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36  初めて好きになった人

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「落ち着いてきました。ありがとうございます」

 涙が止まらない私を心配してくれた涼に、頭を撫でてもらい、背中を撫でてもらい、ようやく涙が、引っ込んできた。

「ホントか? 大丈夫か?」
「はい。なので、……その、顔を洗いたいのですが、洗面所のような場所を、貸してくれませんか」
「いーけど……なら、ハンカチ、外せよ」
「……いえ、ヒドい顔だと思いますから……」

 声の位置から、涼が顔を覗き込んで来ているのが分かる。流石に、恥ずかしいので、顔を背けた。

「……なら、ここに、持ってくるから。終わるまで、部屋の外にいるから。……だから、待ってろ」

 涼はそう言って、頭を撫でてくれて、部屋から出ていった。らしい。

「……、……」

 そっ、と、ハンカチを少し外す。……部屋に、涼は居ない。

「……ふぅ……」

 ハンカチ、結構濡れたな。ファンデも付いてるし。目の周りも、火照ってる感じがするし。全面的に直しだな、これは。
 コンコン、というノックの音に、慌ててハンカチを顔に当てる。

「は、はい」
『開けるぞ。いいか』
「大丈夫です」

 ドアが開かれて、ローテーブルに何か置かれ、

「じゃあ、外の、ドアの近くに居るから」

 と言った涼は、たぶんまた、部屋を出ていった。

「……」

 少ししてから、また、そろりと、ハンカチを外す。……誰も、居ない。
 ローテーブルを見れば、水の入った2リットルペットボトル、数枚のタオル、鏡、大きめの保冷剤、が、洗面器に詰め込まれていた。
 な、なんか、手際いいな。こういうの、前にも、あったんだろうか。……涼は今まで、誰かとお付き合いをしたこと、あるんだろうか。
 そんなことを思いながら、鏡で顔を確認して、洗面器の中のものを出して、ペットボトルから洗面器へ水を注ぎ、と、色々していたら。
 ノックの音。

『話しかけて、大丈夫か』

 低い位置から聞こえる。座ってるんだろうか。

「は、はい」
『……初めて好きになった人が俺って、マジ?』
「はい」
『……はあ……』

 ため息かな。呆れられたかな。

「涼が初めて人を好きになったのは、いつですか?」
『……お前に、会ってから』
「え」
『なんで驚く?』
「いえ、その。……用意してもらったものを見て、手際が良いな、と。保冷剤まで、ありますし……」

 濡れタオルで拭い終わった顔を、乾いたタオルで軽く拭く。カバンから、化粧ポーチを出す。

『それはお前、俺が自分でよくやってたからだよ』
「? ……あ、日向子、さん……?」
『そ。意地張ってたから、部屋で泣いてた。痕跡? を残したくなくて、部屋で顔洗って、目ぇ冷やして、とか、してた。……あ、クレンジング、必要か?』
「いえ、大丈夫です、けど……なぜ、クレンジングの、必要性まで」
『知ってるかって? 調べてたんだよ。……お前に、渡そうと思って』

 私に。……ああ、あれか。

「説明したメイク用品、同じものを用意しようと思ってくれたんですか?」
『……、……お前は探偵か?』
「違いますよ。体育祭でも、メイクについて、聞かれましたし。一昨日、メイク用品について聞いている時の感じが、今からすると、自分がどうか、じゃなくて、私がどう使ってるか、とかの話が、多かったな、と」

 崩れた顔を粗方直して、残っているタオルで保冷剤を包み、目に当てる。

『探偵じゃねーか』
「そうですかね。今思えば、涼の行動は中々分かりやすかったと思いますけど」
『お前……』
「涼。一応、終わりました。目に保冷剤を当てているので、また、周りは見えていませんが」
『じゃ、入っていいか』
「大丈夫です」

 ドアが開く音がして、

「もの、どうする? 片すか?」
「いえ、念のために、そのままでお願いします」
「分かった」

 ドアが閉まる音がして、涼がすぐそばに座ったのが、分かった。

「少しずつ、色々と、聞いてもいいですか?」
「何を」
「まず、今日、こうしてくれたのは、マリアちゃんか桜ちゃんか誰かに、何か言われたりした、からとかですか?」
「やっぱ探偵じゃん。……あー……三木と百合根の、両方に、昨日、説教……喝を、入れられて」
「説教……」
「そこを拾うな」
「いえ、私の態度が、二人に心配をかけさせてしまったのかな、と。何かあったかと二人ともに聞かれたりしましたけど、大丈夫だと、答えてしまったので」

