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第三十話 李沈の奮闘
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実はこの時、李沈軍が包囲されているとの報告が、武陽の宮廷になされていた。援軍を送るべきか否か、すぐに議論が巻き起こった。武陽の守備隊は精鋭揃いであるが、数は多くない。それに、この守備隊は普の帝室を守る本当に、本当に最後の砦なのである。これを引き抜いてしまえば、武陽は裸同然であり、皇帝を守る者は僅かな近衛兵のみとなってしまう。だが、ここで援軍を送らないということは李沈軍を見殺しにするのと同じである。加えて、李沈は権勢を誇る李建の子ということもある。
「援軍を送りましょう」
廷臣の一人が口を開いて、重々しい口取りで言葉を放った。李建に忖度したつもりの言葉であった。だが、
「いいえ、援軍はなりませぬ」
それを否定したのは、李建自身であった。
「この武陽の守備隊は陛下の玉体をお守りするもの。動かしてはならんのです」
李建は、息子を見捨てる腹つもりなのだ、と、廷臣たちの多くはすぐに思った。とはいえ、李建の作り出す流れに竿を差せるものなど、この場にいるはずもない。それほど、この男の権勢は強大、かつ盤石なのである。この鶴の一声で、廷臣たちは一気に守備隊を留め置くべしという流れに靡いたのであった。
そうして、武陽から見捨てられた李沈軍は、ある日の朝、妙な光景を目にした。
「おい、見ろよあそこ……」
「敵兵が……いない?」
西の方角に、兵がいない場所がある。包囲の一端が開いたのだ。本当に、その場所だけ、ぽっかりと包囲に穴が開いている。
「待て、これはどう見ても罠ではないか」
報告を受けた李沈は、実際にその目で西の方に開いた包囲の穴を眺めてみた。が、これはあからさますぎる、とすぐに思った。このような見え透いた罠を張るなど、侮るのも大概にせよ、と慍怒したのであった。
だが、兵士たちは、そうは思わなかった。
「包囲が開いたぞ!」
「俺たちはここから出られるんだ!」
兵士たちは、何としてもこの場から抜け出したい一心で、総大将である李沈の言うことなど聞かず、西の方へ一気に突撃していった。急に、出口が開いたのだ。今まで極限状態にあった兵たちが何を思うかは、察するだに余りある。
一直線に山を駆け下りる兵士たち。だが、その先頭にいた者たちが、麓に降り立った途端、突如姿を消した。
「な、何があった!?」
「下! 下を見ろ!」
一人の兵士が指を差した先の地面には、大きな穴が開いていた。その下には、兵士たちがまるで薪のように折り重なって倒れている。落とし穴だ!
兵士たちは突然の罠に面食らったが、さりとて足踏みをしている訳にもいかない。穴を避けるように、兵士たちは尚も走る。だが、回避したその先にも、落とし穴が仕掛けられていた。
そして、その左右から、またしても弓兵弩兵が姿を現した。浮足立った李沈軍兵士の頭上に、黒い雨が降り注ぐ。もう、包囲を抜けるどころではない。包囲の袋が開かれたのは、李沈の言う通り罠であった。普通であれば、このようなあからさまな包囲の穴は、すぐに罠だと見破られる。けれども、早く包囲を抜けたい、という兵士たちの焦燥を煽ることには成功したのである。
これによって、李沈は多くの兵を失った。最早、抵抗するための兵力は手元にない。後は、敵が見上げる中、山頂において座して死を待つより他はない。
「我についてくる者はついてこい!」
李沈は、最後の突撃をかけるつもりであった。勿論、生きて再び武陽の土を踏むつもりもない。これは死出の旅路そのものであった。
父は讒諂面諛の輩であり、宮廷での有り様は奸臣そのものである。そのような父を心中では蔑視しつつも李建の子としてその権勢に与ることには彼自身、複雑な思いがあるのも確かだ。李沈の心には、姦猾なる父とは違い、武人の誇りがあった。生き恥を晒すよりは、潔く戦って戦場に臥せるを良しとしたのである。
李沈は騎馬五十を従え、それ以外の兵士には、「好きにせよ」と言って置いて行った。
「では、者共! 最後に一華、咲かせてみせようぞ!」
