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運命の番がヤギだった 後
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◆
朝、いつものように高校に向かう道の途中、道の先にロールスロイスが停まっていた。一体何台車を持っているんだろう。怖くて聞きたくない。
家を出てから忘れ物を取りに戻った僕は、爽香を先に行かせていた。爽香がヤギと待っているのかと思って高級車に近づくと、中からはまた佐々木さんが出てきた。
「湊さま、おはようございます」
「おはようございます佐々木さん」
「すみませんが、忠晴さまにはお会いになりませんでしたか」
「ヤギさんには会っていません」
「そうですか。こちらに向かう途中で、また急に車を止めるように言われてお一人で走っていかれてしまったんです」
「そうですか。好物でも見つけたんですかね」
「ええ。てっきり湊さまを見つけて走っていかれたものと思っておりました」
その言い方だと僕がヤギの好物であるかのように聞こえる。でもここに来るまでには見てないな。
「ああ、どうしましょう。もしまた保健所の職員に捕獲されていたら大変なことに……」
そう言いながらお爺さんはスーツの内ポケットからスマホを取り出した。
「ヘイSiri、忠晴さまがどこにいるか教えて」
『鱈春雨というものが何を表すのかわかりません』
「Siri違う。ただはる」
『ただ、春。今日もいい天気ですね』
「違う! Siriた・だ・は・る!!」
『すみません。わかりません』
佐々木さんは絶望した顔で項垂れた。僕はお爺さんとSiriのやりとりを見てよくできたコントだなと思った。
「ヤギさんにGPSがついているならアプリの方で直接みたらどうですか」
「私のスマートフォンには、今アプリが千個ほどダウンロードされていて、画面上で該当のアプリを探すのが難しいのです」
「検索したらどうですか」
「それが、位置情報関係のアプリだけでも五十以上あるのです。どれが忠晴さまの首輪についたGPSアプリか覚えがなく」
「……」
使えない。
このお爺さんは執事のくせに使えないな。
「だからあれほどベルを付けておいてほしいとお願いしましたのに……」
あの煩いベルを首輪につけたのは佐々木さんだったのか。
スーツを着た品のいい顔のお爺さんは片手で額を覆った。
「見た目も可愛いし、部下たちにも愛されますと太鼓判を押しましたのに、皆から煩いと言われると悲しんでおられた忠晴さま……なんておいたわしい」
「でもあれは本当に煩かったので、仕方ないですね」
「私は昔の人間なので、現代のツールについて行けないのです。便利な機能は全て試そうとして、位置情報アプリを大量にダウンロードして使おうとしたら、広告のリンクを踏んでしまい、あっちもこっちも訳の分からない商品ページに誘われ、Siriに助けを求めても彼は『わかりません』と言い哀れな老人を突き離してくるのです……」
それはSiriにもわかりませんと言う以外どうすることもできないと思う。
僕が佐々木さんは少しおかしい、と彼への評価を改めたとき、僕が今来た方角からヤギが走ってきた。
「湊くん!」
「忠晴さま!!」
佐々木さんがホッとした顔でスマホをスーツの中にしまった。
慌てた様子で走ってきたヤギは、息を切らせて僕の目の前で止まり、口をぱかっと開いて「メー!」と鳴いた。
「大変だ! 爽香ちゃんが拐われた!」
「え?」
急に爽香の話になって僕は瞬きした。ブレザーからスマホを取り出しても、爽香から何か連絡が入っているわけではない。
「すまない、私のせいだ。私が最近この辺りで双子のオメガの高校生をストーカーしていると噂を聞きつけた私のストーカーが、爽香ちゃんをオメガだと思って連れ去った」
「ん?」
回りくどい説明だったが最後のセリフはかろうじてわかった。
僕と爽香は似ている。高校生で双子でオメガと聞いたら、爽香の方だと勘違いされて誘拐されたということだろうか。
「拐われたんですか? 爽香が、本当に?」
眉を寄せてヤギを見下ろすと、僕に頭を向けたヤギは耳をへたっと下ろした。
「車から偶然爽香ちゃんが見知った顔の男に声をかけられるのを見つけた。慌てて追ったが、爽香ちゃんと男を乗せた車に振り切られてしまった。あの男はオメガで私のストーカーだ。爽香ちゃんが危ない。佐々木、私のスマホを出せ。あいつが何か要求してくるなら何か連絡が入っているはずだ」
