民俗学者、京屋眞央には秘密がある。

山法師

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民俗学者、京屋眞央には秘密がある。

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 三月最後の日曜日、その朝。東京郊外にある二階建ての借家で。
 私、勅使河原てしがわら冴紅さくは、カットソーとワイドパンツの上に弓枝ゆみえさんと一緒に作ったエプロンを着けて、自前の黒いショートヘアにこれまた弓枝さんと作った三角巾をして。
 この生活にも慣れてきたなぁと思いながら、廊下の掃除をしていた。
 そしたら、ドザザザザ……と、書斎代わりにしている部屋の方から何かが崩れ落ちるような音が聞こえてきた。
 まあ、崩れたとして、それは十中八九、本だろう。
 眞央まひろくん──京屋きょうや眞央くんが書斎代わりに使っている部屋は、その眞央くんが集めに集めた、本棚に収まりきらない量の書物が床から天井まで山のように積まれている、そんな部屋だから。
 そして、さっきその眞央くんがその部屋に入っていくのを見たから。
 だからまた、眞央くんが本の山を崩したんだろうなと思いながら、そして、今回は呼ばれるのかどうかと考えながら、階段を一段一段、ワイパーで拭いていく。
 そんな風に掃除を続けていた私の耳に。

「助けてぇ~……」

 なんとも頼りない、眞央くんからのヘルプが小さく聞こえた。

「助けてぇ……冴紅ちゃ~ん……抜け出せないぃ……」

 頼りない声に「ちょっと待って!」と返事をして、ワイパー掃除を中断し、部屋に向かう。
 行けば、やはりというか、本の山に埋まっている眞央くん──かろうじて左手だけ山から出ている──が、「助けてぇ……」と埋まったまま弱々しく言ってきた。
 手の向きからして、うつ伏せになっているらしい。

「眞央くんも懲りないね。ちゃんとしまわないと危ないって何度も言ってるのに」

 言いながら、眞央くんを救出するため、本の山を切り崩していく。

「いやぁ……ちょっと……下にある本を取ろうと思って……あはは……」
「笑える余裕があるなら自力で出てきて」
「すみません無理です助けて」

 山を切り崩して十分ほど、左腕は全部救出できて、そこから肩と、背中にかかる長さで少しクセのある茶色の髪が見えてきた。ここまでくれば、頭の位置もちゃんと分かる。
 その周辺の本を重点的にどかしていくと、埋まっていた顔が見えてきた。

「……あ~……明るい……」

 眞央くんがぽそっと呟く。
 右の頬を下にしていた顔は、声と同様、頼りなさ気な印象を与えるもの。そのまぶたがぱちぱちと瞬き、眞央くんは首を動かして茶色のまつ毛に縁取られた同色の瞳を私に向けた。

「いやぁ、ありがとう冴紅ちゃん……今度こそ死ぬかと思った……」

 へなっとした笑顔でお礼を言われて、ため息を吐く。

「ホントにね。毎日のように死にかけないでほしいよ。それにさ」

 今日は午後から人が来る予定だろうと言ったら、眞央くんは苦笑した。

「そうそう。その関係でこれを取ろうとしたらね、崩れちゃって」

 眞央くんはそう言って、胸の下から、巻き込まれた右腕と一緒に一冊の本を取り出して私に見せてくる。
 それは、日本各地の伝承を集めた本だ。

「この中のねぇ、天狗伝説についてを確認しようとしてね」
「天狗」
「うん。詳しくは言えないけど、今回の件の参考になりそうだなって思って」

 眞央くんが話している間に、肩甲骨辺りまでの本をどかし終えた。

「その言い方、来る予定の人たちって警察関係の人?」
「うん」

 私と同郷の眞央くんは、高校に入ってすぐ、つまり、私が小学四年生に上がった頃、警察庁の人たちと知り合いになった。
 どこでどう、その人たちと知り合いになったのかは知らない。けど、後ろ暗い意味での知り合いではなく、むしろ、警察の人たちは眞央くんを頼って実家を訪ねていたのだそうだ。そして、眞央くんが東京に出てきてからも、こうして家を訪ねたり、時には呼び出しをかけたりしてくるらしい。

「……また、変なことに巻き込まれなきゃいいけど……」

 ぼそっと呟く。
 私が高校を卒業してこの家に引っ越してきて、数日経ったある日のこと。
 眞央くんは、警察の人たちに呼ばれたのだと朝早くに出かけて、夕方までには戻って来ると言ってたのに、実際に帰ってきたのは深夜だった。
 ごめん遅くなった今帰るねとラインが来て、来た直後に帰ってきた。

