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第漆章 晴れ着と洋菓子
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出刃包丁にある想いの中で、私は街を駆けている。
駆けている間に三度傘を背負う農夫の姿や、刀を二本刺した紋付の袴を着る男とすれ違った。髪は綺麗に髷が言われている。往来から離れて路地へと入ると威勢のよい男たちの声と木刀が打ち鳴らされていた。
私の住む時代とはまったく違う、ずっと昔の風景である。路地の裏では女たちが噂話に花を咲かせており、井戸端には濡れた野菜が置かれていた。路地の奥の長屋に私は、出刃包丁の男となった私は向かっている。
破れた障子がそのままにある開き戸を開けると、小さな居間が合った。猫の額ほどしかない土間の先には、少女がいた。汚れた着物に髪は目元でまっすぐ整えられ、伸びた髪は肩のあたりでまとめられている。正座をしながら傘に和紙を張り合わせている。
胸の高ぶりと同時に私は少女に駆け寄った。
「お姉ちゃん! 今日のお仕事は終わったよ」
私の口ぶりから少女が私の姉だとわかる。少女は和紙を張り合わせる手を一度止めて、正面に座る私の頬を撫でた。
「またこんなに傷ついて。旦那さんに殴られたの?」
「いつものことだよ! でも働かせてくれるだけマシさ!」
へへと私は強がっている。頬だけではない。体の節々にも痛みを感じた。私の住むよりもずっと昔の、江戸の街並みと生活だった。往来の派手さとはかけ離れた路地の奥にある辛い生活。
少女の頬もこけていて、視界に映る私の両手もひどく痩せている。決して裕福とは言えない生活でも、私の心には幸福であろう温かな液体が満ちている。
「ご飯はまだ少し待ってね。これを終わらせないと」
少女はぽつりと言うと、再び傘へと手を伸ばした。私は少女の隣で流れるような少女の手付きを眺めていた。貧しくとも幸せな風景に見える。
「いつかはこんな傘ではなくて、綺麗な傘を差してみたいなぁ」
少女はポツリポツリと言葉を漏らす。
「お姉ちゃんの傘も綺麗だよ?」
「ううん。彦助は蛇の目傘って知ってる? 傘を開くとね。まるで蛇の目みたいな飾りがあって、色もとりどり! 傘の内には飾り糸があってね。お金持ちしか持てないけど、いつか持ってお散歩してみたいなぁ。こんなボロには似合わないけど」
「なら僕がうんと働いて、お姉ちゃんをもっと裕福にしてあげるね。お姉ちゃんはこんなに綺麗なんだから。ふたりだけでも幸せになれる」
「うん。ならそれまで私が彦助を守るね。傘みたいに降りしきる雨から守ってあげる。ご飯を食べさせてあげられなくてごめんね」
平気さ! と私が胸を張ると腹の音がなって少女は笑った。そして私も頬を染めて目を伏せる。視界がチカチカと揺らぎ、私はまぶたを閉じる。出刃包丁は彦助という名だったのかと、言葉を反芻し飲み込んだ。
次に目を開くと薄暗い家に少女が見えた。まぶたを閉じる前よりもずっと大きくなっており、少女とはもう呼べない年頃であろう。相変わらずボロを身にまとい、背中を丸めて変わらず傘に和紙を張っている。私の視線もずっと高くなっている。
時が流れて彦助すっかりと青年となっていた。
しかし目に映るのは町屋ではなく、ずっと汚れた小屋だった。あたりからは鈴虫の鳴き声や木々の揺れる音がする。壁は汚れて土壁は所々剥がれていた。
以前にもまして貧困であるのは、くぼんだ女性の瞳から光が失われていることからも想像がついた。傘を作る女性と私は一言も言葉を交わさず外に出る。
なぜこんなことになってしまったのだ。と男の想いが私の中に流れ込んできた。扉の外には野谷が広がっており、街は遠くに見えている。
山奥の打ち捨てられた小屋に私たちは住んでいた。
長屋を追われて仕方なく。頼るべき両親はすでに病で死んでおり、力を貸してくれる親戚もまたいない。たったふたりだけの兄妹で生きていくには、この世はあまりに厳しすぎたのだ。
私は姉が病に侵されているのも知っている。医者どころか薬を買う金すらない。奉公先もすでになく、私はまるで野良犬のように生きていた。
裕福な人から物を奪い、隠れて金に変える。時には野党のように親子を襲うこともあった。命までは奪わなくても、その中には自分たちにも似た兄妹の姿もあったのだ。
