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第三十五話 凶矢に斃れる
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「敵襲だぁ! 敵が来たぞ!」
輜重部隊の前列から、悲鳴が上がった。悲鳴と共に、砂塵の舞い上がる様が、孟桃の目に入った。
孟桃は、この時初めて、命の危険を感じた。咄嗟に、輜重車の積み荷を漁った。孟桃は取り出したのは、弩であった。孟桃は、弩に使う短い矢も一緒に取り出すと、その矢を装填した。弩は弓と違い、特別に訓練を積んでいなくても、取り敢えずは扱うことができる。
手に持ってみた弩は、やはり重かった。弩は弓よりも簡単に撃てるが、弓よりも重く、また矢の装填にも時間がかかるため速射力に欠けるという欠点もある。
孟桃は、お守り代わりに弩を抱えながら輜重車の後ろに隠れた。こんな所に隠れても、敵が迫ってくればどうにもならない。けれども、周囲に身を隠せそうな場所はなかった。弩を固く握る手は汗に塗れ、その唇は小刻みに震えている。馬蹄の音、矢が空気を裂く音、味方の悲鳴、それらが彼女の耳を煩わせ、心を恐怖に駆り立てていく。
——このような所で、自分は死ぬのだろうか。
後方任務とはいえ、戦争は戦争である。敵に狙われれば、命を落とすこともあろう。あくまで、前線に立って刀槍矛戟を交える兵士たちよりは、そうなることが少ないというだけである。それでもやはり、自らの運命を嘆かずにはいられない。
死の危険が差し迫ったこの時、孟桃が思い浮かべたのは田管の姿であった。銀の髪と碧い眼をした美男は、初めて出会った時、苦悶に喘いでいた。再び会った時には、水を得た魚のように活力を漲らせていたが、しかし彼は深遠な志を抱いているようで、孟桃の想いに応える気はないようであった。彼と婚姻し、その子を成したいという願いは、叶えられそうにない。
張石軍に従軍したのは、自らの慕う田管を後方から支えたいと思ったからであった。戦いが終われば、あわよくば……ということを考えながら、ひたすらにやるべきことをこなしてきた。それも、今日で終わるのだろうか。せめて、死ぬ前にもう一度、想い人の顔を見たかった……
馬蹄の音は、すぐ近くにまで迫ってきた。せめて射られる前には、この弩で一矢報いてやろう。ただでは死ぬものか。そう心中で念じながら、孟桃は弩を握った。
輜重部隊の護衛兵の一人が、戟を持って立ち向かおうとした。
「てめぇらに好き放題させるか!」
迫りくる騎兵に向かって戟を突き出したが、騎兵は軽い馬さばきでその矛先を避けると、矢を射かけて射殺した。
騎兵隊は、殆ど一方的に蹂躙の限りを尽くしていた。さながら、飢えた虎が目の前に積まれた肉を貪り食らうが如き光景である。
輜重車の後ろに身を隠していた孟桃であったが、その横に、敵騎兵が迫ってきていた。
「あ……」
孟桃と、その騎兵の目が合ってしまった。騎兵は女が相手でも容赦せんとばかりに矢を弓に番える。弩で反撃しようにも間に合わない。もう、終わりだ。
孟桃がそう思った、まさにその時、ひょう、という音と共に、孟桃を狙う騎兵の首に、矢が突き刺さった。
「輜重隊を守れ! 敵を逃がすな!」
西の方から声が聞こえた。その声に、孟桃は聞き覚えがある。
「田管さま……?」
味方の騎兵が、助けに来てくれたのだということを、孟桃含め、輜重兵たちはその時知ったのである。
猛烈な騎射の応酬が、両軍の間で繰り広げられた。千騎という数の魏遼隊に対して、二千騎という数でぶつかった田管隊が戦局を有利に進め始めている。
だが、その中で、異質な動きで田管隊を翻弄し続けている者がいた。
「奴を仕留めろ! 取り囲んで叩け!」