『ごめんね、冴紅ちゃん。ちょっと予定が狂っちゃって』

 スマホも見れなくてごめんねと、困ったように笑う眞央くんに、怪我こそなかったけど。
 着ていた春用コートはボロボロになっていて、足元も、何故か膝下までびしょ濡れだった。

『大丈夫だよ。厄除けはしてきたから』

 何があったのかと聞きながら風呂を勧めた私へ、眞央くんは苦笑しながら言った。
 その言葉と、雰囲気で。
 また、話せない内容なのだと悟ってしまった。
 眞央くんには、秘密がある。
 正確に言うなら、眞央くんに、というより、京屋家にある、と言ったほうが正しいだろう。
 間接的にそれを知っている私だけど、間接的にしか知らない。
 仏頂面になっているだろう私の呟きを聞いて、眞央くんは「大丈夫だよ」と頼りない笑顔を作った。

「冴紅ちゃんを危険な目に遭わせたりなんてしない。こっちに出てくる冴紅ちゃんが安全に暮らせるようにって、この家に来てもらったんだから」
「……私のことじゃない……」

 仏頂面のまま、眞央くんの上から本をどかしていく。

「眞央くんが心配なのに……」
「ありがとうね。僕は大丈夫だよ」
「何がどうして大丈夫なの」
「それは、アレだね。僕だから大丈夫、みたいなやつだよ」

 腰まで自由になったのに寝そべって動かない眞央くんの言葉を聞いて、私の胸の内に苦い思いが広がった。
 眞央くんがこういう風に言う時、私はあの過去を思い出し、すぐそばで寝そべっている眞央くんを遠い存在に感じてしまう。
 今年で十九歳になる私は、六歳の時に、不可思議な体験をした。
 保育園の庭でかくれんぼをしていたら、誰かに呼ばれた気がした。見つかってしまったのかとそっちへ顔を向けて、一歩を踏み出して。
 そうしたら、幻のような世界に迷い込んだ。
 目の前に広がる極彩色の景色は、本物に見えなくて。私の横をすり抜ける人たちも〝人〟には見えなくて。
 そんな世界を彷徨い歩いて、どれだけ経ったのか。お腹も空いてきてふらふらし始めた私に、近くを通ったヒトがお饅頭みたいなものをくれた。
 両手で持ってもはみ出すくらい大きなお饅頭は油紙に包まれていて、蒸かしたてのようにほかほかと温かく、湯気を漂わせていた。
 お饅頭を渡してきたヒトは、用事は済んだとでも言うように雑踏にまぎれこみ、見えなくなってしまった。
 どうしてこれをくれたのかという疑問より、美味しそうな匂いのするお饅頭を食べて良いのだということに、意識を持っていかれて。
 かぶりつこうとした瞬間に、『冴紅ちゃん!』と叫ぶように名前を呼ばれて、お饅頭を叩き落された。
 呆気にとられて、地べたに転がったお饅頭を目で追って、泣きそうになった時。
 お饅頭を叩き落とした人に、眞央くんに抱きしめられた。
 今では背の高い眞央くんだけど、小学六年生だった当時はチビだと言われることが多くて。
 対して、今は背が低いほうだけど、その時の私は六歳にして背の高い子供だった。
 そんな私は突然現れた眞央くんにびっくりして固まって、眞央くんの肩越しに極彩色の景色や行き交うヒトたちを見ているしかできなくて。

『食べちゃダメだよ、冴紅ちゃん。食べたらお家に帰れなくなる』

 眞央くんのその言葉で、そうだ、私は迷子だったのだと、思い出した。

『無事で良かった。冴紅ちゃんが冴紅ちゃんのままで良かった』

 抱きしめてくれる眞央くんは、どこか震えている声で、それでも安心したようにそんなことを言って、

『帰ろう、冴紅ちゃん。みんな待ってるよ。ずっと冴紅ちゃんを待ってる』

 私の頭を撫でながら、今度はしっかりした声で言った。
 近所のお兄ちゃんだった眞央くんは、いつも頼りなさそうで。何もない所でコケたり、忘れ物をよくしたりと、実際頼りないと思っていた。
 その、頼りない眞央くんが、初めて聞くような強い口調できっぱりと言い切る。