爽香を連れ去った相手がオメガなら、男相手だったとしても爽香は大丈夫だと思う。話を聞いて少し安心した。彼女はアルファで武道も嗜んでいるから強いし、どうして見知らぬ男について行ったのかは知らないが、爽香の位置情報なら僕もスマホで見られる。
そう伝える前に、佐々木さんが取り出したスマホをヤギが覗き込んだ。
「佐々木、顔認証させるな、指紋認証なんて無理に決まってるだろう! さっさとパスコード画面を出せ!」
「あ、すみません」
「そこで私に打たせようとするな! なぜ私に画面を向ける?! 私はヤギだ! 番号は教えてあるだろう、早く解除しないか!」
「すいません、最近老眼で」
「もう嫌この執事! 湊くん代わりに打って!!」
痺れを切らしたヤギが僕を見て、僕は本当によくできたコントだなと思いながら流れで佐々木さんからスマホを受け取った。
「パスコードは?」
「湊愛してる」
「え?」
「み・な・と・あい・してる、371014だ!」
「あ、はい……」
恥ずかしげもなく、ヤギだから恥じらっていたとしてもわからないが、ヤギが堂々と告げた数字を打ち込んでロックを解除した。
そのパスコードに対しては何かツッコミ入れた方がいいのか、スルーするべきなのか、と思いながら画面をヤギに見せると、ヤギはすぐに僕の手元を覗き込んでくる。
「ヘイSiri、一番最近受信したメールを読み上げろ」
『はい。……リゾ婚アンジュウェディングさま、より、お問合せいただいたハワイ挙式』
「うわああああ!! 違う、そうじゃない! Siri! それじゃない!」
ヤギが絶叫して僕の手元に顔を伏せ画面を隠した。
……今、ハワイ挙式って言った?
誰と? 番って宣言されてるんだから僕と?
僕はこのままだとヤギとハワイで挙式することになるのか。絵面すごいな。
頭の中で困惑している僕の顔を見ずに、ヤギは頭を震わせて小さな声で「メェ」と鳴いた。僕の刺すような視線には気づかないフリをしたヤギが咳払いするように「メ゛ッ」と鳴いてもう一度頭を上げる。
「ヘイSiri、松下という名前で来た直近のメールを読み上げろ」
『はい。……松下さま、より、あなたの番は私が拐いました。あなたが私のものにならないなら、あなたが誰のものにもならないようにあなたの番を殺します。さようなら。……メールは以上です』
「なんだと?! 犯行予告を伝えるだけでどこにいるともわからないじゃないか! 私の浮かれた脳内が湊くんに晒されただけ! くそ! 許さんぞ松下!!」
ヤギが地団駄を踏んでいる間に僕はスマホのアプリを起動させ、爽香の場所を特定した。
「ヤギさん、爽香は河川敷にいるみたいなので、車で連れて行ってください」
「えっ、なぜ場所を」
「僕のスマホには爽香の位置情報がわかるアプリが入っているので」
「ヒン、先に言ってよ……」
口を挟む隙がなかったんだ。そう指摘するのもどうかと思い、「今思いついたので」と当たり障りのないことを言っておいた。ヤギの顔を立てる必要はあったのかなと内心思ったが、爽香が拐われたと知って懸命に行動しようとしてくれる姿を見たら、勝手に口から言葉が出ていた。
すぐにヤギと佐々木さんと一緒に車に乗り込んで、僕は爽香のいる河川敷に向かった。
◆
車を停められるところに駐車して、そこから走って河川敷に出た。こんな高級車を路駐して駐禁とられないかな、と一瞬心配したがヤギも佐々木さんも気にしていないから僕も気にしないことにした。
土手に上がり、砂利と草むらで覆われた河原を見下ろすと、橋の下に見慣れた制服を見つける。
「爽香ちゃん!」
橋下に走ると、爽香は一人の男の隣に普通に立っていた。男の身長は爽香とそう変わらない。オメガらしく細身で、年齢は二十代後半くらいだろうか。神経質そうだが綺麗な顔立ちをしている。
「湊、来てくれたのね」
「大丈夫? 怪我はない?」
「ないわ」
「えっと、それでその人は……?」
「松下さんよ。私を誘拐した」
自分を誘拐した犯人を堂々と紹介する爽香の態度は誘拐された側としては正しいのかな、と思ったが僕はその松下という男の様子を観察した。
見た限り、彼は冷静に僕とヤギを見比べているように見える。ブチギレていたり、メールの文面にあったように番を殺す、なんて息巻いているようには見えない。
「松下、その子をこちらに渡せ。危害を加えようとするなら今度は本当に警察に突き出す」
ヤギが低い声を出してそう言うと、相手の男は驚いたような顔でヤギを見た。ヤギがヤギになったことを知らなかったか、初めてヤギの状態を見たのか知らないが、『ヤギが喋ってるよ』という当然の驚きを顔に浮かべた男を見て僕は緊張感を失った。
