4 / 44
第弐章 まな板と翁の商い
-1-
しおりを挟む
包丁がまな板をたたく音がした。私が目を開くと土間に置かれた台所には割烹着姿の女性が見えた。背中を丸めて丸い額に浮かぶ汗を拭っている。ふっくらとした体つきに割烹着はあつらえたように似合っていた。
視界はまだおぼろげで、頭の中はまだ眠っている。
それが母の姿だと思い至って、私はこの光景が夢だと知った。
居間にはちゃぶ台の前に着流しを着た父がいて憮然とあぐら組んでおり、見上げる私に気がつくと父は角ばった顎先を撫でて笑った。肩幅が広く胸板は厚い。代わりに私の両手はまだまだ小さく、子供の頃の夢だと気がつく。土間の向こうには店先が見えた。骨董品から日用品まで並ぶ父の店だ。
目の前に広がる穏やかな光景、戦火はまだ見知らぬ場所にあり、人は変わりゆく世相の中で希望を持って生きていた。生活は豊かになり、西洋の文化もまた心を踊らせる範疇にあったのだ。私の足が自然と立ち上がり今の奥にある仏間に向かう。そこには仏の代わりに神が祀られていた。
置かれた神棚は磨かれた木製であり、中央には銀色のキセルが祀られている。
そして正面には白髪を結った白い和装の老婆が向かい合っている。畳まれた足は細く筋張っていて細い首には皮膚が垂れていた。
私は祖母の隣に座って一緒に祀られている銀色のキセルを見上げた。白蛇が巻きつくように装飾されたキセルは美しく、思わず手を伸ばしたくなる。
私に気がついた祖母は視線を下ろして笑い皺がたんまりと刻まれた笑みを向けた。
「ほらほら八代。白蛇さまにご挨拶は? 」
ふわりと中空に浮くような声色は優しく、自然と耳から心に流れ込んでくる。
私は視線をキセルに向けたままお辞儀をする。祖母は細い指先で私の頭を撫でた。
「よくできました。おばあちゃんたちを守ってくれる付喪神さまには礼を尽くさなければなりません。お婆ちゃんのお婆ちゃん、そのまたお婆ちゃんの世代から受け継がれてきた大切な神さまですから」
「うん知っている。お婆ちゃんは付喪神さまとお話ができているんでしょう? 」
声帯がまだ未熟な、鼻にかかる高い声がした。それが夢の中にいる自分の声だと気がつくのにしばらくかかった。
「もちろんですよ。それに白蛇さまだけではありません。すべての物には想いがあります。人と同じような・・・いえ、それ以上に純粋な想いがあるのです。水瓶ならば水をその身にためることに心血を注ぎ、大黒柱なら家を支えて家人を守ることを望むでしょう。ただそれだけの純粋な想い。物が抱く想いを尊ぶことが大切なのです。それが物を大切にすること。そして大切にされた物はやがて意思を持ちます。漠然とした思考は確かなになるのです。お話しすることだってできますよ」
「僕もいつか物の声を聞けるかなぁ」
「八代にはもう聞こえていますよ。後はそれを理解するだけです。でも気をつけてね。想いを聞いて汲み続けるということは、八代にも想いが流れ込んできているの。そして物も同じ。人の強すぎる想いが注がれた物は、やがて人になりかわろうとするの。人なんかに憧れちゃうのね」
「怖いね・・・」
「人の強すぎる想いは意思を持った物である付喪にする。人に憧れた付喪はいつしか人に成り代わる。人の魂を食らってね。それを望まぬとも憧れがそうさせてしまうの。付喪之人と呼ばれる存在になった付喪は神を目指し始める。多くの人を食らって想いを集めてね。不思議な、人知を超えた力も使えるようになってしまう。それに一度人の形を持ったなら失うことを恐れてしまうから。不滅なる存在になろうとするの」
それは人も獣も同じなの。と祖母は言葉を結ぶ。指先が震えるのが見えて幼い私は恐怖を抱いているのがわかった。
「やっぱり怖いよ。お婆ちゃんは怖くないの?」
「怖いよ。でもね、大丈夫。白蛇さまが守ってくれるから。ずっと昔は人に害を与える付喪を払うことはできたけど、力はすっかりと薄れてしまったし、八代のお父さんには物の声を聴く力はない。でもね、八代がもっと小さい時には物と一緒に遊んでいたのよ? 物もあなたを守るように周りに集まってきた。きっといつか八代も物と語れるようになるわ。その時は、白蛇さまをお願いね」
うん。と破顔したまま祖母に頷くと満足そうに祖母は頷いた。祖母が亡くなり付喪の話も記憶から失われていった。
そして両親も死んだ。家は無事に焼け残ったというのに逃げ出した橋の下で、炎に焼かれて死んでいったという。
両親の亡骸はなく、話に聞いただけだ。
私が戦争から生き残って戻ったら家と、銀色のキセルが残されていただけだった。
だからこそ、今の私は夢から覚めるのが怖い。
しかし私の脳髄は現実に戻らないという選択を許してくれない。ぐつぐつと音がして、味噌の匂いと甘い、米の炊ける匂いに包まれ私は瞼を開く。
そこには割烹着姿ではなく、エプロン姿の洋装をした、女給仕の姿があった。
視界はまだおぼろげで、頭の中はまだ眠っている。
それが母の姿だと思い至って、私はこの光景が夢だと知った。
居間にはちゃぶ台の前に着流しを着た父がいて憮然とあぐら組んでおり、見上げる私に気がつくと父は角ばった顎先を撫でて笑った。肩幅が広く胸板は厚い。代わりに私の両手はまだまだ小さく、子供の頃の夢だと気がつく。土間の向こうには店先が見えた。骨董品から日用品まで並ぶ父の店だ。
