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第二十七話 不協和音
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その頃、許裕率いる軍は、眠る暇さえなく、昼夜の別を問わず行軍していた。勿論、目的は敵の左方に回り込むためである。まず、左方を急襲し、然る後に正面からも攻めて二正面から挟み込む。それが算段であった。
敵の左軍は取り囲んで揉み潰してやった。後は、がら空きになった左脇に、強烈な一撃を加えてやればいい。そうした後に正面攻撃を敢行すれば、張石軍は粉々に砕け散るであろう。
「張石の命運は風前の灯よ」
馬上で、許裕は自らの顎鬚を撫でながらほくそ笑んだ。
日が中天に昇った頃、許裕軍の目の前に、敵の騎兵が姿を現した。その数は見たところ、およそ四千程と思われる。
「放て!」
騎兵たちは、四千という数にも関わらず、三万の軍を相手に臆することなく射撃を始めた。
「おい、敵方を見ろ」
「あの銀髪は……まさか」
許裕軍は敵の騎兵の中に、銀の髪を甲から垂らしている者を見つけた。そのような特徴を持つ者など、そう多くはない。
「ありゃ田管だ!」
「本当か!?」
「間違いないぞ!」
田管の名は、すでに天下に知らぬ者はない程に広まっていた。殊に、普軍においては恐怖の象徴としてその名が語られている。ついこの間まで労役に回されていた罪人たちでさえ、田管のことは聞き及んでいた。
「今なら奴を討ち取る好機だ!やっちまうぞ!」
許裕軍は、すぐさまこれに襲い掛かった。許裕軍の弩兵が矢を射返し、その次には戟兵が突進した。だが、田管率いる騎兵はのらりくらりと、まるで風に煽られる薄絹のように攻撃を躱している。そうして躱しながら、戟兵の接近を牽制するかのように断続的に矢を射かけた。
許裕軍、というより李沈軍の兵士はつい最近まで陵墓や離宮の造営に当たっていた罪人であり、武器を携えての戦争などは全くの素人である。故に、そのような兵士の攻撃を回避することなど造作もない。
「待て、何かがおかしい」
指揮官である許裕は、四千ばかりの騎兵がこのような所でぶつかってくることに違和感を感じていた。何か、敵の目論見が後ろにあるような……
目の前の騎兵隊は、攻撃を躱しながら矢を放ちつつ、後退することなく戦場に留まっている。この戦場は平野が広がっているが、騎兵の背後には山林が広がっている。許裕にはこの騎兵隊の動きが、まるで魚の目の前に垂らされた釣り餌のように感じられてならない。
「駄目だ! 追うな! 一旦退いて立て直す!」
敵である張石軍は今まで、奇策を以て勝利を重ねてきた。用心するに越したことはない。目の前のこの騎兵隊は囮で、彼らと戦っている間に別動隊が側面へ回り込んできているかも知れない。許裕は号令を出し、退却していく敵騎兵隊を追うことなく、夕刻には踵を返して自陣へと戻っていった。
「はははっ、上手く行きましたな」
「ああ」
普軍時代からの副官、馮恭は、隊長たる田管と共に笑貌を浮かべた。
田管隊は後退した本隊と合流するために馬を走らせていた。田管隊は、確かに敵を誘導する役を負ってはいたが、敵を誘うための囮ではなく、寧ろ敵の用心深さを利用し、敵を踏み止まらせるためのはったりを利かせる部隊であった。あれだけ餌を撒いても一切食いつかなかった程に用心する敵である。田管隊のことも当然、囮の部隊にしか思わないだろう。
まんまと逃げおおせるための時間を稼いだ張石軍は、中翟山を放棄し、陶城まで後退した。左軍は覆滅されたが、中央軍と右軍は無傷のまま退却させることができたのである。
「ちぃ、逃げられたか」
空になった中翟山を見た李沈は、毒づかずにはいられない。勝つには勝ったが、張石を討ち取ることには失敗した。田管と会敵したという許裕も、結局彼を討ち取ることなく退いてしまっていた。
——張石を討ち取らねば、この戦いは終わらぬ。
呉子明も英非も、敵ではない。張石の首を挙げれば、戦いは終わる。李沈はそう踏んでいた。裏を返せば、張石が生きている限り、戦いが終わることはないのである。
李沈は元々は血の気の多い武将であったが、この戦に及んでは逸る気を抑え、慎重に事を運んできた。しかし、どうも慎重になりすぎたようである。
「だが、まだ終わりではない。首を洗って待って居れよ」
李沈の鋭い眼光が、東の方角へと向けられた。
張舜の意見を張石が飲んだことで、張石軍は犠牲を最小限に抑えることができた。だが、軍の幕僚たちの間に流れる険悪な雰囲気は、少しも解消することはなかった。特に、筆頭の将である董籍は、不満顔を隠していない。
「僕が子どもじゃなければ……」
陶城の屋敷で、張舜は田管と会っていた。張舜はその秀麗な尊顔を歪めて口惜しそうに言った。
「私は張舜さまのことを信じております。ですが確かに、若さ故に侮られる、ということもありましょう。私自身もそうでした」
田管自身も、味方に侮られた経験は、他者よりも多いと思っている。女人の如き優美な容貌は、ともすれば柔弱という印象を与えかねない。田管は自分に侮蔑の目を向ける相手に対して、類稀な騎射の技術という武威を示して平伏させたが、張舜に同じことはできないであろう。
