新説!ギリシャ神話

マッキー

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アリアドネ

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ペルセウスに殺されたディオニュソスが愛について悩むお話。






「ディオニュソス様、ディオニュソス様」

心地よい風を浴びながら木陰で横になって眠っていたらうら若き乙女に起こされた。
「風邪をひきますよ」
そう優しげに微笑み布をかけようとする彼女の手を取りそのまま甘えたように頬に当てた。

「神は風邪など引かないさ、アリアドネ」

悪戯っ子ぽい笑みを浮かべ白い手にキスを落とせば「そうでしたわね」と彼女は目を細める。その表情がたまらなく可愛らしくて私はそのまま手を引っ張り彼女を抱きしめた。
華奢な体が腕の中に収まり彼女の甘い香りがふわりと匂う。存分に彼女の存在を抱き締めて生きてる人間の生を実感した。


愛しい愛しい我が妃、恋人に裏切られ捨てられた可哀想な我が妻よ。
このゼウスの子である私だけが死すべき人間たるお前を幸せにすることができるのだ。



ーーー違う



世界が、変わった。
春のような暖かい世界から一転、暗く沈んだ闇。先程まで気持ちが良かった風が途端に肌を刺すような寒さに変わったのだ。
腕の中にある温もりが消え冷たく硬い何かがそこにある。
それは骸、かつては息をしていた物の残骸、魂がない容れ物。それを己は愛おしげに抱いていた。

「……馬鹿らしい」

無造作にそれを投げ捨てると頭を抱えてうずくまる。
襲ってくるのは虚無感、胸に刺すのは孤独感。

ーー馬鹿らしい、嗚呼、どうしようもなく馬鹿らしい。

この暗い冥府でどこぞの骸を抱き過ぎし日の思い出を再現するなんて、なんて虚しく阿呆だろうか。
全部嘘。紛い物。そんな言葉が浮かんでは消える。
己は完全な神ではない。ゼウスの御子でありながら人間を母とする者で生まれながら謂れ無い嫉妬に晒されてきた。
何度も悪意に殺されて何度も冷たい世界に堕とされてそれでも半神である己は息を吹き返した。その繰り返しだ。
人間である愛しいアリアドネは死んだ。
人間は一度死ねば蘇らない。あの暖かい温もりをもう二度と抱きしめられない。
彼女が梳いてくれた艶やかな髪を掻き乱して押し寄せる感情の波をやり過ごすしかないのだ。都合のいい夢は醒めた後が恐ろしいと分かりきっていたことではないか。
こんな滑稽な夢を作り出す程に彼女を愛していたのか。

『ゼウスの御子、バッカスよ。貴殿はアリアドネを愛してはいなかった。彼女もまたそういった面で愛してはいなかった』

信仰を拒否してアリアドネを殺して、そして自分を殺したあの男がそう言っていた。
何を言っているのか理解できない。
彼女の恋人を洗脳して手を回し手間をかけて手に入れたのに愛してない筈がない。
彼女だってゼウスの御子であるこのディオニュソスが旦那で良い思いをしたじゃないか。
恋人に置き去りにされて傷ついた心を癒してやったのだからおれを愛してない筈がない。

ーーそもそも愛とはなんだ?

性欲を満たして子孫を残す為に人間は関係を結ぶ。或いは性を司る神エロスが放った矢を受けたに過ぎない。そんな死すべき動物の本能を良いように表した言葉ではないか。
だったらおれはアリアドネを愛していたといえよう。
あの島でおれは彼女に欲情したが彼女にもまた欲情した男がいたから奪った、それだけだ。
彼女もまた致す相手がいなくなりおれを受け入れたそれだけだ。
そう、それだけなのだ。なのでこれからもわんさか生まれる人間の誰かをまた“恋して愛せばいい”じゃないか。他の神々のように、父ゼウスのように欲望のまま動けばいい。
今までもそうだったではないか。この端麗な顔に欲を向けてきた者の誘いを男女問わずに乗って快楽を与えて喜ばせてやってきた。
アリアドネにだって同じことだ。

ーー本当に?

「違うだろう。……違う?なにが、分からない、ぼくがアリアドネにこだわる意味は?わからない、わからないよぉ……」
「ディオニュソス」

抑揚のない声が投げかけられた。
闇に溶け込んだ冥王がそこに立っていた。彼が声をかけてきたという事は現世に戻る手筈が整ったのだろう。
戻る、それになんの意味があるのか分からず暗い目を伯父であるハデスに向ける。
幼少の頃からヘラの嫉妬に殺され冥府に落ちる甥の気持ちを理解しているであろうハデスは真っ黒な目でその視線を合わせる。

「戻らないとだめですか。この冥府でアリアドネや母上と一緒にいたい」
「駄目だ。生きているお前はここにいていい存在ではない。死者にも会えない。お前の居場所は此処ではない」
「っじゃあどこに!?生も死も否定されて、ぼくの居場所なんてどこにもないじゃないか!」

否定されて迫害されて狂わされ。
望んで生まれたわけじゃない。望んで死んだわけじゃない。
認められない、生きることを許して貰えな
い。自分が生きてるせいで養父も死んだ。

そうして絶望に嘆きディオニュソスに生まれたのは闘志だった。
ならば認めさせてやる、理不尽に復讐してやる。奪われるだけならば奪ってやればいい。
欲しいものを我慢せずに手に入れればいい。
そしてあの女、ヘラに己という神を認めさせよう。存在を否定するならば見せつけるのだ。
その為に各地を旅してディオニュソスの信仰を広めていった。何より素晴らしいこの知恵を持って人間達を幸せにしてやる為だ。あと少しだった、あの国を染め上げれば完璧だった。なのに、なのに。
あの王ペルセウスがアリアドネを手にかけるとは想定外だった。
アリアドネ、嗚呼、アリアドネ……。
アリアドネの横だけが心から安らげる場所だったのだ。

ーーそうだ、そうなのか。

居場所はあった、もう無くなったが確かにあったのだ。
急に合点がいき雲が晴れたようだった。それと同時に涙が溢れ出た。なぜか分からぬが大粒の雫がこの緑色の瞳から生まれては地面に落ちていく。
ポロポロ涙を流すディオニュソスの頬を死人のように冷たい手が触れてそのまま頭を撫でる。ハデスに慰められているのだと理解して尚更涙は止まらない。

「伯父さんは……嫁さんを愛してますか」
「……ああ」
「性行為ができなくても?」
「……………うむ」

冥王に対して何を聞くかとこの場にハデスを崇拝する死を司るタナトスがいれば怒鳴られていたかもしれない。失礼なことを聞いてると分かっているが聞かずにはいられなかった。
ゼウスの兄でありながら堅物で浮ついた話を一度も聞かなかった暗い世界を治める冥王が嫁を娶った。それも花のように愛らしくまだ幼い少女を妃とした。それはオリンポスでも大層な騒ぎになったらしい。
冥王たるハデスは欲情などしない。それでも誰かを求めた。
なぜだろうか。

「……子供の頃に予言を恐れた父親に食われたと知ってるな?ゼウスが私達を救ったと」
「うん」
「暗い腹の中で頭上に遠く輝く光を見た。妻は、コレーは……ペルセポネはそれに似ていた。私はその光が恋しかったのだ」
「光……」
「光を知ってしまえば、完全なる暗闇がなによりも怖くなった。ひとりでいるのが恐ろしくなった。……コレーを知った私は冥府において心が弱くなってしまったようだ」
「ひとりはいやだ……」
「……だから愛している」

ハデスと同じだと思った。
彼女を愛していた。
ただ性欲を満たす対象ではなく暇つぶしではなく。死すべき人間に本気で恋をして妻にした。本当は分かっていたのにそれを認めたくなかったのだ。
いずれあの娘は寿命で死ぬ、けれど今じゃなかった筈だ。急に死ぬなど思いもしなかった。
唯一の居場所を喪ってしまった。もう二度と手に入れられない。もう二度と。
他の人間を抱こうとも好きになろうともあの娘の代わりにならない。
それを自覚して得るのは激しい喪失感と虚しさ。
急速に込み上げる悲しみを言葉なき声に出して吐き出した。
子供のように泣きじゃくるディオニュソスをハデスは何も言わずにぎこちなく背中をさすり続けた。


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哀れな女だ。
それがアリアドネに抱いた最初の印象だった。
あの狂乱の神に見惚れられた美しくも哀れな女。他の信女達と同じようにディオニュソス に洗脳されてこのペルセウスに刃向かってきたのだとそう思っていた。洗脳されて狂わされているのだと。
現に狂っているのかもしれない。噎せ返る血の匂いとかつて女だったものが転がってる中で座らされて自分もその仲間になろうとしているのに彼女はただ微笑んでいるのだから。

「死が怖くないのか」
「怖いです。冥府はきっと洞窟のようにジメジメとして暗く寂しいところでしょうから。でも私が死ねば彼の方のお側にいれるので、そう思えば少し楽しみに思います」

震えているのを見ると恐怖を覚えているのだろう。白い手をギュッと握りしめてそれに耐えているのだろう。けれどもその瞳はまっすぐ自分に血塗られた剣先を向ける男を見つめているのだ。その目には恐怖の色は浮かんでいない。死しても怖くない、寧ろ不死なる愛すべき神へ真の妃になれるのだと。本気でそう思っている強い目だ。

「どうしてあのイカれた奴の為にここまでする」
「私の旦那だからです」
「お前の旦那は違うはずだ。お前が本当に愛した男は……」

敵を知る為にその妻であるアリアドネの事は調べている。
クレタ島のミノス王の娘で賢い女。その知恵でミノタウルスという怪物を倒す為に島の迷宮に訪れた英雄テセウスを助けた女だ。
その後二人は結婚してクレタ島を出てナクソス島に行った。だがここでテセウスは彼女を置き去りにそこから後にしたのだ。
愛する男に裏切られた女を哀れに思いディオニュソス神が手を差し出しだ。そう聞いている。
だがそれは真実ではないとペルセウスは思う。賢いアリアドネも気づいているはずだ。
アリアドネに恋したディオニュソスが、テセウスを洗脳して置き去りにさせた事を。そしてあたかも慈悲深き女神ヘスティアのように振る舞い彼女を拾ったのだと。
あの卑劣な神がやりそうな事である。
恋して愛した者と自分を引き離した奴の為に命を捨てるなど、ペルセウスには到底理解ができぬ話だ。

「……私はディオニュソス様を愛しています」

静かに囁くようにそれでいてハッキリとしたその言葉、そしてその笑み。
ペルセウスはハッとした。
アリアドネの微笑みに見覚えがあったのだ。
我が妻アンドロメダが子供達に向ける顔に似ている。
そして理解した。彼女がディオニュソスに向ける愛の種類を。
ペルセウスも怪物ではない。無理矢理神の妃にされたこの哀れな女が泣いて縋れば生かしてやるつもりだった。だがそれは無理そうだ。
奴の信徒を幾ら切ってもアイツは痛くも痒くも無いだろう。悠久の時を生きる神が惚れたいずれ寿命で死ぬ女を殺しても意味がない。
やはり“この女”を殺すのが1番効果があるのだ。
そこに迷いはない。迷いはないが心の奥底に眠る良心が少しだけ顔を出す。
人形のように操られて襲いかかってきたそこで物言わぬ屍となった信徒達とは訳が違う。この女もそうであって欲しかった。
或いはかつて退治したメドューサのように恐ろしい力を秘めている化け物だったら。

「……俺だって、この平穏を乱されたくないんだ」
「存じております、王よ」

言い訳のようにポツリと呟くペルセウスの言葉を静かに受け止めてやはりアリアドネは目を細める。もう体は震えていなかった。
運命を受け入れるとそう言うかのように強い眼差しは目蓋に隠された。
その長い睫毛を見て息を吐く。剣を持つ手に力が入りカタカタと音が鳴る。

「一つだけ言わせていただきます」

今にもその首を刎ねられる寸前に彼女は言った。

「私もディオニュソス様と同じなのです」


やはり、彼女は神の妃だ。

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