田管隊の騎兵たちが、魏遼を追いながら矢を放つ。魏遼は巧みな馬さばきでそれらを躱しながら、反撃の矢で敵の一人一人を確実に射抜いてゆく。数に勝る田管隊は敵を押し込みつつも、ただこの年若き騎馬隊長一人に翻弄され苦戦している。
「そいつは私が相手をする。お前たちは他の敵兵を頼んだぞ」
敵兵を射倒した田管はそう叫ぶと、すぐさま魏遼の方を向き、その背を追い始めた。
「お前か、相手にとって不足なしだ」
仮面の孔から覗く碧い眼が見開かれる。魏遼と田管、二人の騎射の達人が、互いに矢を向け合った。その放たれた矢は、どちらの体を貫くこともなく、虚空を切り裂いて地面に刺さる。
二人は馬を走らせながら、矢を射かけ合った。それでも、前と同じように、決定打となるような一撃は互いに与えられない。やはり、二人の勝負は、容易には決着しないのである。
しかし、その時、運命の悪戯が起こった。急に、突風が吹きすさんだ。それも、魏遼の背から、田管の正面に吹きつけるような形の突風であった。
「っ!——」
不運なことに、風によって舞い上げられた砂埃が、田管の目に入ってしまった。一瞬たじろいだその隙を、魏遼が見逃すはずもない。
「もらった!」
隙を晒した田管に向けて、魏遼が矢を番えて引き絞る。最早、二人の勝負は、ここで決してしまうかに思われた。
魏遼の矢が放たれるまさにその直前、魏遼は突然矢を放つのをやめ、体を捩った。その彼の胸甲を、短い矢がかすめた。明らかに、弩から発射された矢である。
矢が発射された方向を、魏遼が睨む。その視線の先にいたのは、一人の女子であった。その手には弩が構えられている。
「邪魔だ!」
魏遼の怒れる双眸が、番えた矢と共にその女子、孟桃に向けられた。
「孟桃殿! 駄目だ! 逃げろ!」
孟桃に向かって、田管が泡を飛ばして大声疾呼する。だが、それはもう、遅きに失していた。
魏遼の放った矢は、孟桃の額に命中し、その頭を貫き通したのであった。
輜重部隊の前列から、悲鳴が上がった。悲鳴と共に、砂塵の舞い上がる様が、孟桃の目に入った。
孟桃は、この時初めて、命の危険を感じた。咄嗟に、輜重車の積み荷を漁った。孟桃は取り出したのは、弩であった。孟桃は、弩に使う短い矢も一緒に取り出すと、その矢を装填した。弩は弓と違い、特別に訓練を積んでいなくても、取り敢えずは扱うことができる。
手に持ってみた弩は、やはり重かった。弩は弓よりも簡単に撃てるが、弓よりも重く、また矢の装填にも時間がかかるため速射力に欠けるという欠点もある。
孟桃は、お守り代わりに弩を抱えながら輜重車の後ろに隠れた。こんな所に隠れても、敵が迫ってくればどうにもならない。けれども、周囲に身を隠せそうな場所はなかった。弩を固く握る手は汗に塗れ、その唇は小刻みに震えている。馬蹄の音、矢が空気を裂く音、味方の悲鳴、それらが彼女の耳を煩わせ、心を恐怖に駆り立てていく。
——このような所で、自分は死ぬのだろうか。
後方任務とはいえ、戦争は戦争である。敵に狙われれば、命を落とすこともあろう。あくまで、前線に立って刀槍矛戟を交える兵士たちよりは、そうなることが少ないというだけである。それでもやはり、自らの運命を嘆かずにはいられない。
死の危険が差し迫ったこの時、孟桃が思い浮かべたのは田管の姿であった。銀の髪と碧い眼をした美男は、初めて出会った時、苦悶に喘いでいた。再び会った時には、水を得た魚のように活力を漲らせていたが、しかし彼は深遠な志を抱いているようで、孟桃の想いに応える気はないようであった。彼と婚姻し、その子を成したいという願いは、叶えられそうにない。
