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第一章 京都市北区のケットシー
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幼い頃には母の膝に乗って絵本を読んでもらうのが日課だった。
たたまれた洗濯物は部屋の隅で一休みしていて、それは太陽の匂いがした。
「この世にはね。まだ魔法があるんだよ」
母はそういって笑顔のままでページをめくる。幼かった私は頬を綻ばせてまだ見ぬ魔法に思いをはせた。いつか自分にも魔法が使えるかもしれないと、庭先で雑草を石の上ですり合わせて魔法の薬を作ったり、自分で考えた意味を持たない単語を組み合わせて空を仰ぐ。
だからといって私の頭に思い描いたみたいな魔法。たとえばキラキラと蛍火が辺りを照らしたり、降りしきる雨が急に晴れ空に姿を変えたり、空からドラゴンが舞い降りるということはなかった。
それでも魔法を使う真似事をしている間は世界がとても輝いて見えていたものだ。
しかしどこかの誰かと同じように年齢を重ねると共に、私の中にあった魔法は現実に塗りつぶされていく。
私はその現実にどうしようもなく耐えきれず、とうとう学校を休学することにした。
高校二年生となった秋の日、夏から長らく学校にいけなくなっていた私の選択に、両親は私の方が驚くほどすんなりと承諾した。それはきっといじめだとか不登校だとか、そういったことで不幸な結末を迎える人がニュースで話題になっていることに関係していると思う。
ともかく私、秋葉 琴音はかつてどこまでも広がっていた世界から、一歩分だけはみ出してしまったのである。
だからきっと私はもう魔法を信じることはないだろう。
押し潰されそうな現実の中でそんなことを考えた。
京都の夜、それも北区ともなると九月の末には身震いするほどの風が吹く。
そして深夜ともなれば風はさらに冷たくなり、私は厚手のコートを着込んで家のドアを開いた。
深夜に散歩をするようになって一週間ほどが経つ。それまでは長らく部屋の中に引きこもっていた私だから、母は心配するというよりもむしろ喜んでいた。
普通ならこういった行動を普通なら止めるのではないのだろうか?
それでも今は、母が私の自由にさせてくれるのが嬉しかった。どうしてもひとりになりたかったから。
私は鴨川を横目に時折立ち止まりながら街を北上する。かつては畑が広がっていたと聞いたこの街も今では新しい住宅にあふれている。
みんなが寝静まっているからだろうか、わずかばかりの街灯が照らす黒く染まったこの街で、私はやっとひとりになれた。
車もほとんど通ることがなく、音もまたない。
私は白いスニーカーがきゅっと音を立てるほど足を踏み込みその場で回る。スキニージーンズは私の足に生地を沿わせたまま、栗色のふんわりと短く切りそろえられた私の髪は夜空に向かって浮かぶ。
厚手の紺色をしたジャケットが浮かび上がり、白いちょっとだけフリルで装飾されたシャツの中に冷たい外気が流れ込む。今、私はどうしようもなく自由だと感じる反面、こうでもしないと息が詰まってまた立ち上がることができなくなってしまう。そう思うときゅっと胸の奥が縮んだ。
シャツの下には母からもらった首飾りが私の動きに合わせて揺れていた。大きな琥珀が中央にあり、その周りに銀がいばらのように包む装飾がほどこされている。
表に出しておくにはまだ私にとって恥ずかしいその首飾りは、夜を散歩するようになってから母がお守りにと首にかけてくれたものだ。
「危険なことから琴音を守ってくれるから」
首飾りを私に手渡した母はそれ以上何も言わなかった。母はこういう所がある。
肝心なことほど口には出さず、それにいつだって私が私自身で気がつくのを待っていのだ。
私は寝静まった街をさらに北上する。市バスの車庫が隣に見えてそこにも人はいない。街灯があまり多くないこの街ではコンビニエンスストアだけが周りから浮いた明かりをまだ残していた。