将帥の咆哮を聞いて、それに付き従う騎兵たちも、腹の底から声を振り絞って吠えた。その喚声は木々を揺らし、大地を震わせる程のものであった。
この五十騎は、李沈軍の最精鋭であった。罪人が主体のこの軍において、彼らだけは貴人の一族の生まれであり、戦闘訓練を積んだ強兵なのである。
五十騎は、わざと一番包囲の分厚い東側に突っ込んでいった。張石軍の兵士は弓弩を構え、彼らに鏃を向ける。
「総員左に旋回!」
李沈が叫ぶと、騎馬隊は馬首を左に向け、左斜めに旋回した。矢の殆どは躱されて地面に突き刺さったが、その幾つかは李沈軍の後列を射落とした。
矢を躱した李沈軍は、猛然と張石軍に突撃した。李沈はその太腕で剣を振るい、敵兵の首を一太刀にすっ飛ばした。その間に、彼に従う騎兵が馬上から矢を放ちまくって道を切り開いていく。
「奴が大将か! 取り囲め! 囲んで圧し潰してしまえ!」
後方から、張石軍の重装歩兵が集まってきた。戟を突き出し、盾を構えた重武装の歩兵が、壁を作ってじわじわと囲んでいく。さらにその側面から騎兵が飛び出し、李沈軍に負けじと騎射を仕掛けた。
李沈軍は、ひたすら力任せに押しまくった。ある者は剣を振るい、またある者は弓を射かけてこの囲みを抜けきった頃、李沈の後ろに付き従う兵は僅かに三騎しかなかった。その三騎はいずれも弓を携えていたが、矢筒の中に矢は二、三本しか残っていない。
「よくぞ、ついてきてくれたな」
李沈は隣にいる若い騎兵の肩を抱き寄せると、鎧のぶつかる音を鳴らしながら、その体を固く抱きしめた。若い騎兵は、戸惑いからか、しきりに眼球を左右に動かしている。
若い騎兵を解放した李沈は、別の騎兵二人とも熱い抱擁を交わした。
「陶康、尾進、賈延寿」
李沈は、その目に涙を溜めながら、抱擁した順番に三人の名を呼んだ。日は傾きかけており、もうすぐ薄暮の時となろう。
「お前たちは疾く去れ。死ぬ時は俺一人だ」
李沈と三人の間を、北風が吹き抜けた。松柏の枝葉が擦れてざわめく。
「いいえ、私はお供致します」
「私もです」
「同じく」
三人は硬い表情をしながら、李沈の厳めしい顔を真っ直ぐと見つめている。去れと言っても、これでは梃子でも動かないだろう。
「はっはっは、そうかそうか。ならば俺の後に続け!」
李沈がそう言ったその時、彼ら四人の耳が同時に、左方から迫る馬蹄の音を拾った。
「援軍を送りましょう」
廷臣の一人が口を開いて、重々しい口取りで言葉を放った。李建に忖度したつもりの言葉であった。だが、
「いいえ、援軍はなりませぬ」
それを否定したのは、李建自身であった。
「この武陽の守備隊は陛下の玉体をお守りするもの。動かしてはならんのです」
李建は、息子を見捨てる腹つもりなのだ、と、廷臣たちの多くはすぐに思った。とはいえ、李建の作り出す流れに竿を差せるものなど、この場にいるはずもない。それほど、この男の権勢は強大、かつ盤石なのである。この鶴の一声で、廷臣たちは一気に守備隊を留め置くべしという流れに靡いたのであった。
そうして、武陽から見捨てられた李沈軍は、ある日の朝、妙な光景を目にした。
「おい、見ろよあそこ……」
「敵兵が……いない?」
西の方角に、兵がいない場所がある。包囲の一端が開いたのだ。本当に、その場所だけ、ぽっかりと包囲に穴が開いている。
「待て、これはどう見ても罠ではないか」
報告を受けた李沈は、実際にその目で西の方に開いた包囲の穴を眺めてみた。が、これはあからさますぎる、とすぐに思った。このような見え透いた罠を張るなど、侮るのも大概にせよ、と慍怒したのであった。
だが、兵士たちは、そうは思わなかった。
「包囲が開いたぞ!」
「俺たちはここから出られるんだ!」
兵士たちは、何としてもこの場から抜け出したい一心で、総大将である李沈の言うことなど聞かず、西の方へ一気に突撃していった。急に、出口が開いたのだ。今まで極限状態にあった兵たちが何を思うかは、察するだに余りある。
一直線に山を駆け下りる兵士たち。だが、その先頭にいた者たちが、麓に降り立った途端、突如姿を消した。
「な、何があった!?」
「下! 下を見ろ!」
一人の兵士が指を差した先の地面には、大きな穴が開いていた。その下には、兵士たちがまるで薪のように折り重なって倒れている。落とし穴だ!
