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第三十一話 猛将の雄叫び
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「新手が来おったか」
大将の李沈は目を細めた。敵の騎兵が、李沈たちに向かって疾駆しながら弓を構えている。李沈とその部下は素早く馬を動かし、放たれた矢弾を回避した。流石に精兵とあってその馬さばきは手慣れている。
「あれは……もしや!」
李沈は、相手方の騎兵隊の中に、銀の髪を垂らしている者を見かけた。間違いはない。あの田管である。そのような特徴を持つ者は、決して多くはない。
銀の髪を揺らした騎馬隊長が放った矢は、正確無比に陶康の顔面に直撃した。陶康はそのまま、後ろ向きに倒れて馬から落ちてしまった。
「やりおるな! お前は田管であろう! 我が名は李沈! お前と出会えて俺は嬉しいぞ!」
李沈は大口を開けて笑いながら、田管を目指して馬を駆けさせた。この時、李沈は、言葉通りに田管との会敵に歓喜していた。死を免れ得ないこの状況において、この男の顔は悦びに満ちている。
「奴が李沈か」
対照的に落ち着き払っている田管は、静かに矢を番えて引き絞り、放った。矢は一直線に、李沈の額を目掛けて飛んでいく。だが、
「はっ!」
李沈は剣を振るい、まるで蚊を落とすかのように矢を弾いた。このような芸当は、普通の兵ではできない。その反応速度には舌を巻くばかりである。
「あれが敵将李沈だ! 殺せ!」
「させんぞ! 賊軍共!」
李沈に襲い掛かろうとした田管隊の騎兵たちの前に、尾進と賈延寿の二人が割って入り掣肘した。多勢に無勢、この二人の騎兵は間もなく討ち果たされたが、二人の作った隙によって、李沈はその間だけ敵兵の視界から外れることができた。
「その首をもらう! うおお!」
まるで暴れ熊のような李沈の咆哮が、戦場にこだまする。弓を構える田管に対して、李沈は剣を振るって距離を詰めにかかった。
「この一矢にて必滅せん」
荒熊の如き猛将と、静謐なる美貌の将が相対する。田管は敢えて、馬を走らせて距離を取ることはしなかった。向かってくる猛将をじっと見据えながら、静かに矢の狙いをつけたのである。
もう、李沈は目前まで迫っている。もう少しで剣が届く間合いになろうというその時、田管は李沈の太腹に向けて、無言で矢を放った。その矢は李沈の脇腹に命中し、鎧を貫通して深々と突き刺さった。李沈が田管に斬りかかろうとしたまさにその時であったから、剣で矢を弾いてしまうような芸当は行えなかったのである。
李沈は、馬から落ちることはなかった。この猛将は、ゆっくりと、田管の方へ向き直った。剣を握ってその切っ先を向けたが、しかし、もう、馬を蹴って突進し、田管に斬りかかるような力は残っていないようである。猛将は、馬上で倒れることなく、そのまま事切れたのであった。田管も、部下たちも、敵ながら、その姿には敬意を抱かざるを得なかった。
総大将を失った李沈軍は、何の抵抗もしなかった。山に残った兵たちの、その全員は武器を地面に置いて降伏した。
「李沈軍敗北……」
李沈軍が敗れ、総大将の李沈が戦死したとの報が武陽の宮廷に舞い込み、李建の耳にももたらされた。最早ここまでくると情報統制は意味を為さなくなっていたし、また李建自身もそのような真似を続けるつもりもなかった。
李建は、あからさまに焦燥の色を浮かべた。この男が憂慮しているのはあくまでも自分の身である。息子の死を悲しみ涙を流す程、この奸臣は有情の男ではない。今、李建が考えているのは、自分が如何にして助かるか、ということだけである。
「して、賊軍共の鎮討はどうなっておる」
禁中(君主の鎮座する宮中)で、艶のある丸顔をした男が李建に尋ねた。冕冠を被り、両脇に女の細腰を抱き寄せているこの男こそ、件の二世皇帝である。
「はっ、只今我らが精鋭部隊が討伐に向かっております。陛下につきましてはご安心を」
李建は頭を伏せつつ、抑揚のない声で述べた。李建は平伏しつつも、心の内ではこの暗愚な君主を侮り、見下している。
「ほっほっほ、まあ、よい。仮に宮中に賊軍が踏み込んで来ようとも、これがあれば心配は要らぬ」
