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第伍章 マッチ箱と燃え盛る日常
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「これはこれは。よからぬ予感がするな。それに匂いを感じぬか?」
「姫。私には感覚がありません。・・・詳しく教えてください」
それは私も感じていた。生々しく鼻をつく鉄の混じった匂い。姫の笑い声が高さを増して路地へと響いた。
「血の匂いじゃよ。それも扉から流れ出してしまうほどの血。八代よ。急いだ方がよさそうだな」
わかっていると。と駆け出した私にヤハズが続き扉を開く。囲炉裏の火が消えており、部屋は闇に包まれていた。畳の上には黒い塊と、流れる血の赤だけが暗闇でもよく見えた。見たくもない情景ほど、よく見えてしまうのだ。
開かれたままの扉から、部屋の中を照らすには弱々しい光が流れる。
光は囲炉裏の前で倒れる狗鷲と、背中に突き刺さる包丁の根元を照らした。ぬらりと鈍色に反射した包丁と畳を染める赤い血、身動きひとつしない狗鷲が絶命しているのは改めなくても明らかだった。思わず近寄ろうとする私の肩をヤハズが掴む。
「そのままにしておけ。妙な疑いをかけられても面倒だ。見てわかるだろう? もう死んでいるよ」
あぁ。と私の肩から力が抜けた。駆け寄り抱きしめたからといって、狗鷲が生き返るわけでもない。血と共に流れ出した命。
命と一緒に魂も流れ出してしまうのだろうか。絶命した狗鷲は哀れなことに戸棚に並んだ品物と同じに見えた。人という器から魂が解放されたのかもしれない。
かつては意志を宿していた付喪と同じだ。ただの物である。
「これはこれは。口を封じられたようだな。残念至極」
姫は笑みを絶やさずにいった。まだに視線を狗鷲の遺体から離せない私の隣に姫が並ぶ。ヤハズは歯噛みし、眉間へしわを寄せていた。
「どうする? 一度戻るか? 誰かが駆けつけてくる前に」
ヤハズの言葉にようやく私の思考が回り始める。
事切れた狗鷲に近づき、畳を濡らす血に触れた。まだ暖かく湿っている。狗鷲は何を望むのだろうか。仇を討ってくれとは言わないだろう。そのまま自然にしておけというだろうか。きっと自分の成すべきことを成せというのだろう。
振り向きヤハズと姫を見る。そして動転して今まで気がつかなかったことに総毛立つ。
扉の横にある戸棚の隅に、米の積まれた麻袋と色を同じにした背広があった。うずくまり膝を抱えて身を隠しているようだった。
馬鹿だな俺は。
腰紐に垂らした白蛇のキセルに手を当てた瞬間、背広の男は弾けるように立ち上がり、開かれた戸から駆け出していった。ヤハズも驚き振り向いて、開かれた戸へと視線を向ける。姫は口元に指先を当ててたまらず吹き出した。
「おやおや。気がつかれてしまったなぁ。暗がりに隠れても、部屋いっぱいに広がる妾の影からは逃れられぬ。謎解きの結末は呆気がないのぉ」
「姫。なぜ教えてくれなかったのですか!?」
珍しくヤハズが驚き細い眉は弧を描いた。姫はじぃっと私を見ている。赤黒い瞳は私をとらえて離さない。
「なぜ男が潜んでいるのを教えなかった?」
「聞かれなかったからじゃよ。気がつかぬ八代が悪い。追うのか?」
当たり前だと私は男が走り去った路地へと向かう。姫はヤハズの背に飛び乗り、遅れてヤハズは私に続く。
路地から出ると人の往来は割れ、走り去る背広姿の男を誰もが見えていた。道の中央で走る男を私と私の影に溶け込み、人には見えないヤハズが追う。ヤハズの背には姫が乗り、右手を伸ばして男を指差した。
「さぁ行け! 敵を追い詰めるのじゃ!」
なぜこんなにも楽しそうに。私はヤハズと共に人混みをかきわけ男を追った。男は何度も私たちの方を振り返り、そしていよいよ観念したのか立ち止まる。私たちを振り返り、ポケットから小箱を取り出した。
手のひらに納まるほどの小箱を右手に持ち直し、器用に小箱の中から赤く塗られたマッチを取り出す。人差し指を立て器用に小箱の側方へ擦りつけた。
眉をひそめる私の横でヤハズがちらりと私を視線を送る。
「惚けている場合か! ここでは人が多すぎる!」
「焦るなよ。この後に及んでマッチだけどうにもならん」
「バカめ。これだから人はあてにならないんだ」
まさかと立ち止まり男と対峙する。人混みの合間から見える男は右手に持った小さなマッチを頭上に掲げた。人差し指の先ほどしかない灯火は、手のひらほどに膨れ上がる。いく度かの脈動を経て、かがり火は炎となり、回転しながら人なら包み込めそうな大きさの火球となった。