『僕と一緒ならちゃんと帰れる。冴紅ちゃんを怖い目に遭わせたりしないでお家に帰せるから』

 訳が分からなかったけど、知っている人である眞央くんがいるという事実に、涙がこぼれてきて。

『だから帰ろう。ここから帰ろう、冴紅ちゃん』

 帰る。帰りたい。お家に帰りたい。
 泣きながら言ったら、景色が変わった。
 変わったというか、戻った。
 そこは、極彩色で変な場所じゃなくなっていて。
 私と眞央くんは、近所の神社の境内にいた。
 夕暮れ時で、どこからかヒグラシの声が聞こえた。私が変な世界に迷い込んだのは、ミンミンゼミが合唱しているお昼前のはずで。
 また訳が分からなくなっている私に『大丈夫だよ』と言った眞央くんは、私の手を引いて交番に行った。
 そこで、私はびっくりした。
 交番からの連絡で両親が泣きながら駆けつけてくれたことにも驚いたけど、私が一ヶ月も行方不明だったと知らされて。
 だって、あの世界では昼も夜もよく分からなかったから、一日も経ってないと思っていた。それに、一ヶ月も経ってたら、普通、お腹を空かせるだけじゃなくて死んでしまうと思う。
 私を見つけた眞央くんは、お巡りさんにこう説明した。
 私を探して近所を回っていたら、神社で私を見つけた。神社からそのまま交番に連れてきた。
 あの、極彩色の景色や人でないヒトたちの話はしなかった。
 神社に設置されている防犯カメラの映像と、一ヶ月ずっと私を探してくれていたらしい眞央くんの行動を目にしていたご近所さんたちの証言で、眞央くんは特に不審がられなかった。
 その時の私は、両親に会えた喜びと安心感でいっぱいで、最終的には泣き疲れて眠ってしまったから、あとからその話を聞いた。
 コケたりしても怪我をしない眞央くんが擦り傷だらけになっていたのも、あとから気付いた。
 両親にも友達にも、ご近所さんにもお巡りさんにも、極彩色の景色や周りにいたヒトたちの話をしたけど、誰も信じてくれなかった。
 混乱したんだね、と。とにかく無事で良かったと。
 そう言われるだけだった。
 眞央くんにも、あそこはどこだったのかと聞いたけれど。

『あれは夢だよ、夢の世界。忘れられるなら忘れたほうが良いよ、冴紅ちゃん。また、夢の世界で迷子になっちゃうから』

 困った笑顔で、そういうふうにしか言わなくて。
 けど、眞央くんがいない時に、眞央くんのおばあちゃんの弓枝さんが、内緒にしてねと教えてくれた。

『冴紅ちゃんねぇ、神隠しにあったんよぉ。眞央がねぇ、自分のせいだって言っててねぇ。……ごめんねぇ、冴紅ちゃん。眞央を責めないでやってくれねぇ』

 ウチは好かれやすくてねぇ、と申し訳無さそうに言われて、その時は弓枝さんにそんな顔をしてほしくなくて、言葉の意味をちゃんと理解できてなかったけど、分かったと言った。眞央くんを責めたりしない、もうこの話はしないとも言った。
 けど。
 今ならこう答える。
 眞央くんのせいだとしても、そうじゃなくても。
 眞央くんを責めたりしない。
 だって、眞央くんは私を助けてくれた。あの世界から助け出してくれた。
 眞央くんが助けてくれなかったら、私は今、ここにいない。
 眞央くんを本の山から救出していない。
 眞央くんと話せていない。

「なんで本を読みだしてるの、眞央くん」

 救出し終えて、本の山をビル群のように並べながら、床に寝っ転がったままで持っていた本を読み始めた眞央くんに言う。

「いやぁ、確認をね。この本で合ってたかな~って」

 ページをぺらぺらめくった眞央くんは、

「うん、これだ。合ってた、良かった」

 へなっと笑って本を閉じる。
 そして、私に顔を向けて、

「ありがとうね、冴紅ちゃん。何度も助けてくれて」
「……そんなこと言うなら、何度も本の下敷きにならないでよ」

 見せた笑顔に、仏頂面を返した。
 この家に来て、眞央くんの奇妙な帰宅を目の当たりにする羽目になった次の日。眞央くんはこの部屋で本の山に埋まって、私は慌てて眞央くんを助け出した。

