【完結】古道具屋の翁~出刃包丁と蛇の目傘~

tanakan

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第弐章 まな板と翁の商い

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 包丁がまな板をたたく音がした。私が目を開くと土間に置かれた台所には割烹着姿の女性が見えた。背中を丸めて丸い額に浮かぶ汗を拭っている。ふっくらとした体つきに割烹着はあつらえたように似合っていた。
 視界はまだおぼろげで、頭の中はまだ眠っている。
 それが母の姿だと思い至って、私はこの光景が夢だと知った。

 居間にはちゃぶ台の前に着流しを着た父がいて憮然とあぐら組んでおり、見上げる私に気がつくと父は角ばった顎先を撫でて笑った。肩幅が広く胸板は厚い。代わりに私の両手はまだまだ小さく、子供の頃の夢だと気がつく。土間の向こうには店先が見えた。骨董品から日用品まで並ぶ父の店だ。

 目の前に広がる穏やかな光景、戦火はまだ見知らぬ場所にあり、人は変わりゆく世相の中で希望を持って生きていた。生活は豊かになり、西洋の文化もまた心を踊らせる範疇はんちゅうにあったのだ。私の足が自然と立ち上がり今の奥にある仏間に向かう。そこには仏の代わりに神がまつられていた。
 置かれた神棚は磨かれた木製であり、中央には銀色のキセルが祀られている。
 そして正面には白髪を結った白い和装の老婆が向かい合っている。畳まれた足は細く筋張っていて細い首には皮膚が垂れていた。

 私は祖母の隣に座って一緒に祀られている銀色のキセルを見上げた。白蛇が巻きつくように装飾されたキセルは美しく、思わず手を伸ばしたくなる。
 私に気がついた祖母は視線を下ろして笑い皺がたんまりと刻まれた笑みを向けた。

「ほらほら八代やしろ。白蛇さまにご挨拶は? 」

 ふわりと中空に浮くような声色は優しく、自然と耳から心に流れ込んでくる。
 私は視線をキセルに向けたままお辞儀をする。祖母は細い指先で私の頭を撫でた。

「よくできました。おばあちゃんたちを守ってくれる付喪神つくもがみさまには礼を尽くさなければなりません。お婆ちゃんのお婆ちゃん、そのまたお婆ちゃんの世代から受け継がれてきた大切な神さまですから」

「うん知っている。お婆ちゃんは付喪神さまとお話ができているんでしょう? 」

 声帯がまだ未熟な、鼻にかかる高い声がした。それが夢の中にいる自分の声だと気がつくのにしばらくかかった。

「もちろんですよ。それに白蛇びゃくださまだけではありません。すべての物には想いがあります。人と同じような・・・いえ、それ以上に純粋な想いがあるのです。水瓶ならば水をその身にためることに心血を注ぎ、大黒柱なら家を支えて家人を守ることを望むでしょう。ただそれだけの純粋な想い。物が抱く想いを尊ぶことが大切なのです。それが物を大切にすること。そして大切にされた物はやがて意思を持ちます。漠然ばくぜんとした思考は確かなになるのです。お話しすることだってできますよ」

「僕もいつか物の声を聞けるかなぁ」

「八代にはもう聞こえていますよ。後はそれを理解するだけです。でも気をつけてね。想いを聞いて汲み続けるということは、八代にも想いが流れ込んできているの。そして物も同じ。人の強すぎる想いが注がれた物は、やがて人になりかわろうとするの。人なんかに憧れちゃうのね」

「怖いね・・・」

「人の強すぎる想いは意思を持った物である付喪つくもにする。人に憧れた付喪はいつしか人に成り代わる。人の魂を食らってね。それを望まぬとも憧れがそうさせてしまうの。付喪之人つくものひとと呼ばれる存在になった付喪は神を目指し始める。多くの人を食らって想いを集めてね。不思議な、人知を超えた力も使えるようになってしまう。それに一度人の形を持ったなら失うことを恐れてしまうから。不滅なる存在になろうとするの」

 それは人も獣も同じなの。と祖母は言葉を結ぶ。指先が震えるのが見えて幼い私は恐怖を抱いているのがわかった。

「やっぱり怖いよ。お婆ちゃんは怖くないの?」

「怖いよ。でもね、大丈夫。白蛇さまが守ってくれるから。ずっと昔は人に害を与える付喪を払うことはできたけど、力はすっかりと薄れてしまったし、八代のお父さんには物の声を聴く力はない。でもね、八代がもっと小さい時には物と一緒に遊んでいたのよ? 物もあなたを守るように周りに集まってきた。きっといつか八代も物と語れるようになるわ。その時は、白蛇さまをお願いね」
 うん。と破顔したまま祖母に頷くと満足そうに祖母は頷いた。祖母が亡くなり付喪の話も記憶から失われていった。
 そして両親も死んだ。家は無事に焼け残ったというのに逃げ出した橋の下で、炎に焼かれて死んでいったという。

 両親の亡骸はなく、話に聞いただけだ。
 
 私が戦争から生き残って戻ったら家と、銀色のキセルが残されていただけだった。
 
 だからこそ、今の私は夢から覚めるのが怖い。
 
 しかし私の脳髄は現実に戻らないという選択を許してくれない。ぐつぐつと音がして、味噌の匂いと甘い、米の炊ける匂いに包まれ私は瞼を開く。
 そこには割烹着姿ではなく、エプロン姿の洋装をした、女給仕の姿があった。
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