「あいつは付喪之人か! 人を巻き込もうとしている。なぜだ!?」
「私に考えが及ぶか。マッチとはそのような物だろう。姫・・・人が焼かれるのは別に構いませんが、面倒に巻き込まれたくはございません」
うむ。と姫はヤハズの背中から飛び降り、あたりを見渡す。
「影が足りぬが仕方がない。時間はわずかじゃ。よいか? のんびりしておると影に呑まれてしまうからな」
姫はしゃがみこみ、地面に手を当てフフフと笑う。街ゆく人は呆然と火球を見上げていた。芸人の余興とでも思っているのか手を叩き、囃し立てる者さえいた。
火球は小さな太陽のように人を照らして影を伸ばす。伸ばされた影は地面に置かれた姫の手に伸び、足元へと広がっていく。
「よいか? 言っておくが長くは持たぬぞ? ・・・・影花」
姫はぽつりと呟くと、手元に集まった底の見えない黒い影が雫跡から円を描きつつ一気に広がった。目を奪われる私をよそに私とヤハズ、そして火球を掲げる男を家々の立ち並ぶ通りごと呑み込んでいく。
まばたきほどのわずかな時間で、あたりは夜に呑まれてしまった。いや、影に呑まれてしまい輪郭を残したまま家々や往来は黒く染まる。そして人の姿は消えていた。
影の中には私とヤハズ、姫とマッチ箱の男しかいない。男は明らかに困惑していた。驚きながら目を丸め、火球に照らされた丸顔には口ひげが生えていた。
耳元で整えられた髪は刈り上げられており、黒く小さな瞳はどこか動物を思わせる。
茶色の背広は端々が汚れてほつれており、見た目よりもずっとみすぼらしい。みすぼらしいが狗鷲の返り血で濡れた背広が狂気的に男を見せている。
実際に狂気に身を委ねているのだろう。理由はわからないが。
「おいおい。これも姫ちゃんの影かい?」
私が尋ねると、そうじゃ! と身を起こした姫が腰に手を当てる。
「影花は影で空間を包む。そして飲めるのは妾が選んだ事柄だけじゃ。妾の影に人はいらない。それだけのことだな」
ありがとうございます。とヤハズは一歩前に踏み出して白手袋を整える。
「しかし影花は多くの影を使う。その間、姫はイバラを出せないのだ。八代。あいつが狗鷲とやらを殺したことは明らかだ。となるとあいつが出刃包丁の男につながっている。そう考えるのが当然だな?」
「あぁそうだろう。ただし事実は煙に巻かねばわからないがな」
「ならば姫を守っていろ。私がとらえて差し出そう」
おい! 勝手な・・・と言い終わる前にヤハズはマッチ箱の男へと駆け出した。
「姫。私には感覚がありません。・・・詳しく教えてください」
それは私も感じていた。生々しく鼻をつく鉄の混じった匂い。姫の笑い声が高さを増して路地へと響いた。
「血の匂いじゃよ。それも扉から流れ出してしまうほどの血。八代よ。急いだ方がよさそうだな」
わかっていると。と駆け出した私にヤハズが続き扉を開く。囲炉裏の火が消えており、部屋は闇に包まれていた。畳の上には黒い塊と、流れる血の赤だけが暗闇でもよく見えた。見たくもない情景ほど、よく見えてしまうのだ。
開かれたままの扉から、部屋の中を照らすには弱々しい光が流れる。
光は囲炉裏の前で倒れる狗鷲と、背中に突き刺さる包丁の根元を照らした。ぬらりと鈍色に反射した包丁と畳を染める赤い血、身動きひとつしない狗鷲が絶命しているのは改めなくても明らかだった。思わず近寄ろうとする私の肩をヤハズが掴む。
「そのままにしておけ。妙な疑いをかけられても面倒だ。見てわかるだろう? もう死んでいるよ」
あぁ。と私の肩から力が抜けた。駆け寄り抱きしめたからといって、狗鷲が生き返るわけでもない。血と共に流れ出した命。
命と一緒に魂も流れ出してしまうのだろうか。絶命した狗鷲は哀れなことに戸棚に並んだ品物と同じに見えた。人という器から魂が解放されたのかもしれない。
かつては意志を宿していた付喪と同じだ。ただの物である。
「これはこれは。口を封じられたようだな。残念至極」
姫は笑みを絶やさずにいった。まだに視線を狗鷲の遺体から離せない私の隣に姫が並ぶ。ヤハズは歯噛みし、眉間へしわを寄せていた。
「どうする? 一度戻るか? 誰かが駆けつけてくる前に」
ヤハズの言葉にようやく私の思考が回り始める。
事切れた狗鷲に近づき、畳を濡らす血に触れた。まだ暖かく湿っている。狗鷲は何を望むのだろうか。仇を討ってくれとは言わないだろう。そのまま自然にしておけというだろうか。きっと自分の成すべきことを成せというのだろう。
振り向きヤハズと姫を見る。そして動転して今まで気がつかなかったことに総毛立つ。
扉の横にある戸棚の隅に、米の積まれた麻袋と色を同じにした背広があった。うずくまり膝を抱えて身を隠しているようだった。