目の前に広がる穏やかな光景、戦火はまだ見知らぬ場所にあり、人は変わりゆく世相の中で希望を持って生きていた。生活は豊かになり、西洋の文化もまた心を踊らせる範疇にあったのだ。私の足が自然と立ち上がり今の奥にある仏間に向かう。そこには仏の代わりに神が祀られていた。
置かれた神棚は磨かれた木製であり、中央には銀色のキセルが祀られている。
そして正面には白髪を結った白い和装の老婆が向かい合っている。畳まれた足は細く筋張っていて細い首には皮膚が垂れていた。
私は祖母の隣に座って一緒に祀られている銀色のキセルを見上げた。白蛇が巻きつくように装飾されたキセルは美しく、思わず手を伸ばしたくなる。
私に気がついた祖母は視線を下ろして笑い皺がたんまりと刻まれた笑みを向けた。
「ほらほら八代。白蛇さまにご挨拶は? 」
ふわりと中空に浮くような声色は優しく、自然と耳から心に流れ込んでくる。
私は視線をキセルに向けたままお辞儀をする。祖母は細い指先で私の頭を撫でた。
「よくできました。おばあちゃんたちを守ってくれる付喪神さまには礼を尽くさなければなりません。お婆ちゃんのお婆ちゃん、そのまたお婆ちゃんの世代から受け継がれてきた大切な神さまですから」
「うん知っている。お婆ちゃんは付喪神さまとお話ができているんでしょう? 」
声帯がまだ未熟な、鼻にかかる高い声がした。それが夢の中にいる自分の声だと気がつくのにしばらくかかった。
「もちろんですよ。それに白蛇さまだけではありません。すべての物には想いがあります。人と同じような・・・いえ、それ以上に純粋な想いがあるのです。水瓶ならば水をその身にためることに心血を注ぎ、大黒柱なら家を支えて家人を守ることを望むでしょう。ただそれだけの純粋な想い。物が抱く想いを尊ぶことが大切なのです。それが物を大切にすること。そして大切にされた物はやがて意思を持ちます。漠然とした思考は確かなになるのです。お話しすることだってできますよ」
「僕もいつか物の声を聞けるかなぁ」
「八代にはもう聞こえていますよ。後はそれを理解するだけです。でも気をつけてね。想いを聞いて汲み続けるということは、八代にも想いが流れ込んできているの。そして物も同じ。人の強すぎる想いが注がれた物は、やがて人になりかわろうとするの。人なんかに憧れちゃうのね」
「怖いね・・・」
「人の強すぎる想いは意思を持った物である付喪にする。人に憧れた付喪はいつしか人に成り代わる。人の魂を食らってね。それを望まぬとも憧れがそうさせてしまうの。付喪之人と呼ばれる存在になった付喪は神を目指し始める。多くの人を食らって想いを集めてね。不思議な、人知を超えた力も使えるようになってしまう。それに一度人の形を持ったなら失うことを恐れてしまうから。不滅なる存在になろうとするの」
それは人も獣も同じなの。と祖母は言葉を結ぶ。指先が震えるのが見えて幼い私は恐怖を抱いているのがわかった。
「やっぱり怖いよ。お婆ちゃんは怖くないの?」
「怖いよ。でもね、大丈夫。白蛇さまが守ってくれるから。ずっと昔は人に害を与える付喪を払うことはできたけど、力はすっかりと薄れてしまったし、八代のお父さんには物の声を聴く力はない。でもね、八代がもっと小さい時には物と一緒に遊んでいたのよ? 物もあなたを守るように周りに集まってきた。きっといつか八代も物と語れるようになるわ。その時は、白蛇さまをお願いね」
うん。と破顔したまま祖母に頷くと満足そうに祖母は頷いた。祖母が亡くなり付喪の話も記憶から失われていった。
そして両親も死んだ。家は無事に焼け残ったというのに逃げ出した橋の下で、炎に焼かれて死んでいったという。
両親の亡骸はなく、話に聞いただけだ。
私が戦争から生き残って戻ったら家と、銀色のキセルが残されていただけだった。
だからこそ、今の私は夢から覚めるのが怖い。
しかし私の脳髄は現実に戻らないという選択を許してくれない。ぐつぐつと音がして、味噌の匂いと甘い、米の炊ける匂いに包まれ私は瞼を開く。
そこには割烹着姿ではなく、エプロン姿の洋装をした、女給仕の姿があった。
0
お気に入りに追加
3
あなたにおすすめの小説

百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
拝啓、愛しの侯爵様~行き遅れ令嬢ですが、運命の人は案外近くにいたようです~
藤原ライラ
ファンタジー
心を奪われた手紙の先には、運命の人が待っていた――
子爵令嬢のキャロラインは、両親を早くに亡くし、年の離れた弟の面倒を見ているうちにすっかり婚期を逃しつつあった。夜会でも誰からも相手にされない彼女は、新しい出会いを求めて文通を始めることに。届いた美しい字で洗練された内容の手紙に、相手はきっとうんと年上の素敵なおじ様のはずだとキャロラインは予想する。
彼とのやり取りにときめく毎日だがそれに難癖をつける者がいた。幼馴染で侯爵家の嫡男、クリストファーである。
「理想の相手なんかに巡り合えるわけないだろう。現実を見た方がいい」
四つ年下の彼はいつも辛辣で彼女には冷たい。
そんな時キャロラインは、夜会で想像した文通相手とそっくりな人物に出会ってしまう……。
文通相手の正体は一体誰なのか。そしてキャロラインの恋の行方は!?
