上 下
6 / 21

6 「人間は暇なのか?」

しおりを挟む
「──ああ、名前。そういえば名乗ってなかったわね。ごめんなさい、頭から抜けていたわ」

 夜明け前。ベッドから起き上がって伸びをしたシェリーは、椅子に座っていたユルロに名を問われ、頭を振りながらそう答えた。

「シェリー。シェリー・アルルドよ。コルシアン王国、アルルド伯爵家の娘で、王立騎士団に所属してる。炎の大隊長補佐を務めてるわ。歳は……言ったわね、昨日」
「ああ。十九だと言っていたな」
「ええ」

 シェリーは立ち上がり、あくびをしながら扉へと向かう。

「どこへ行く?」
「井戸に顔を洗いに行くのよ。……あ、そっか。取り憑いてるんだから、一緒に行かなきゃならないのね。ユルロ、ブローチになって」
「またか。そのままでは駄目なのか?」
「駄目に決まってるじゃない。あなた、半透明なのよ? 人にどう説明する気? それに、宿の人が見覚えのないあなたを宿内で見たら、泥棒か幽霊か悪魔か何かかと思うかも知れないわ。面倒事は避けたいの。ほら」

 手を出したシェリーの、その手と顔を見比べて、

「……ハァ……分かった」

 ユルロは一瞬にしてブローチに変わり、シェリーの手の中へ。

「そうそう。ありがとう。あ、タオル」

 シェリーはユルロをポケットに入れると、旅行カバンからタオルを取り出し、部屋の扉を開け、閉め、鍵をかけ、井戸へと向かった。

 ◆

「……思うんだが」
「なに?」

 部屋に戻ってきたシェリーが着替えていると、シェリーに背を向け壁を見ていたユルロが渋い声を出す。

「お前、もう少し危機感を持てないか? 一定以上離れられないとはいえ、男と同室でそんなに堂々と着替えるものなのか? 最近の人間の女は」
「……危機感、ね。人並みには持っているつもりよ? ただ、あなた、私に全く欲情していないでしょう」

 新しい下着に着替えながら、シェリーは言う。

「……なぜ、そう思う」
「分かるのよ。分かるというか、分からせられたというか。私、誰にも愛されないでしょう? けど、性欲って愛とは切り離せるみたいなのよ」

 シェリーはシャツのボタンを留めながら、続ける。

「仕草、視線、口調、気配。この七年で、嫌というほど分からせられたわ。だから、そういう人とは距離を置くようにしてるの。でも、昨日から今まで、あなたからは、そういうものを感じない」

 ズボンを穿き、ベルトを締め、

「現に今も、私を気遣ってくれてる。こちらを見ようともしない。あなたが誠実な証拠ね。さ、着替え終わったわ。どうぞ、こっち向いて大丈夫よ」
「……」

 ユルロがゆっくりと振り向くと、シェリーはベッドに座り、髪を梳かしていた。

「……それなら、こっちの身にもなってくれ。部屋に戻ったと思ったら、急にシャツのボタンに手をかけて外し始める女など、どう対処すればいいか混乱する」
「とても誠実な対応をしてくれたと思うわ。一瞬でポケットから出て、私から距離を取り、背を向けて、動かない。見事ね」

 髪を梳かし終えたシェリーは、簡素な髪紐で、その波打つ豊かな長い金髪を纏めて結く。

「愛に飢えた神様とは思えないわ」
「だから、愛に飢えてなどいない」
「じゃあ、どうしてそう伝わってるの? 何かそういう……人間がそういう風に想像を膨らませられるような行動を、したんでしょ?」

 上着を着ながら聞くシェリーに、ユルロは仏頂面を返す。

「……そういったものとは縁遠かったものでな。生憎覚えがない」
「じゃあ、狼に襲われそうになった女性を助けて、その女性を口説いて、最後には神の居場所に連れ帰ろうとしたけど、断られて嵐を起こした話は?」
「……恐らく、兄だな。そういう話を、酒の席で兄から聞いたことがある」
「じゃ、森で偶然出会った少女を見初めて、少女と強引に関係を作ろうとした話は?」
「森……森、は、皆が行っている。誰の話か見当がつかん」
「じゃあ──」
「まだあるのか。どれだけあるんだ、その神話とやらは」
「そうね……」