馬鹿だな俺は。
腰紐に垂らした白蛇のキセルに手を当てた瞬間、背広の男は弾けるように立ち上がり、開かれた戸から駆け出していった。ヤハズも驚き振り向いて、開かれた戸へと視線を向ける。姫は口元に指先を当ててたまらず吹き出した。
「おやおや。気がつかれてしまったなぁ。暗がりに隠れても、部屋いっぱいに広がる妾の影からは逃れられぬ。謎解きの結末は呆気がないのぉ」
「姫。なぜ教えてくれなかったのですか!?」
珍しくヤハズが驚き細い眉は弧を描いた。姫はじぃっと私を見ている。赤黒い瞳は私をとらえて離さない。
「なぜ男が潜んでいるのを教えなかった?」
「聞かれなかったからじゃよ。気がつかぬ八代が悪い。追うのか?」
当たり前だと私は男が走り去った路地へと向かう。姫はヤハズの背に飛び乗り、遅れてヤハズは私に続く。
路地から出ると人の往来は割れ、走り去る背広姿の男を誰もが見えていた。道の中央で走る男を私と私の影に溶け込み、人には見えないヤハズが追う。ヤハズの背には姫が乗り、右手を伸ばして男を指差した。
「さぁ行け! 敵を追い詰めるのじゃ!」
なぜこんなにも楽しそうに。私はヤハズと共に人混みをかきわけ男を追った。男は何度も私たちの方を振り返り、そしていよいよ観念したのか立ち止まる。私たちを振り返り、ポケットから小箱を取り出した。
手のひらに納まるほどの小箱を右手に持ち直し、器用に小箱の中から赤く塗られたマッチを取り出す。人差し指を立て器用に小箱の側方へ擦りつけた。
眉をひそめる私の横でヤハズがちらりと私を視線を送る。
「惚けている場合か! ここでは人が多すぎる!」
「焦るなよ。この後に及んでマッチだけどうにもならん」
「バカめ。これだから人はあてにならないんだ」
まさかと立ち止まり男と対峙する。人混みの合間から見える男は右手に持った小さなマッチを頭上に掲げた。人差し指の先ほどしかない灯火は、手のひらほどに膨れ上がる。いく度かの脈動を経て、かがり火は炎となり、回転しながら人なら包み込めそうな大きさの火球となった。
「あいつは付喪之人か! 人を巻き込もうとしている。なぜだ!?」
「私に考えが及ぶか。マッチとはそのような物だろう。姫・・・人が焼かれるのは別に構いませんが、面倒に巻き込まれたくはございません」
うむ。と姫はヤハズの背中から飛び降り、あたりを見渡す。
「影が足りぬが仕方がない。時間はわずかじゃ。よいか? のんびりしておると影に呑まれてしまうからな」
姫はしゃがみこみ、地面に手を当てフフフと笑う。街ゆく人は呆然と火球を見上げていた。芸人の余興とでも思っているのか手を叩き、囃し立てる者さえいた。
火球は小さな太陽のように人を照らして影を伸ばす。伸ばされた影は地面に置かれた姫の手に伸び、足元へと広がっていく。
「よいか? 言っておくが長くは持たぬぞ? ・・・・影花」
姫はぽつりと呟くと、手元に集まった底の見えない黒い影が雫跡から円を描きつつ一気に広がった。目を奪われる私をよそに私とヤハズ、そして火球を掲げる男を家々の立ち並ぶ通りごと呑み込んでいく。
まばたきほどのわずかな時間で、あたりは夜に呑まれてしまった。いや、影に呑まれてしまい輪郭を残したまま家々や往来は黒く染まる。そして人の姿は消えていた。
影の中には私とヤハズ、姫とマッチ箱の男しかいない。男は明らかに困惑していた。驚きながら目を丸め、火球に照らされた丸顔には口ひげが生えていた。
耳元で整えられた髪は刈り上げられており、黒く小さな瞳はどこか動物を思わせる。
茶色の背広は端々が汚れてほつれており、見た目よりもずっとみすぼらしい。みすぼらしいが狗鷲の返り血で濡れた背広が狂気的に男を見せている。
実際に狂気に身を委ねているのだろう。理由はわからないが。
「おいおい。これも姫ちゃんの影かい?」
私が尋ねると、そうじゃ! と身を起こした姫が腰に手を当てる。
「影花は影で空間を包む。そして飲めるのは妾が選んだ事柄だけじゃ。妾の影に人はいらない。それだけのことだな」
ありがとうございます。とヤハズは一歩前に踏み出して白手袋を整える。
「しかし影花は多くの影を使う。その間、姫はイバラを出せないのだ。八代。あいつが狗鷲とやらを殺したことは明らかだ。となるとあいつが出刃包丁の男につながっている。そう考えるのが当然だな?」
「あぁそうだろう。ただし事実は煙に巻かねばわからないがな」
「ならば姫を守っていろ。私がとらえて差し出そう」
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