兵士たちは突然の罠に面食らったが、さりとて足踏みをしている訳にもいかない。穴を避けるように、兵士たちは尚も走る。だが、回避したその先にも、落とし穴が仕掛けられていた。
そして、その左右から、またしても弓兵弩兵が姿を現した。浮足立った李沈軍兵士の頭上に、黒い雨が降り注ぐ。もう、包囲を抜けるどころではない。包囲の袋が開かれたのは、李沈の言う通り罠であった。普通であれば、このようなあからさまな包囲の穴は、すぐに罠だと見破られる。けれども、早く包囲を抜けたい、という兵士たちの焦燥を煽ることには成功したのである。
これによって、李沈は多くの兵を失った。最早、抵抗するための兵力は手元にない。後は、敵が見上げる中、山頂において座して死を待つより他はない。
「我についてくる者はついてこい!」
李沈は、最後の突撃をかけるつもりであった。勿論、生きて再び武陽の土を踏むつもりもない。これは死出の旅路そのものであった。
父は讒諂面諛の輩であり、宮廷での有り様は奸臣そのものである。そのような父を心中では蔑視しつつも李建の子としてその権勢に与ることには彼自身、複雑な思いがあるのも確かだ。李沈の心には、姦猾なる父とは違い、武人の誇りがあった。生き恥を晒すよりは、潔く戦って戦場に臥せるを良しとしたのである。
李沈は騎馬五十を従え、それ以外の兵士には、「好きにせよ」と言って置いて行った。
「では、者共! 最後に一華、咲かせてみせようぞ!」
将帥の咆哮を聞いて、それに付き従う騎兵たちも、腹の底から声を振り絞って吠えた。その喚声は木々を揺らし、大地を震わせる程のものであった。
この五十騎は、李沈軍の最精鋭であった。罪人が主体のこの軍において、彼らだけは貴人の一族の生まれであり、戦闘訓練を積んだ強兵なのである。
五十騎は、わざと一番包囲の分厚い東側に突っ込んでいった。張石軍の兵士は弓弩を構え、彼らに鏃を向ける。
「総員左に旋回!」
李沈が叫ぶと、騎馬隊は馬首を左に向け、左斜めに旋回した。矢の殆どは躱されて地面に突き刺さったが、その幾つかは李沈軍の後列を射落とした。
矢を躱した李沈軍は、猛然と張石軍に突撃した。李沈はその太腕で剣を振るい、敵兵の首を一太刀にすっ飛ばした。その間に、彼に従う騎兵が馬上から矢を放ちまくって道を切り開いていく。
「奴が大将か! 取り囲め! 囲んで圧し潰してしまえ!」
後方から、張石軍の重装歩兵が集まってきた。戟を突き出し、盾を構えた重武装の歩兵が、壁を作ってじわじわと囲んでいく。さらにその側面から騎兵が飛び出し、李沈軍に負けじと騎射を仕掛けた。
李沈軍は、ひたすら力任せに押しまくった。ある者は剣を振るい、またある者は弓を射かけてこの囲みを抜けきった頃、李沈の後ろに付き従う兵は僅かに三騎しかなかった。その三騎はいずれも弓を携えていたが、矢筒の中に矢は二、三本しか残っていない。
「よくぞ、ついてきてくれたな」
李沈は隣にいる若い騎兵の肩を抱き寄せると、鎧のぶつかる音を鳴らしながら、その体を固く抱きしめた。若い騎兵は、戸惑いからか、しきりに眼球を左右に動かしている。
若い騎兵を解放した李沈は、別の騎兵二人とも熱い抱擁を交わした。
「陶康、尾進、賈延寿」
李沈は、その目に涙を溜めながら、抱擁した順番に三人の名を呼んだ。日は傾きかけており、もうすぐ薄暮の時となろう。
「お前たちは疾く去れ。死ぬ時は俺一人だ」
李沈と三人の間を、北風が吹き抜けた。松柏の枝葉が擦れてざわめく。
「いいえ、私はお供致します」
「私もです」
「同じく」
三人は硬い表情をしながら、李沈の厳めしい顔を真っ直ぐと見つめている。去れと言っても、これでは梃子でも動かないだろう。
「はっはっは、そうかそうか。ならば俺の後に続け!」
李沈がそう言ったその時、彼ら四人の耳が同時に、左方から迫る馬蹄の音を拾った。
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