 シェリーは、旅行カバンや袋の中身を確認しながら、

「高さが五十センチくらい、幅は二十五センチくらい、そして厚みが八センチくらいの本。それが、聖ジュール教の聖典。冊数は四十三。神話の長さはそれくらいね」
「……」
「あ、あと、中の文字がすっごく小さいわ。だから文章量は、外見から想像出来るのの五倍くらいあるんじゃないかしら」
「……人間は、暇なのか?」
「それ、周りの人に言わないでよ? 怒るか嘆くか卒倒しちゃうから。……忘れ物、は、ないわね」

 カバンを閉め、袋の口を閉じ、部屋をぐるりと見回したシェリーは、そう言って。

「じゃあ、帰るから──」

 腰に剣を佩き、コートを羽織り、袋を入れた旅行カバンを背負い、

「ブローチになってくれるかしら」

 手を出した。

「……俺はいちいち、お前のポケットに入れられなければならないのか」
「そうね。半透明なあなたを人に見られるのは避けたいし、揉め事の種は少ない方がいいから」
「……半透明……」

 ユルロは渋い顔をして、「なら」と、口を開く。

「実体があればいいのか?」
「うん?」

 その言葉にシェリーが首をひねるのと、ユルロの体が普通の人間のように景色を通さなくなったのは、同時だった。

「……どういう原理?」
「お前のせいで、俺は受肉しかけた。だから、理から外れていても、現世に肉体を形成できる」
「……そう。でも、問題が二つあるわ」
「二つ?」
「一つは、あなたが人として扱われると、道中の宿代が二倍になること。二つ目は、あなたの見た目ね」
「……俺は、悪魔のような風体をしていないが」
「高そうで珍しい形の服、整った顔と、筋肉がなさそうな細身の体型。野盗とかに襲われそう。二つの意味で」
「……」

 ユルロは、実に嫌そうな顔をして、次に大きく溜め息を吐いた。

「……分かった。大人しくしていよう。……実に、不本意だが」
「ええ、お願い」

 そして、ユルロは水色のブローチとなって、シェリーが再び差し出した手の中に収まった。

「ありがとう。助かるわ」

 シェリーは躊躇いなくブローチをコートのポケットに突っ込む。

「……なあ。一つ、いいか」
「なにかしら」
「俺を仕舞うのではなく、身に付けられないか。自分が不憫に思えてならない」
「そうね。王都に戻ったらそれも出来るでしょうけど……道中は止めといた方がいいと思うわ。あなた、高そうには見えないけど、それでも装飾品だもの。身に付けて狙われる確率は下げたいの」
「……分かった。……俺の今の姿は、そんなに貧相か?」
「姿? ブローチの? そうね……色は綺麗な水色だけど、形はただの楕円形だし。そういうのが好きな人にはいいと思うけど、お金持ちが買いそうには見えないわね」
「……そうか……」
「あ、それと、あまり喋らないでね。私一人なのに二人分の声が聞こえるなんて、変だと思われるでしょ?」
「……分かった……」

 諦め混じりの声のユルロに、シェリーは明るく言う。

「これも王都までの辛抱よ。王都に着いたらちゃんと身に着けるから」
「……その、王都とやらまでは、どの程度だ」
「約半月。順調に行けばね」
「……」

 ◆

「さあ、着いたわよ。ここがコルシアンの王都。大体予定通りに戻れたわね」

 王都を囲む塀にある検問の詰め所から解放され、みやこ内に足を踏み入れたシェリーは、人がごった返す町並みを見ながら、小声でそう言った。

「大雨で二日、その雨による土砂崩れで四日。国境を越えるための手続きの不備──しかもあちら側の不備で七日。十三日超過して、予定通りと言えるのか?」

 げんなりと小声で言うユルロに、シェリーもまた、小声で答える。

「あら、これくらい普通よ。旅なんて、最悪生きて帰れれば問題ないの」

 シェリーは言いながら、胸ポケットからブローチを取り出し、襟元に留める。

「ほら、あなたの要望通り、身に着けたわ。これでいい?」
「……ああ、もう、いい。なんだかもうどうでもいい」
「そう。諦めって、時に人生を前向きにするわよね」
「……」
「あ、王都の観光とかは出来ないから、そこのところごめんなさいね。たぶん、休んでいた間に仕事が山のように積み上がってると思うから、一直線に帰らきゃいけないの」
「そうか。……頑張れよ、シェリー」