『いやぁ、ごめん。いつもは気を付けてるんだけど。冴紅ちゃんがいるからって気を抜いちゃったかな』

 救出し終えて無事を確かめて、ほっと息を吐いた時に言われた言葉に、泣きそうになった。
 それから毎日のように本の山に埋まるから、加えて毎回ケロッとしてるから、慌てたり泣きそうになるより、呆れてしまうようになったけど。
 でも、それでも。
 私にできることがあるのなら。
 何度でも助けるよ。何回でも助けるよ。
 この程度のこと、眞央くんに助けてもらった一回と、到底釣り合わないんだから。
 仏頂面の私を見て、眞央くんは苦笑した。

「ごもっとだねぇ、返す言葉もない」
「……今日さ、起きたら。弓枝さんからラインが来てたよ。眞央くんがちゃんとやってるかって。眞央くん、また私用のスマホ、ほっぽってたでしょ」

 眞央くんは、大学関係や仕事用のものと私用とで、スマホを二台持ちしている。その上、私用のスマホは放ったらかしにしがちだ。
 だから私は、ラインを使って眞央くんと連絡を取る時も、仕事用のアカウントにメッセージを送ることが多い。

「……あ……一週間くらい見てないかも……怒られる……」
「なら、早く確認して。弓枝さんを安心させて」

 唯一の家族なんだから。
 怒ったように言えば、「すみません……見てきます……」と、眞央くんは背を丸めながら立ち上がった。
 東京の大学を受験するか迷っていた眞央くんの背中を、弓枝さんは押した。大学に受かった眞央くんは一緒に東京に出ようと提案したらしいけど、弓枝さんは地元に残ると話したそうだ。

『眞央にはねぇ、外の世界を見てほしいんよ。けど、私はここに残らなきゃねぇ』

 私が残らないと、ここを守る人がいなくなる。
 ご先祖様のお墓もあるしねぇと、弓枝さんは笑った。
 眞央くんの家に遊びに行った時、また内緒にしてねと、眞央くんがトイレに行っている間に話してくれたことだった。
 大学を卒業して大学院に進んだ眞央くんは、研究者になるために頑張っている。民俗学を学んでいた眞央くんの研究テーマは、そのまま民俗学をベースにしたものだそうだ。
 高校生の時から警察の知り合いに相談事を持ちかけられて情報料だか謝礼金だかをもらっていた眞央くんは、大学受験や入学の費用をそこから出した。そして、大学に入ってからも、今も。研究したり論文を書いたりしながら、相談事を受け付け、仕事をこなしている。
 その仕事内容も、守秘義務があったりして教えてくれないことが多い。
 色々と、巻き込まれているらしいのに。
 私を助けてくれた時以上に、大変な目に遭ってるらしいのに。
 眞央くんは、色んなことを教えてくれない。

「眞央くん」

 スマホを取りに行くためにだろう部屋を出ようとした眞央くんは、私の声に振り向いてくれた。

「ん? どしたの?」

 床に座ったままの私を見ながら、軽く首を傾げる動作をする。
 柔らかな光を湛えているその瞳を見上げながら、口を開く。

「弓枝さんも私も、眞央くんの味方だよ」

 眞央くんはキョトンとしたあと、目をぱちぱちさせて、

「うん、ありがとう、冴紅ちゃん」

 頼りない笑顔でそう言って、部屋を出ていった。
 ……ねえ、眞央くん。
 私、自分のために東京に出たいって言ったけどさ。
 それ、眞央くんの力になりたいって意味なんだよ。
 私を家に置いてくれるの、嬉しいよ。
 家賃、全部持つって言ってくれたの、ちょっと悔しかったけど。そう言ったのに全然引いてくれないから、じゃあ代わりに家事全部するって言った時、ありがとうって言ってくれて嬉しかったよ。結局、半分くらいしかやらせてもらえてないけど。
 初めてスマホを持った時、最初に連絡先を登録したのは両親だけど、次に登録したの、眞央くんだよ。その次は弓枝さんだよ。
 眞央くんがコケたり忘れ物したりするの、あっちに引き込まれそうになったり物を持っていかれたりしてたからでしょ。
 ねぇ、眞央くん。
 今は教えてくれなくてもいいよ。
 けどさ。
 いつかは教えてよ。隠そうとしないでよ。
 眞央くんが誰であっても、私の中の眞央くんは消えないから。
 あの時、抱きしめてくれた眞央くんを消すなんて、誰にも出来やしないから。


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