「何はともあれ、ここで手を拱いていても始まらない。次の一手に移ろう」
「そうですね」
そう、自分たちは、前を向いて進まねばならない。不和を抱えていようとも、立ち止まってはいられないのである。
敵の左軍は取り囲んで揉み潰してやった。後は、がら空きになった左脇に、強烈な一撃を加えてやればいい。そうした後に正面攻撃を敢行すれば、張石軍は粉々に砕け散るであろう。
「張石の命運は風前の灯よ」
馬上で、許裕は自らの顎鬚を撫でながらほくそ笑んだ。
日が中天に昇った頃、許裕軍の目の前に、敵の騎兵が姿を現した。その数は見たところ、およそ四千程と思われる。
「放て!」
騎兵たちは、四千という数にも関わらず、三万の軍を相手に臆することなく射撃を始めた。
「おい、敵方を見ろ」
「あの銀髪は……まさか」
許裕軍は敵の騎兵の中に、銀の髪を甲から垂らしている者を見つけた。そのような特徴を持つ者など、そう多くはない。
「ありゃ田管だ!」
「本当か!?」
「間違いないぞ!」
田管の名は、すでに天下に知らぬ者はない程に広まっていた。殊に、普軍においては恐怖の象徴としてその名が語られている。ついこの間まで労役に回されていた罪人たちでさえ、田管のことは聞き及んでいた。
「今なら奴を討ち取る好機だ!やっちまうぞ!」
許裕軍は、すぐさまこれに襲い掛かった。許裕軍の弩兵が矢を射返し、その次には戟兵が突進した。だが、田管率いる騎兵はのらりくらりと、まるで風に煽られる薄絹のように攻撃を躱している。そうして躱しながら、戟兵の接近を牽制するかのように断続的に矢を射かけた。
許裕軍、というより李沈軍の兵士はつい最近まで陵墓や離宮の造営に当たっていた罪人であり、武器を携えての戦争などは全くの素人である。故に、そのような兵士の攻撃を回避することなど造作もない。
「待て、何かがおかしい」
指揮官である許裕は、四千ばかりの騎兵がこのような所でぶつかってくることに違和感を感じていた。何か、敵の目論見が後ろにあるような……
目の前の騎兵隊は、攻撃を躱しながら矢を放ちつつ、後退することなく戦場に留まっている。この戦場は平野が広がっているが、騎兵の背後には山林が広がっている。許裕にはこの騎兵隊の動きが、まるで魚の目の前に垂らされた釣り餌のように感じられてならない。
「駄目だ! 追うな! 一旦退いて立て直す!」
敵である張石軍は今まで、奇策を以て勝利を重ねてきた。用心するに越したことはない。目の前のこの騎兵隊は囮で、彼らと戦っている間に別動隊が側面へ回り込んできているかも知れない。許裕は号令を出し、退却していく敵騎兵隊を追うことなく、夕刻には踵を返して自陣へと戻っていった。
「はははっ、上手く行きましたな」
「ああ」
普軍時代からの副官、馮恭は、隊長たる田管と共に笑貌を浮かべた。
田管隊は後退した本隊と合流するために馬を走らせていた。田管隊は、確かに敵を誘導する役を負ってはいたが、敵を誘うための囮ではなく、寧ろ敵の用心深さを利用し、敵を踏み止まらせるためのはったりを利かせる部隊であった。あれだけ餌を撒いても一切食いつかなかった程に用心する敵である。田管隊のことも当然、囮の部隊にしか思わないだろう。
まんまと逃げおおせるための時間を稼いだ張石軍は、中翟山を放棄し、陶城まで後退した。左軍は覆滅されたが、中央軍と右軍は無傷のまま退却させることができたのである。
「ちぃ、逃げられたか」
空になった中翟山を見た李沈は、毒づかずにはいられない。勝つには勝ったが、張石を討ち取ることには失敗した。田管と会敵したという許裕も、結局彼を討ち取ることなく退いてしまっていた。
——張石を討ち取らねば、この戦いは終わらぬ。
呉子明も英非も、敵ではない。張石の首を挙げれば、戦いは終わる。李沈はそう踏んでいた。裏を返せば、張石が生きている限り、戦いが終わることはないのである。
李沈は元々は血の気の多い武将であったが、この戦に及んでは逸る気を抑え、慎重に事を運んできた。しかし、どうも慎重になりすぎたようである。
「だが、まだ終わりではない。首を洗って待って居れよ」
李沈の鋭い眼光が、東の方角へと向けられた。
張舜の意見を張石が飲んだことで、張石軍は犠牲を最小限に抑えることができた。だが、軍の幕僚たちの間に流れる険悪な雰囲気は、少しも解消することはなかった。特に、筆頭の将である董籍は、不満顔を隠していない。
「僕が子どもじゃなければ……」
陶城の屋敷で、張舜は田管と会っていた。張舜はその秀麗な尊顔を歪めて口惜しそうに言った。
「私は張舜さまのことを信じております。ですが確かに、若さ故に侮られる、ということもありましょう。私自身もそうでした」
田管自身も、味方に侮られた経験は、他者よりも多いと思っている。女人の如き優美な容貌は、ともすれば柔弱という印象を与えかねない。田管は自分に侮蔑の目を向ける相手に対して、類稀な騎射の技術という武威を示して平伏させたが、張舜に同じことはできないであろう。
「何はともあれ、ここで手を拱いていても始まらない。次の一手に移ろう」
「そうですね」
そう、自分たちは、前を向いて進まねばならない。不和を抱えていようとも、立ち止まってはいられないのである。
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