しばらく歩くと小さな公園が目に入る。大きなイチョウの木で囲まれた箱庭のような場所には小さなブランコと砂場だけがあり、よく整備された砂場に夜風が小さな砂を巻き上げた。
歩き疲れたらどこか寂しそうな公園でちょっとだけ休憩をする。それが私の習慣である。
空には満月が浮かんでいて、他の星が寝静まってしまったかのように光を閉ざしている。雲ひとつなく満月だけが浮かぶ夜空はあまりに整いすぎていてどこか不気味にも感じた。
足元を何かが走り抜けるの感じて私はヒャっと声をあげる。その声に驚いたように私の目の前で一匹の猫が足を止めて私を振り向いた。黄色い目をしっかりと丸めて長い黒い尻尾はふやふやと浮いているかのように揺れている。その黒猫はしばらく私をじっと見た後に再び駆け出した。
ふと駆け出した方向を見て私は口元に手を当てる。そこには両手、いや両足を使っても足りないくらいの数の猫が円を描いてきれいに座っていた。黒猫ばかりではなく三毛猫や白い毛並みが月明かりに反射するシャム猫もまたそこにいる。その猫の集会は静かにこの夜で開かれていた。
かわいい・・・私は息をひそめて公園を包む草木に見を隠しながら猫の集会へと忍び寄る。
猫ちゃんたちもこうやって集まっているのかなと。猫の集会から視線を外せずにいると、逆の入り口から一匹の猫がゆっくりと足を進めてきて、他の猫たちと一緒に私もその猫へと視線を移す。
それは大きな黒猫だった。耳は三角でピンと立ち、長い尻尾をまっすぐに立てて凛としたようすで中央へ歩く。
立派な猫だなぁと私が眺めていると猫は私が隠れる藪を見た。
見つかったかな?と思っても不思議と恐怖感はなかった。相手は猫である。
かわいい以外の感情は浮かばない。しかしだんだんと夜目に慣れてくるとその揺れる尻尾がぼやけて見える。二重に見えてしまっているのか目をこすってもう一度それを見ると、やはり尻尾が二本ある。私は母に読んでもらった絵本の中で、尻尾がたくさんある猫のことを知っている。
猫又と呼ばれる猫の妖怪。そう思い至った時、初めて私の背中に冷たい汗が流れた。
「招かざる客がいるようだな」
私は耳を疑う。しっかりとその猫又は私を見て口を開いた。
たたまれた洗濯物は部屋の隅で一休みしていて、それは太陽の匂いがした。
「この世にはね。まだ魔法があるんだよ」
母はそういって笑顔のままでページをめくる。幼かった私は頬を綻ばせてまだ見ぬ魔法に思いをはせた。いつか自分にも魔法が使えるかもしれないと、庭先で雑草を石の上ですり合わせて魔法の薬を作ったり、自分で考えた意味を持たない単語を組み合わせて空を仰ぐ。
だからといって私の頭に思い描いたみたいな魔法。たとえばキラキラと蛍火が辺りを照らしたり、降りしきる雨が急に晴れ空に姿を変えたり、空からドラゴンが舞い降りるということはなかった。
それでも魔法を使う真似事をしている間は世界がとても輝いて見えていたものだ。
しかしどこかの誰かと同じように年齢を重ねると共に、私の中にあった魔法は現実に塗りつぶされていく。
私はその現実にどうしようもなく耐えきれず、とうとう学校を休学することにした。
高校二年生となった秋の日、夏から長らく学校にいけなくなっていた私の選択に、両親は私の方が驚くほどすんなりと承諾した。それはきっといじめだとか不登校だとか、そういったことで不幸な結末を迎える人がニュースで話題になっていることに関係していると思う。
ともかく私、秋葉 琴音はかつてどこまでも広がっていた世界から、一歩分だけはみ出してしまったのである。
だからきっと私はもう魔法を信じることはないだろう。
押し潰されそうな現実の中でそんなことを考えた。
京都の夜、それも北区ともなると九月の末には身震いするほどの風が吹く。
そして深夜ともなれば風はさらに冷たくなり、私は厚手のコートを着込んで家のドアを開いた。
深夜に散歩をするようになって一週間ほどが経つ。それまでは長らく部屋の中に引きこもっていた私だから、母は心配するというよりもむしろ喜んでいた。
普通ならこういった行動を普通なら止めるのではないのだろうか?