二世皇帝は笑いながら、傍らにあった銅製の杖を手に取り、その柄を撫で始めた。
「この杖を一度振るえば、例え百万の賊軍が来ようとも、私の前に頭を垂れるであろうよ」
李建は君主を骨抜きにして操りやすくするために、酒食を勧めて堕落させた。それはものの見事に成功したのであるが、どうやら上手く行き過ぎたきらいがある。最近では神秘主義にまで傾倒したのか、銅を使って杖を作らせ、これには振りかざせば百万の軍隊も従うという不思議な力がこもっていると信じ込んでいる始末だ。
「せいぜい今の内に忘我悦楽に耽っておられよ」
口には出さないまでも、それが、李建の偽らざる本音であった。
李沈軍を撃滅した張石軍は、武陽の周辺の都市を次々と掌中に収め、武陽を包囲できる体勢を整えつつあった。差し迫った障害となる敵は、最早武陽の守備隊以外にはない。張石は、国都陥落に対して王手をかけた形になる。
今の所、占領地の民は従順であった。普の法はあまりにも厳しく、賞が薄くて罰ばかりが苛烈である。二世皇帝の時代になってからは、この暗愚な皇帝の奢侈を支えるために苛烈な税の取り立ても行われるようになり、より一層、庶民の怨毒は溜め込まれていったのであった。張石は占領地においては至極簡素な法令しか敷いていない。それはそれで別の問題があるのだが、占領地の者たちには有難がられていた。
国都武陽の守備隊は、確かに精兵が揃っている。しかしそんな彼らにも弱点がある。彼らは、実戦などまるで経験したこともない軍隊なのだ。そも、普による中原統一から二十余年、天下は戦乱というものとは無縁であったのだから致し方ないことである。精鋭とはいうものの、その練度は公孫業や李沈が率いたような罪人軍よりは幾分か精強であるに過ぎない。実戦経験が積まれていたのは、中央の都市軍よりも寧ろ王敖軍に代表されるような地方の守備隊なのである。
尤も、地方の守備隊は異民族との戦いに特化しすぎて、中原における攻城戦の経験が皆無であるなどの弱点を抱えている。事実、王敖軍は直阜の戦いで勝利を挙げながらも、その後に守りに入って防塁の内側に立て籠もった張石軍に攻めあぐねた。
普と張石軍との趨勢は、最早定まったも同然であった。
大将の李沈は目を細めた。敵の騎兵が、李沈たちに向かって疾駆しながら弓を構えている。李沈とその部下は素早く馬を動かし、放たれた矢弾を回避した。流石に精兵とあってその馬さばきは手慣れている。
「あれは……もしや!」
李沈は、相手方の騎兵隊の中に、銀の髪を垂らしている者を見かけた。間違いはない。あの田管である。そのような特徴を持つ者は、決して多くはない。
銀の髪を揺らした騎馬隊長が放った矢は、正確無比に陶康の顔面に直撃した。陶康はそのまま、後ろ向きに倒れて馬から落ちてしまった。
「やりおるな! お前は田管であろう! 我が名は李沈! お前と出会えて俺は嬉しいぞ!」
李沈は大口を開けて笑いながら、田管を目指して馬を駆けさせた。この時、李沈は、言葉通りに田管との会敵に歓喜していた。死を免れ得ないこの状況において、この男の顔は悦びに満ちている。
「奴が李沈か」
対照的に落ち着き払っている田管は、静かに矢を番えて引き絞り、放った。矢は一直線に、李沈の額を目掛けて飛んでいく。だが、
「はっ!」
李沈は剣を振るい、まるで蚊を落とすかのように矢を弾いた。このような芸当は、普通の兵ではできない。その反応速度には舌を巻くばかりである。
「あれが敵将李沈だ! 殺せ!」
「させんぞ! 賊軍共!」
李沈に襲い掛かろうとした田管隊の騎兵たちの前に、尾進と賈延寿の二人が割って入り掣肘した。多勢に無勢、この二人の騎兵は間もなく討ち果たされたが、二人の作った隙によって、李沈はその間だけ敵兵の視界から外れることができた。
「その首をもらう! うおお!」
まるで暴れ熊のような李沈の咆哮が、戦場にこだまする。弓を構える田管に対して、李沈は剣を振るって距離を詰めにかかった。
「この一矢にて必滅せん」
荒熊の如き猛将と、静謐なる美貌の将が相対する。田管は敢えて、馬を走らせて距離を取ることはしなかった。向かってくる猛将をじっと見据えながら、静かに矢の狙いをつけたのである。