 ユルロの言葉に、シェリーは歩き出そうとした足を一瞬止め、

「……ええ、ありがとう」


しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

お飾り公爵夫人の憂鬱

初瀬 叶
恋愛
空は澄み渡った雲1つない快晴。まるで今の私の心のようだわ。空を見上げた私はそう思った。 私の名前はステラ。ステラ・オーネット。夫の名前はディーン・オーネット……いえ、夫だった?と言った方が良いのかしら?だって、その夫だった人はたった今、私の足元に埋葬されようとしているのだから。 やっと!やっと私は自由よ!叫び出したい気分をグッと堪え、私は沈痛な面持ちで、黒い棺を見つめた。 そう自由……自由になるはずだったのに…… ※ 中世ヨーロッパ風ですが、私の頭の中の架空の異世界のお話です ※相変わらずのゆるふわ設定です。細かい事は気にしないよ!という読者の方向けかもしれません ※直接的な描写はありませんが、性的な表現が出てくる可能性があります

幼妻は、白い結婚を解消して国王陛下に溺愛される。

秋月乃衣
恋愛
旧題:幼妻の白い結婚 13歳のエリーゼは、侯爵家嫡男のアランの元へ嫁ぐが、幼いエリーゼに夫は見向きもせずに初夜すら愛人と過ごす。 歩み寄りは一切なく月日が流れ、夫婦仲は冷え切ったまま、相変わらず夫は愛人に夢中だった。 そしてエリーゼは大人へと成長していく。 ※近いうちに婚約期間の様子や、結婚後の事も書く予定です。 小説家になろう様にも掲載しています。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

Bright Dawn

泉野ジュール
恋愛
吹きつける雪の中、ネル・マクファーレンは馬車に揺られ、悲しみに沈んでいた。 4年前に視力を失って以来、どんな男性も彼女と結婚しようとは思わなくなったのだ。そして今、性悪の従兄・ロチェスターに引き取られ、無理な結婚をするようほのめかされている。もう二度と、ネルの世界に光が差すことはないのだと諦めかけていた……突然現れた『彼』に、助けられるまで。 【『Lord of My Heart 〜呪われ伯爵は可愛い幼妻を素直に愛せない〜』のスピンオフです。小説家になろうにも掲載しています】

愛しの婚約者は王女様に付きっきりですので、私は私で好きにさせてもらいます。

梅雨の人
恋愛
私にはイザックという愛しの婚約者様がいる。 ある日イザックは、隣国の王女が私たちの学園へ通う間のお世話係を任されることになった。 え?イザックの婚約者って私でした。よね…? 二人の仲睦まじい様子を見聞きするたびに、私の心は折れてしまいました。 ええ、バッキバキに。 もういいですよね。あとは好きにさせていただきます。

完結 「愛が重い」と言われたので尽くすのを全部止めたところ

音爽(ネソウ)
恋愛
アルミロ・ルファーノ伯爵令息は身体が弱くいつも臥せっていた。財があっても自由がないと嘆く。 だが、そんな彼を幼少期から知る婚約者ニーナ・ガーナインは献身的につくした。 相思相愛で結ばれたはずが健気に尽くす彼女を疎ましく感じる相手。 どんな無茶な要望にも応えていたはずが裏切られることになる。

臆病な元令嬢は、前世で自分を処刑した王太子に立ち向かう

絃芭
恋愛
マリー・ヴァイス公爵令嬢は幼いころから両親に高圧的に育てられた影響で、極めて臆病な少女だった。王太子に異国から召喚された聖女を貶めたと無実の罪を着せられても、反論のひとつもあげられなかったほどに。失意と諦めのなかで短い人生に幕を下ろしたマリーだったが、気がついたら日本という国で高校の授業を受けていた。教室には苦手意識があった聖女と同じ黒髪の生徒が溢れていて、思わず飛び出してしまう。 そこで出会ったのは髪を金色に染めた、所謂ヤンキーという存在だった。穏やかな時間を過ごしたのも束の間、前世の王太子の魔の手が静かに忍び寄っていて──。 ※主人公はとても臆病で気弱な性格です。なので王太子のざまぁを期待している方には物足りない作品だと思います。ご了承くださいませ

絶対に間違えないから

mahiro
恋愛
あれは事故だった。 けれど、その場には彼女と仲の悪かった私がおり、日頃の行いの悪さのせいで彼女を階段から突き落とした犯人は私だと誰もが思ったーーー私の初恋であった貴方さえも。 だから、貴方は彼女を失うことになった私を許さず、私を死へ追いやった………はずだった。 何故か私はあのときの記憶を持ったまま6歳の頃の私に戻ってきたのだ。 どうして戻ってこれたのか分からないが、このチャンスを逃すわけにはいかない。 私はもう彼らとは出会わず、日頃の行いの悪さを見直し、平穏な生活を目指す!そう決めたはずなのに...……。

処理中です...