それでも今は、母が私の自由にさせてくれるのが嬉しかった。どうしてもひとりになりたかったから。
私は鴨川を横目に時折立ち止まりながら街を北上する。かつては畑が広がっていたと聞いたこの街も今では新しい住宅にあふれている。
みんなが寝静まっているからだろうか、わずかばかりの街灯が照らす黒く染まったこの街で、私はやっとひとりになれた。
車もほとんど通ることがなく、音もまたない。
私は白いスニーカーがきゅっと音を立てるほど足を踏み込みその場で回る。スキニージーンズは私の足に生地を沿わせたまま、栗色のふんわりと短く切りそろえられた私の髪は夜空に向かって浮かぶ。
厚手の紺色をしたジャケットが浮かび上がり、白いちょっとだけフリルで装飾されたシャツの中に冷たい外気が流れ込む。今、私はどうしようもなく自由だと感じる反面、こうでもしないと息が詰まってまた立ち上がることができなくなってしまう。そう思うときゅっと胸の奥が縮んだ。
シャツの下には母からもらった首飾りが私の動きに合わせて揺れていた。大きな琥珀が中央にあり、その周りに銀がいばらのように包む装飾がほどこされている。
表に出しておくにはまだ私にとって恥ずかしいその首飾りは、夜を散歩するようになってから母がお守りにと首にかけてくれたものだ。
「危険なことから琴音を守ってくれるから」
首飾りを私に手渡した母はそれ以上何も言わなかった。母はこういう所がある。
肝心なことほど口には出さず、それにいつだって私が私自身で気がつくのを待っていのだ。
私は寝静まった街をさらに北上する。市バスの車庫が隣に見えてそこにも人はいない。街灯があまり多くないこの街ではコンビニエンスストアだけが周りから浮いた明かりをまだ残していた。
しばらく歩くと小さな公園が目に入る。大きなイチョウの木で囲まれた箱庭のような場所には小さなブランコと砂場だけがあり、よく整備された砂場に夜風が小さな砂を巻き上げた。
歩き疲れたらどこか寂しそうな公園でちょっとだけ休憩をする。それが私の習慣である。
空には満月が浮かんでいて、他の星が寝静まってしまったかのように光を閉ざしている。雲ひとつなく満月だけが浮かぶ夜空はあまりに整いすぎていてどこか不気味にも感じた。
足元を何かが走り抜けるの感じて私はヒャっと声をあげる。その声に驚いたように私の目の前で一匹の猫が足を止めて私を振り向いた。黄色い目をしっかりと丸めて長い黒い尻尾はふやふやと浮いているかのように揺れている。その黒猫はしばらく私をじっと見た後に再び駆け出した。
ふと駆け出した方向を見て私は口元に手を当てる。そこには両手、いや両足を使っても足りないくらいの数の猫が円を描いてきれいに座っていた。黒猫ばかりではなく三毛猫や白い毛並みが月明かりに反射するシャム猫もまたそこにいる。その猫の集会は静かにこの夜で開かれていた。
かわいい・・・私は息をひそめて公園を包む草木に見を隠しながら猫の集会へと忍び寄る。
猫ちゃんたちもこうやって集まっているのかなと。猫の集会から視線を外せずにいると、逆の入り口から一匹の猫がゆっくりと足を進めてきて、他の猫たちと一緒に私もその猫へと視線を移す。
それは大きな黒猫だった。耳は三角でピンと立ち、長い尻尾をまっすぐに立てて凛としたようすで中央へ歩く。
立派な猫だなぁと私が眺めていると猫は私が隠れる藪を見た。
見つかったかな?と思っても不思議と恐怖感はなかった。相手は猫である。
かわいい以外の感情は浮かばない。しかしだんだんと夜目に慣れてくるとその揺れる尻尾がぼやけて見える。二重に見えてしまっているのか目をこすってもう一度それを見ると、やはり尻尾が二本ある。私は母に読んでもらった絵本の中で、尻尾がたくさんある猫のことを知っている。
猫又と呼ばれる猫の妖怪。そう思い至った時、初めて私の背中に冷たい汗が流れた。
「招かざる客がいるようだな」
私は耳を疑う。しっかりとその猫又は私を見て口を開いた。
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