このまま姉は死んでしまうのだろうか。私はそれだけを恐怖に感じていた。幸せな暮らしからは程遠く、獣のように朽ち果て死んでしまう。
私もまた姉に守られたまま姉の死を見るのだろうか。私が何をしてその日の飯を手に入れているのか姉から聞かれることもない。きっとすでにわかっているのだろう。でもどうしようもないのだ。
病床に伏せることが多くなった姉は飽きることなく傘を作っている。一銭にもならない仕事を拠り所として昔に見た夢を追いかけているのだろう。
蛇の目傘をその身に抱き、往来を歩いてみたい。そんな願いなどもう叶うことはないのに。街に出ると往来は人で溢れている。綺麗な着物に身を包む女性たち、男たちは酒で頬を染めて肩を組んで歩いている。
どうしようもなく憎かった。幸せであるということだけで、殺したいほど憎いと思った。
私は街を歩きながら、雑貨屋で蛇の目傘が目に入る。胸が高鳴った。
姉の望んだ真っ赤な蛇の目傘は開かれ、軒先に置かれている。当然買う金なんてない。ならばやることはひとつだ。
私は路地に身を隠し、夜がいよいよ街から光を奪うまで待つ。人の気配が消えた夜半に、私は店の前に立つ。軒先に並ぶ傘はすでに片付けられていて、家からは寝息すら聞こえない。
私は裏の戸口から忍び込み、広い店の中を物色した。途中に台所には出刃包丁が無造作に置かれていたのが目に入る。私は出刃包丁を左手に取る。もしバレでもして刺されてしまうことは避けたかった。護身用として恐怖を塗りつぶしたかったのもある。
忍び足で居間を抜け、昼は店棚だろう広い場所へとたどり着く。そこには目当ての蛇の目傘があった。真っ赤な傘は他の物より光って見えたのが不思議だった。
私は何も考えることができない。閉じた蛇の目傘の持ち手を取る。
ひどく軽かった。なぜこんな物のために大金を払う必要があるのかが理解できなかった。姉もなぜ固執するのかがわからない。
でも、せめて死ぬ間際にでも姉を傘で包んでやろう。雨漏りのする小屋でも濡れないように。居間まで姉が私を守ってくれたように、今度は私が傘で姉を包むのだ。
踵を返すと男がいた。行燈を右手に目を丸めたまま呆然と眺めている。しまったと私は左手に握った出刃包丁へと力を込めた。
「誰か来てくれ! 盗人だ! 包丁まで持ってやがる! 殺されちまうよ!」
駆けている間に三度傘を背負う農夫の姿や、刀を二本刺した紋付の袴を着る男とすれ違った。髪は綺麗に髷が言われている。往来から離れて路地へと入ると威勢のよい男たちの声と木刀が打ち鳴らされていた。
私の住む時代とはまったく違う、ずっと昔の風景である。路地の裏では女たちが噂話に花を咲かせており、井戸端には濡れた野菜が置かれていた。路地の奥の長屋に私は、出刃包丁の男となった私は向かっている。
破れた障子がそのままにある開き戸を開けると、小さな居間が合った。猫の額ほどしかない土間の先には、少女がいた。汚れた着物に髪は目元でまっすぐ整えられ、伸びた髪は肩のあたりでまとめられている。正座をしながら傘に和紙を張り合わせている。
胸の高ぶりと同時に私は少女に駆け寄った。
「お姉ちゃん! 今日のお仕事は終わったよ」
私の口ぶりから少女が私の姉だとわかる。少女は和紙を張り合わせる手を一度止めて、正面に座る私の頬を撫でた。
「またこんなに傷ついて。旦那さんに殴られたの?」
「いつものことだよ! でも働かせてくれるだけマシさ!」
へへと私は強がっている。頬だけではない。体の節々にも痛みを感じた。私の住むよりもずっと昔の、江戸の街並みと生活だった。往来の派手さとはかけ離れた路地の奥にある辛い生活。
少女の頬もこけていて、視界に映る私の両手もひどく痩せている。決して裕福とは言えない生活でも、私の心には幸福であろう温かな液体が満ちている。
「ご飯はまだ少し待ってね。これを終わらせないと」
少女はぽつりと言うと、再び傘へと手を伸ばした。私は少女の隣で流れるような少女の手付きを眺めていた。貧しくとも幸せな風景に見える。
「いつかはこんな傘ではなくて、綺麗な傘を差してみたいなぁ」
少女はポツリポツリと言葉を漏らす。
「お姉ちゃんの傘も綺麗だよ?」
「ううん。彦助は蛇の目傘って知ってる? 傘を開くとね。まるで蛇の目みたいな飾りがあって、色もとりどり! 傘の内には飾り糸があってね。お金持ちしか持てないけど、いつか持ってお散歩してみたいなぁ。こんなボロには似合わないけど」