 マリアちゃんと桜ちゃんには、お礼……お礼なのかな? 言わないと。

「……昨日、三木と百合根に呼び出されたんだよ。放課後に。お前に何したって。好きなやつに悲しい顔させて、なんで平気そうなんだってさ。……一昨日の、アレが、あったから。それを話した。そしたら」
『みつみんに、告れ。今すぐ』
『今すぐは光海も戸惑うだろう。猶予は一週間だ。だが、遅くなればなるほど、あとで痛い目を見るぞ』
「て。それに、屋上でさ。会って欲しい、まあ、母さんのことだけど。そうも、言ったから。そんで、告って、フラレて。光海は優しくて良い奴だから、俺のことでカメリアに行きづらくなるかもってのも、ちょっと思ったから。じいちゃんたちに頼んで、で、この場の出来上がりだ」

 それを、1日足らずで。

「涼の行動力は、すごいですね。あとで十九川さんたちにも、お礼と謝罪をお伝えしなければ」
「……あんま、言ってほしくないんだけど……どういうふうに?」
「直接は、憚られると、思いますから。手紙か何かを、涼から渡して貰えたら、と。あ、店員さん、涼の伯母さんに渡すのも、アリでしょうか?」
「……俺から渡す」
「分かりました。それと、……聞いて良いのか分かりませんが、おりんについて、聞いても、いいですか?」
「おりん?」
「おりんは、あの、お椀型の仏具です。軽く叩いて音を鳴らすものです。あの、仏壇なんですが、ほぼ全ての仏具があったのに、おりんとりん棒……おりんを叩く棒ですね。それらだけ、無かったので。どうしてなのかな、と」

 少しだけ、間があって。

「……あー……最初の頃は、あった。けど、音が聞こえる度に、苛ついて。……壊した、から、無い。買い直そうとは、思ってる」
「……りん棒は兎も角、壊れるんですか? おりん」
「……壊したっつーか、潰した。こう、地面に、こう……」

 涼の声が、すぼまっていく。

「いえ、すみません。もう大丈夫です。おりんの話は終わりにしましょう」
「はって。まだなんか、あんのか」
「他にも色々聞きたいですけど……では、一つだけ。これは、私の願望も入ってるんですが。体育祭で全力を出してくれたの、私のためでも、あったりしますか?」
「……そうだよ。そのとーりだよこのヤロウ。カッコつけたかったんだよ、この、お前、光海、……はー……あーもー……」
「ふふ、それなら、嬉しいです」
「お前なあ……」

 ため息のような音が、聞こえて。

「俺からも、聞いていいか」
「なんでしょうか?」
「なんで、俺に、……『聞きたいこと』を、聞こうとした?」
「あ、それは、……少し長くなりますが、いいですか?」
「ん」

 私は、バイト先でのことを話した。なるべく詳しく。

「……なるほどね。俺もう、恥ずかしくてその店、行けねーわ」
「大丈夫だと、思いますけど。……来てほしいとも、思いますけど……でも、涼が言うなら、無理にとは、言いません」
「……あーもうちっくしょう光海このヤロウ光海お前、この、こんの……!」

 顔が見えないから、恥ずかしがっているのか苛立っているのか、分からないな。

「涼。少し、その、30秒くらい、顔を背けてもらっても、いいですか?」
「なんでだよ?」
「涼の顔を見たいんです。なので、目元が、どうなったか、確認をしたいので」
「……分かった。……向いてない」
「ありがとうございます」

 保冷剤をそっと外す。涼は顔を背けて、目を閉じていて。私は鏡で目元を確認して、まあ、大丈夫かな、と思えたから。

「涼。ありがとうございます。保冷剤、外しました」
「……向いて、大丈夫か」
「はい」

 涼が目を開き、顔の向きをもとに戻す。

「……。なんでニコニコしてんの」
「涼の顔が見れて、嬉しいので」
「なーんだよお前ホント可愛いなちっくしょうが」

 涼はまた、顔を背けて、頭をガシガシとかく。その顔は、赤い。

「可愛いですか? ありがとうございます。涼にそう言ってもらえるのは、嬉しいです」

 涼の動きが止まった。顔をしかめて、こっちを向く。

「他に、誰に言われた」


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