もう、李沈は目前まで迫っている。もう少しで剣が届く間合いになろうというその時、田管は李沈の太腹に向けて、無言で矢を放った。その矢は李沈の脇腹に命中し、鎧を貫通して深々と突き刺さった。李沈が田管に斬りかかろうとしたまさにその時であったから、剣で矢を弾いてしまうような芸当は行えなかったのである。
李沈は、馬から落ちることはなかった。この猛将は、ゆっくりと、田管の方へ向き直った。剣を握ってその切っ先を向けたが、しかし、もう、馬を蹴って突進し、田管に斬りかかるような力は残っていないようである。猛将は、馬上で倒れることなく、そのまま事切れたのであった。田管も、部下たちも、敵ながら、その姿には敬意を抱かざるを得なかった。
総大将を失った李沈軍は、何の抵抗もしなかった。山に残った兵たちの、その全員は武器を地面に置いて降伏した。
「李沈軍敗北……」
李沈軍が敗れ、総大将の李沈が戦死したとの報が武陽の宮廷に舞い込み、李建の耳にももたらされた。最早ここまでくると情報統制は意味を為さなくなっていたし、また李建自身もそのような真似を続けるつもりもなかった。
李建は、あからさまに焦燥の色を浮かべた。この男が憂慮しているのはあくまでも自分の身である。息子の死を悲しみ涙を流す程、この奸臣は有情の男ではない。今、李建が考えているのは、自分が如何にして助かるか、ということだけである。
「して、賊軍共の鎮討はどうなっておる」
禁中(君主の鎮座する宮中)で、艶のある丸顔をした男が李建に尋ねた。冕冠を被り、両脇に女の細腰を抱き寄せているこの男こそ、件の二世皇帝である。
「はっ、只今我らが精鋭部隊が討伐に向かっております。陛下につきましてはご安心を」
李建は頭を伏せつつ、抑揚のない声で述べた。李建は平伏しつつも、心の内ではこの暗愚な君主を侮り、見下している。
「ほっほっほ、まあ、よい。仮に宮中に賊軍が踏み込んで来ようとも、これがあれば心配は要らぬ」
二世皇帝は笑いながら、傍らにあった銅製の杖を手に取り、その柄を撫で始めた。
「この杖を一度振るえば、例え百万の賊軍が来ようとも、私の前に頭を垂れるであろうよ」
李建は君主を骨抜きにして操りやすくするために、酒食を勧めて堕落させた。それはものの見事に成功したのであるが、どうやら上手く行き過ぎたきらいがある。最近では神秘主義にまで傾倒したのか、銅を使って杖を作らせ、これには振りかざせば百万の軍隊も従うという不思議な力がこもっていると信じ込んでいる始末だ。
「せいぜい今の内に忘我悦楽に耽っておられよ」
口には出さないまでも、それが、李建の偽らざる本音であった。
李沈軍を撃滅した張石軍は、武陽の周辺の都市を次々と掌中に収め、武陽を包囲できる体勢を整えつつあった。差し迫った障害となる敵は、最早武陽の守備隊以外にはない。張石は、国都陥落に対して王手をかけた形になる。
今の所、占領地の民は従順であった。普の法はあまりにも厳しく、賞が薄くて罰ばかりが苛烈である。二世皇帝の時代になってからは、この暗愚な皇帝の奢侈を支えるために苛烈な税の取り立ても行われるようになり、より一層、庶民の怨毒は溜め込まれていったのであった。張石は占領地においては至極簡素な法令しか敷いていない。それはそれで別の問題があるのだが、占領地の者たちには有難がられていた。
国都武陽の守備隊は、確かに精兵が揃っている。しかしそんな彼らにも弱点がある。彼らは、実戦などまるで経験したこともない軍隊なのだ。そも、普による中原統一から二十余年、天下は戦乱というものとは無縁であったのだから致し方ないことである。精鋭とはいうものの、その練度は公孫業や李沈が率いたような罪人軍よりは幾分か精強であるに過ぎない。実戦経験が積まれていたのは、中央の都市軍よりも寧ろ王敖軍に代表されるような地方の守備隊なのである。
尤も、地方の守備隊は異民族との戦いに特化しすぎて、中原における攻城戦の経験が皆無であるなどの弱点を抱えている。事実、王敖軍は直阜の戦いで勝利を挙げながらも、その後に守りに入って防塁の内側に立て籠もった張石軍に攻めあぐねた。
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