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第三十七話 魏遼の遁走

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 魏遼率いる騎兵隊は、うの体で尉城まで逃げのびた。当初千騎で出撃した騎兵隊はその半数以上を失い、その隊長たる魏遼自身も深手を負って戻ってきた。戦勝に対する期待に目を輝かせていた尉城の兵士たちは、その悲惨な有様を見て、その目を曇らせずにはいられない。
 尉城の城壁内に漂う空気は、暗く、重苦しかった。特に、彼らが絶対的な信頼を寄せていた魏遼の負傷は、城内の者たちの心に大きな影を落とした。矢を引き絞る右肩を矢で射られて、ただで済むはずもない。実際、城内で手当てを行った後、魏遼は弓を引こうとしたが、肩の痛みに負けて十分に引くことはできなかった。
 精神的支柱と言っても過言ではなかった魏遼は、最早満足に戦うこともできない。そうあっては、兵たちの士気を保つ方法もなかった。
 そして、彼らは、もっと悪いものを、その目で見ることになる。
「敵襲! 敵襲!」
 烽火台ほうかだいから、敵の襲来を告げる狼煙が上がっている。それを見た城兵が、必死の形相で叫んだ。
「て、敵だと!」
 城内は俄かに騒然とした。城兵たちは右往左往し、指揮を執らなければならない孫光さえ、視線を左右に揺らしながら狼狽うろたえている。明らかに、将も兵も怯えきっていた。
 その、孫光が、視界の隅に、何かを捉えた。
 それは、炎であった。
「誰だ! 火を放ったのは!」
 城兵の一人が、焦って城内に放火したのだ、と、孫光はすぐに勘づいた。城を捨てて逃げる際には、敵に利用できるものを残さないために城内を焼き尽くしてしまうといったことはよく行われる。が、まだ敵の姿さえ確認していない内に火を放ってしまうのは、明らかに焦りすぎである。それほどまでに、尉城の兵士たちは、敵に対する恐怖に駆られて正常な思考判断が行えなくなっていたのだ。
 城兵たちは、我先にと、喚きながら城門の外へ飛び出してゆく。最早、敵と戦うどころの話ではない。
「も、もう駄目だ……」
 孫光も、これはもう軍を纏めることはできない、と諦めたのか、馬に跨って遁走を始めてしまった。城内に放たれた火が燃え広がるのと合わせて、将も兵も、それ以外の文官や住民も足早に城を捨てて逃げてゆく。
「我々も逃げるぞ……」
 魏遼も馬に跨り、部下たちに言った。いつの間にか、魏遼の顔には再びあの黒い仮面が装着されていたが、仮面で目元が隠れていたとて、この隊長の憔悴ぶりは誰が見ても察せずにはいられない。流石というべきか、魏遼の部下たちの殆どは、その統率者たる魏遼の命令があるまではじっと待機していたのである。
 魏遼の後に続くように、魏遼隊も南の門から出ていった。こうして、城兵も、魏遼隊も去り、尉城は放棄されたのであった。

 田管は農村で宿営した翌日、馮恭の二千騎と合流し、そのまま尉城を目指して侵攻していた。尉城は小規模な城塞都市とはいえ、籠城されては騎兵のみでは不利である。そのため、途中で占領地の小都市から、歩兵五百と攻城兵器を借り受けた。敢えて進軍速度を落とすことになっても、確実に尉城を攻略できるようにしたのであった。
 馬を駆りながら、田管は、今は亡き孟桃のことを考えていた。恩人に対して、その恩に報いることなく無念の死を遂げさせてしまったことは、田管にとってやりきれないことである。魏遼を討ち取ることで、彼女へのせめてもの手向けとしよう。そのようなことを、田管は思考していたのである。
 田管隊は南下を続け、とうとう尉城に辿り着いた。しかし、そこから煙が立ち上り、開け放たれた城門の内側には炎が燃え広がっているのを見て、田管は全てを察した。
「奴ら、尉城を捨てたか」
 あの魏遼が居を構えていたであろう拠点にしては、あまりにも撤退が早すぎる、と、田管は思った。もしや、まだ周囲に隠れているのでは……相手が魏遼であれば、疑心暗鬼にもなろうものである。
「歩兵は待機。騎兵は周辺を探し回れ。まだ敵が潜んでいるやも知れぬ」
 田管の飛ばした指示で、隊を分けた騎兵隊が周囲をくまなく探し回った。すると、殆ど半狂乱の状態で逃げ回っている敵兵が、次々と見つかった。
「や、やめてください……私たちはもう戦う気などありません……」
 敵兵は、田管隊の騎兵に見つかると、すぐに武器を地面に置いて降伏した。見つかった敵兵の全てはほぼ同様の反応であり、ざっと三百名程の敵兵が、田管隊の捕虜となった。
「魏遼は見つからないか……」
 見つけた敵兵は、殆ど徒歩かちであった。騎乗している者は、もう何処か遠くに行ってしまったのかも知れない。それ以降も暫く騎兵を出して周囲を探し回ったのだが、魏遼やその部下が索敵網に引っかかることはなかった。

 その頃すでに、魏遼隊は南に遠く離れており、とある小川沿いで小休憩を取っていた。
 川の前に立った魏遼は、おもむろにその黒い仮面を外した。世にも稀な優美な顔貌の、その額には、大きな一本の傷跡が残っている。そのまま川の流れの前に屈むと、その水を両手で掬い取って、ぱしゃり、と、顔にかけた。
「はぁ……はぁ……」
 田管に、深手を負わされた。魏遼にとっては、受け入れがたい事実である。
 初めて戦場で相まみえたその時、田管の、その麗しい容貌に、魏遼は嫌悪感を覚えた。容姿そのものに、ではない。それを隠そうともしない田管自身に、である。
 魏遼はその優美な容貌が故に敵に侮られることと、味方の兵士に頼りない印象を与えることを恐れて、武器を取る際には常に黒い仮面で顔を隠してきた。だが、あの田管なる者はどうか。顔を隠すことなく、部下を手足のように使いこなしている。
 ――田管を殺さねばならぬ。
 手拭で顔を拭きながら、魏遼はそう念じた。だが未だに、右肩は痛む。まだ満足に弓を引くことはできない。こんな体で田管の前に出ても、返り討ちに遭うだけであるのは明白である。そのことが、魏遼には何よりも口惜しかった。
 ――田管を殺さねばならぬ。
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