じれじれ両片思いです。
※他サイトでも掲載しています。
イラスト:ひろ様(https://xfolio.jp/portfolio/hiro_foxtail)
異世界でぺったんこさん!〜無限収納5段階活用で無双する〜
KeyBow
ファンタジー
間もなく50歳になる銀行マンのおっさんは、高校生達の異世界召喚に巻き込まれた。
何故か若返り、他の召喚者と同じ高校生位の年齢になっていた。
召喚したのは、魔王を討ち滅ぼす為だと伝えられる。自分で2つのスキルを選ぶ事が出来ると言われ、おっさんが選んだのは無限収納と飛翔!
しかし召喚した者達はスキルを制御する為の装飾品と偽り、隷属の首輪を装着しようとしていた・・・
いち早くその嘘に気が付いたおっさんが1人の少女を連れて逃亡を図る。
その後おっさんは無限収納の5段階活用で無双する!・・・はずだ。
上空に飛び、そこから大きな岩を落として押しつぶす。やがて救った少女は口癖のように言う。
またぺったんこですか?・・・

爺さんの異世界建国記 〜荒廃した異世界を農業で立て直していきます。いきなりの土作りはうまくいかない。
秋田ノ介
ファンタジー
88歳の爺さんが、異世界に転生して農業の知識を駆使して建国をする話。
異世界では、戦乱が絶えず、土地が荒廃し、人心は乱れ、国家が崩壊している。そんな世界を司る女神から、世界を救うように懇願される。爺は、耳が遠いせいで、村長になって村人が飢えないようにしてほしいと頼まれたと勘違いする。
その願いを叶えるために、農業で村人の飢えをなくすことを目標にして、生活していく。それが、次第に輪が広がり世界の人々に希望を与え始める。戦争で成人男性が極端に少ない世界で、13歳のロッシュという若者に転生した爺の周りには、ハーレムが出来上がっていく。徐々にその地に、流浪をしている者たちや様々な種族の者たちが様々な思惑で集まり、国家が出来上がっていく。
飢えを乗り越えた『村』は、王国から狙われることとなる。強大な軍事力を誇る王国に対して、ロッシュは知恵と知識、そして魔法や仲間たちと協力して、その脅威を乗り越えていくオリジナル戦記。
完結済み。全400話、150万字程度程度になります。元は他のサイトで掲載していたものを加筆修正して、掲載します。一日、少なくとも二話は更新します。
髪の色は愛の証 〜白髪少年愛される〜
あめ
ファンタジー
髪の色がとてもカラフルな世界。
そんな世界に唯一現れた白髪の少年。
その少年とは神様に転生させられた日本人だった。
その少年が“髪の色=愛の証”とされる世界で愛を知らぬ者として、可愛がられ愛される話。
⚠第1章の主人公は、2歳なのでめっちゃ拙い発音です。滑舌死んでます。
⚠愛されるだけではなく、ちょっと可哀想なお話もあります。

【完結】仰る通り、貴方の子ではありません
ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは
私に似た待望の男児だった。
なのに認められず、
不貞の濡れ衣を着せられ、
追い出されてしまった。
実家からも勘当され
息子と2人で生きていくことにした。
* 作り話です
* 暇つぶしにどうぞ
* 4万文字未満
* 完結保証付き
* 少し大人表現あり
貧民街の元娼婦に育てられた孤児は前世の記憶が蘇り底辺から成り上がり世界の救世主になる。
黒ハット
ファンタジー
【完結しました】捨て子だった主人公は、元貴族の側室で騙せれて娼婦だった女性に拾われて最下層階級の貧民街で育てられるが、13歳の時に崖から川に突き落とされて意識が無くなり。気が付くと前世の日本で物理学の研究生だった記憶が蘇り、周りの人たちの善意で底辺から抜け出し成り上がって世界の救世主と呼ばれる様になる。
この作品は小説書き始めた初期の作品で内容と書き方をリメイクして再投稿を始めました。感想、応援よろしくお願いいたします。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる