんて、無理ゲーじゃねと思いつつ、このままでは自分が死ぬ。
ブーゲンビルで機上戦死か、戦争終わって、戦犯で死刑だ。
この運命を回避するため、必死の戦いが始まった。
参考文献は、各話の最後に掲載しています。完結後に纏めようかと思います。
使用している地図・画像は自作か、ライセンスで再利用可のものを検索し使用しています。
表紙イラストは、ヤングマガジンで賞をとった方が画いたものです。


ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる