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第五章

湖のほとりで

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馬車の揺れに身を委ねるうちに、いつの間にか眠ってしまっていた。
彼の腕の筋肉が感じられ、その心地よいリズムが眠気を誘う。
それが安心の布団に包まれているようだった。

「サラ、起きて。」

リックさんの優しい声に目を開けると、彼の顔が近くにあった。
私の頬にそっと触れながら、彼は笑顔で言った。

「休憩だよ。外に出て新鮮な空気を吸おう。」

私はまぶたをこすり、馬車の窓の外を見た。
天気はすっかり晴れていて、太陽が高く昇るにつれて、湖面には金色の光が降り注いでいた。
湖の水は驚くほど透明で、静かに佇んでいるようだった。
風が吹くたび、さざなみが広がり、水面に映った白い雲がゆっくりと形を変えた。
湖の底で水草が静かに揺れ、水中に小さな森が広がっているようだった。
私はそのまぶしさに目を細めた。

リックさんが馬車の扉を開け、私は彼に手を引かれ外に出た。
馬車の温かい空気から一転、新鮮な風が頬を撫で、彼の髪を揺らした。 

「わぁ…素敵な場所ね。」

感嘆の声を漏らしながら、周囲の景色に見とれた。
リックさんも手を握ったまま微笑む。

「外を少し歩いてみようか。」

彼の提案に喜んで頷いた。
リックさんは私をエスコートし、ゆっくりと桟橋まで導いてくれる。
湖のほとりには木々が影を作り、風が木々を揺らしていた。
葉がささやく中、遠くで鳥のさえずりが響く。
湖の新鮮な水の香りが湿った草の匂いと混ざり、心を落ち着かせた。

桟橋に立ち、湖を眺めると、リックさんが突然、私の前で膝をついて見上げてきた。
驚いて目を見開く私を見つめ、彼は真剣な表情で口を開いた。

「サラ……。」

心臓がドキリと跳ねた。
彼の声は、湖のさざなみに溶け込むように静かに響いた。
しばらく沈黙し、彼は深呼吸をして決意を固めたように口を開いた。

「俺と……一生を共にしてほしい。」

彼の手には、リックさんの瞳の色に似たグレーの宝石がはめ込まれた指輪があった。
太陽の光を受けて、宝石が美しく輝いていた。
驚きで目を見開いた後、少し言葉を失ったが、彼の真剣な瞳に吸い込まれるように視線を戻した。
この世界では、プロポーズに指輪ではなく、瞳の色の宝石を使ったネックレスを贈るのが一般的だ。
きっとこれは、祖父に相談して私の文化を尊重し、指輪を選んでくれたのだと、冷静に考える自分がいた。

「君が必要なんだ、サラ。どんな時も、どこにいても。俺と一緒に、これからの未来を歩んでいこう。」

その言葉が胸に響き、感情が込み上げる。
驚きと喜び、そして深い愛情に包まれて、涙がこぼれそうになる。
婚約者の演技をすれば良いと思っていたから、リックさんが本気で未来を考えてくれていたと知り、素直に嬉しかった。

「リックさん……私も一緒にいたい。でも、元の世界への未練もある。正直、どうしたら良いかわからないの。」

彼の真摯な言葉がまっすぐ届き、絡み合った迷いの中に一筋の光が差し込んだ気がした。
でも、その光に進む勇気がまだ持てない。
リックさんへの思いを大切にしたい気持ちと、別の選択肢への不安がぶつかり合っていた。
彼の思いに、嘘で応えたくなかった。

「そうか。なら、まだ望みはあるんだな。俺の領地の者たちには、君を婚約者として紹介してある。演技を頼めば君はきっと応じてくれると思っていた。でも、もう演技なんて必要ない。本気で君と共に生きたい。君が隣にいてくれるだけで、俺はどんな困難にも立ち向かえる。君は俺の唯一の希望なんだ。」

その一言が、私の心に深く響き、波紋を広げた。
彼の真剣な眼差しから目をそらせない。

リックさんの提案に応えるか、自分の本心に従うか、心はその二つの選択肢で揺れていた。
期待に応えたい思いと、自分の気持ちの間で、どうすべきか決められない。

「サラが帰りたいと願うなら、その時まででも構わない。婚約者として、そばにいてほしい。」

その言葉に、思わず頷きそうになる。
「本当にそれでいいの?」と自問した瞬間、胸がきしむ感覚に襲われる。

彼が貴族であることを考えると、共に暮らす未来は、小さな家や平凡な生活ではないだろう。
広大な領地、そしてその責任がついて回る。
そんな生活に溶け込めるのか……。
ここでリックさんと共に生きることを選べば、あの懐かしい東京の街や家族、女優としての夢を諦めなければならない。
しかし、帰ることを選べば、彼の温かな笑顔や隣にいることで得られる安堵感を失う。
心が揺れ、どちらを選んでも深い喪失感が胸を占めている。
東京の街が遠くに霞んでいく不安と、リックさんの手を離したくない強い願望が交錯し、心の中に嵐が巻き起こるようだった。

その時、祖父の言葉を思い出した。
元の世界に戻れる保証はないのだと。
リスクを冒して帰るべきか、それとも彼と生きるべきか。 

元の世界に戻れば、両親がいて、仕事も復帰できるかもしれないが、リックさんとの別れが待っている。

目を閉じると、両親とリックさんの笑顔が浮かび、どちらを選んでも失う不安が胸を締めつける。
今はリックさんを失う恐怖の方が重くのしかかっている。
心が揺れる中、彼のいない生活は考えられない。
私を支えてくれるのは、リックさんだけだ。
この不安な気持ちのまま彼の優しさに甘えてもいいのか分からないけれど、それでも今は彼のそばにいたい。

リックさんは、期待と不安が混ざった目で私の答えを待っていた。

「リックさんは私にとって大切な人です。まだ、未来への選択に迷いはあるけれど、一緒に考えてくれますか?」

私が返事を待つ間、リックさんの手はわずかに震え、呼吸も少し早まっているようだった。
彼にとって、私の返事を待つ時間はどれだけ長く感じたのだろう。

「もちろん。」

リックさんの声はかすかに震え、目に不安の影がよぎったが、すぐに決意に変わり、深い愛情を込めた目で私を見つめた。
彼は深く息を吸い、私の瞳をもう一度見つめた。
瞳には内なる不安と期待が交差し、次の瞬間には深い決意と温かな光が宿った。
頬をかすかに赤らめ、微笑みながら私の手を強く握った。

「不束者ですが、よろしくお願いします。」

彼は深く息をつき、肩の力を抜いて、無邪気で幸せそうに笑ったり。

「やった!」

そう叫び、彼は私を抱きしめた。
声が明るく弾んでいて、その瞬間、幸せな気持ちでいっぱいになった。
私は自分が思っているより、彼を好きだと改めて気づいた。

彼の笑顔が太陽のようにまぶしく、その温もりが心を溶かしていった。

リックさんは立ち上がり、私の手にそっと指輪をはめると、優しくその指に唇を寄せた。
彼の唇が触れると、心に温かな波が広がった。

湖の風が二人の間を通り抜け、私たちは見つめ合い、静かに微笑んだ。


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