張石軍に従軍したのは、自らの慕う田管を後方から支えたいと思ったからであった。戦いが終われば、あわよくば……ということを考えながら、ひたすらにやるべきことをこなしてきた。それも、今日で終わるのだろうか。せめて、死ぬ前にもう一度、想い人の顔を見たかった……
馬蹄の音は、すぐ近くにまで迫ってきた。せめて射られる前には、この弩で一矢報いてやろう。ただでは死ぬものか。そう心中で念じながら、孟桃は弩を握った。
輜重部隊の護衛兵の一人が、戟を持って立ち向かおうとした。
「てめぇらに好き放題させるか!」
迫りくる騎兵に向かって戟を突き出したが、騎兵は軽い馬さばきでその矛先を避けると、矢を射かけて射殺した。
騎兵隊は、殆ど一方的に蹂躙の限りを尽くしていた。さながら、飢えた虎が目の前に積まれた肉を貪り食らうが如き光景である。
輜重車の後ろに身を隠していた孟桃であったが、その横に、敵騎兵が迫ってきていた。
「あ……」
孟桃と、その騎兵の目が合ってしまった。騎兵は女が相手でも容赦せんとばかりに矢を弓に番える。弩で反撃しようにも間に合わない。もう、終わりだ。
孟桃がそう思った、まさにその時、ひょう、という音と共に、孟桃を狙う騎兵の首に、矢が突き刺さった。
「輜重隊を守れ! 敵を逃がすな!」
西の方から声が聞こえた。その声に、孟桃は聞き覚えがある。
「田管さま……?」
味方の騎兵が、助けに来てくれたのだということを、孟桃含め、輜重兵たちはその時知ったのである。
猛烈な騎射の応酬が、両軍の間で繰り広げられた。千騎という数の魏遼隊に対して、二千騎という数でぶつかった田管隊が戦局を有利に進め始めている。
だが、その中で、異質な動きで田管隊を翻弄し続けている者がいた。
「奴を仕留めろ! 取り囲んで叩け!」
田管隊の騎兵たちが、魏遼を追いながら矢を放つ。魏遼は巧みな馬さばきでそれらを躱しながら、反撃の矢で敵の一人一人を確実に射抜いてゆく。数に勝る田管隊は敵を押し込みつつも、ただこの年若き騎馬隊長一人に翻弄され苦戦している。
「そいつは私が相手をする。お前たちは他の敵兵を頼んだぞ」
敵兵を射倒した田管はそう叫ぶと、すぐさま魏遼の方を向き、その背を追い始めた。
「お前か、相手にとって不足なしだ」
仮面の孔から覗く碧い眼が見開かれる。魏遼と田管、二人の騎射の達人が、互いに矢を向け合った。その放たれた矢は、どちらの体を貫くこともなく、虚空を切り裂いて地面に刺さる。
二人は馬を走らせながら、矢を射かけ合った。それでも、前と同じように、決定打となるような一撃は互いに与えられない。やはり、二人の勝負は、容易には決着しないのである。
しかし、その時、運命の悪戯が起こった。急に、突風が吹きすさんだ。それも、魏遼の背から、田管の正面に吹きつけるような形の突風であった。
「っ!——」
不運なことに、風によって舞い上げられた砂埃が、田管の目に入ってしまった。一瞬たじろいだその隙を、魏遼が見逃すはずもない。
「もらった!」
隙を晒した田管に向けて、魏遼が矢を番えて引き絞る。最早、二人の勝負は、ここで決してしまうかに思われた。
魏遼の矢が放たれるまさにその直前、魏遼は突然矢を放つのをやめ、体を捩った。その彼の胸甲を、短い矢がかすめた。明らかに、弩から発射された矢である。
矢が発射された方向を、魏遼が睨む。その視線の先にいたのは、一人の女子であった。その手には弩が構えられている。
「邪魔だ!」
魏遼の怒れる双眸が、番えた矢と共にその女子、孟桃に向けられた。
「孟桃殿! 駄目だ! 逃げろ!」
孟桃に向かって、田管が泡を飛ばして大声疾呼する。だが、それはもう、遅きに失していた。
魏遼の放った矢は、孟桃の額に命中し、その頭を貫き通したのであった。
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