「なら僕がうんと働いて、お姉ちゃんをもっと裕福にしてあげるね。お姉ちゃんはこんなに綺麗なんだから。ふたりだけでも幸せになれる」
「うん。ならそれまで私が彦助を守るね。傘みたいに降りしきる雨から守ってあげる。ご飯を食べさせてあげられなくてごめんね」
平気さ! と私が胸を張ると腹の音がなって少女は笑った。そして私も頬を染めて目を伏せる。視界がチカチカと揺らぎ、私はまぶたを閉じる。出刃包丁は彦助という名だったのかと、言葉を反芻し飲み込んだ。
次に目を開くと薄暗い家に少女が見えた。まぶたを閉じる前よりもずっと大きくなっており、少女とはもう呼べない年頃であろう。相変わらずボロを身にまとい、背中を丸めて変わらず傘に和紙を張っている。私の視線もずっと高くなっている。
時が流れて彦助すっかりと青年となっていた。
しかし目に映るのは町屋ではなく、ずっと汚れた小屋だった。あたりからは鈴虫の鳴き声や木々の揺れる音がする。壁は汚れて土壁は所々剥がれていた。
以前にもまして貧困であるのは、くぼんだ女性の瞳から光が失われていることからも想像がついた。傘を作る女性と私は一言も言葉を交わさず外に出る。
なぜこんなことになってしまったのだ。と男の想いが私の中に流れ込んできた。扉の外には野谷が広がっており、街は遠くに見えている。
山奥の打ち捨てられた小屋に私たちは住んでいた。
長屋を追われて仕方なく。頼るべき両親はすでに病で死んでおり、力を貸してくれる親戚もまたいない。たったふたりだけの兄妹で生きていくには、この世はあまりに厳しすぎたのだ。
私は姉が病に侵されているのも知っている。医者どころか薬を買う金すらない。奉公先もすでになく、私はまるで野良犬のように生きていた。
裕福な人から物を奪い、隠れて金に変える。時には野党のように親子を襲うこともあった。命までは奪わなくても、その中には自分たちにも似た兄妹の姿もあったのだ。
このまま姉は死んでしまうのだろうか。私はそれだけを恐怖に感じていた。幸せな暮らしからは程遠く、獣のように朽ち果て死んでしまう。
私もまた姉に守られたまま姉の死を見るのだろうか。私が何をしてその日の飯を手に入れているのか姉から聞かれることもない。きっとすでにわかっているのだろう。でもどうしようもないのだ。
病床に伏せることが多くなった姉は飽きることなく傘を作っている。一銭にもならない仕事を拠り所として昔に見た夢を追いかけているのだろう。
蛇の目傘をその身に抱き、往来を歩いてみたい。そんな願いなどもう叶うことはないのに。街に出ると往来は人で溢れている。綺麗な着物に身を包む女性たち、男たちは酒で頬を染めて肩を組んで歩いている。
どうしようもなく憎かった。幸せであるということだけで、殺したいほど憎いと思った。
私は街を歩きながら、雑貨屋で蛇の目傘が目に入る。胸が高鳴った。
姉の望んだ真っ赤な蛇の目傘は開かれ、軒先に置かれている。当然買う金なんてない。ならばやることはひとつだ。
私は路地に身を隠し、夜がいよいよ街から光を奪うまで待つ。人の気配が消えた夜半に、私は店の前に立つ。軒先に並ぶ傘はすでに片付けられていて、家からは寝息すら聞こえない。
私は裏の戸口から忍び込み、広い店の中を物色した。途中に台所には出刃包丁が無造作に置かれていたのが目に入る。私は出刃包丁を左手に取る。もしバレでもして刺されてしまうことは避けたかった。護身用として恐怖を塗りつぶしたかったのもある。
忍び足で居間を抜け、昼は店棚だろう広い場所へとたどり着く。そこには目当ての蛇の目傘があった。真っ赤な傘は他の物より光って見えたのが不思議だった。
私は何も考えることができない。閉じた蛇の目傘の持ち手を取る。
ひどく軽かった。なぜこんな物のために大金を払う必要があるのかが理解できなかった。姉もなぜ固執するのかがわからない。
でも、せめて死ぬ間際にでも姉を傘で包んでやろう。雨漏りのする小屋でも濡れないように。居間まで姉が私を守ってくれたように、今度は私が傘で姉を包むのだ。
踵を返すと男がいた。行燈を右手に目を丸めたまま呆然と眺めている。しまったと私は左手に握った出刃包丁へと力を込めた。
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