「この男は私の元部下で、付き纏いがあまりに執拗になったからクビにした。私に執着していたが、会社から消えたら大人しくなったのだと思っていた。しかしメールに書かれていたように私の番やその家族に手を出そうとするなら、容赦はしない」
キリッとした口調で告げたヤギのセリフが橋下に響く。
僕たちの周りがピリッとした雰囲気になった瞬間、爽香がごく自然に片手を上げた。
「ちょっといいかしら。さっきのメールは湊とヤギにここに来てもらうために私が書いたのよ」
「えっ」
「松下さん、少しお話ししたけれどとても情の深い方なの。ヤギがヤギでも構わないっていうの。ね? すごいでしょう。この人付き合うのは人間じゃなくてヤギでも大丈夫っていうのよ。見上げた根性じゃない。愛なのよ。だから、ヤギも湊も一度考えてあげてくれないかしら」
「えっ」
「だって、この人ヤギでも大丈夫なのよ。人間に戻らなくてもいいんだから、ヤギも湊に執着する必要ないじゃない。湊もヤギを引き取ってもらえるなら、構わないわよね? ヤギに噛まれるのは嫌なんでしょう」
ぎょっとしたように「メェェ」と鳴いたヤギは、爽香と僕を見比べるように頭を動かしている。
松下という男は相変わらず喋らないが、青白い顔でじっと僕とヤギを観察しているのがわかった。
僕は爽香のセリフを聞いて、彼女がなぜ誘拐犯に自分からついて行ったのかがわかった。
僕たちは双子で、考え方も似ている。でも爽香はアルファだから、オメガの僕が運命の番に対してどう思っているのか、いまいち掴みきれないと思ったんだろう。
僕にその気がないなら、ここできっぱりヤギに引導を渡すべきだと、爽香はそう言いたいんだと思う。姉らしい潔さだ。
僕が黙って爽香を見つめると、僕が自分の意図を汲んでいることも察している爽香は、真顔で僕を見つめ返してきた。その目は答えを決めなさい、と告げている。
「僕は……」
そう言いかけたとき、隣でヤギが「メェ!」と鳴いて飛び跳ねた。
「待って! 待ってくれ爽香ちゃん。私は湊くんと離れたくない! たとえ湊くんの首を噛めなくても、このままずっとヤギのままだったとしても、私は側にいるなら湊くんがいいんだ! ヤギなら相手は誰でもいいなんてそんな訳ないだろう!」
「あなた、最初は人間に戻りたいから番になれなんて言ってたのに、もうヤギのままでいいってことなの」
「いいさ! 湊くんが私を側に置いてくれるならヤギのままでも構わない。ヤギだったとしてもちゃんとお金は稼いでくるし、湊くんを守れるはずだ! 私の番は湊くんだけなんだよ!」
ヤギは真剣な声でそう語ると僕を見上げてきた。
相変わらず目線が合っているのかわからない瞳だが、それでも何故か、僕はヤギが僕をまっすぐに見つめていることがわかった。
「湊はどうなの」
僕はヤギから目を逸らし、冷静な表情を崩さない爽香の顔を見た。
僕の答えは、もう決まっている。
「僕は……ヤギさんのことを邪魔だなんて思ってない。ヤギさんが僕のところに来たいなら、いつでも来ればいいと思ってる」
「湊くん……」
「ヤギさんを番にしたいかと聞かれるとまだわからないけど、でも、ヤギさんが僕の前に現れなくなって、別の人のところに行くのは嫌だ」
「湊くん……!」
ヤギがぴょーんと一メートルくらいその場で跳ねて、僕の周りをくるくる回った。周りを回る輪がだんだん小さくなり、僕の腰に頭を擦り付けるようにしてじゃれついてくる。
僕はヤギの頭を優しく撫でた。ふわふわの毛は触り心地がいい。このモフモフに絆されたのだと思うが、僕はヤギのことをいつの間にか大事に思い始めていた。中身は三十のおじさんなのに、僕の名前を恥ずかしげもなくスマホのパスコードにしたり、妄想で式場を検索してしまうヤギが可愛いと思っている。そしてこのヤギが自分のもとに現れなくなってしまったら、たまらなく寂しいと思う。
「わかったわ。やっぱり湊もそのつもりがあったのね。見守っていてもいつまでも決断しないから、いい加減はっきりさせなくちゃって思ってたの。こんなやり方をしてごめんなさい」
「ううん、爽香ちゃんは僕を心配してくれたんだよね。ありがとう」
ヤギを撫でながら爽香を見ると、僕の姉は慈愛に満ちた目をして僕に微笑みかけた。確かに、きっかけがなければ僕はいつまでも自分の気持ちをヤギに伝えられなかっただろう。
「あの、松下さんという人は、なんだったの?」
「ああ、この人。最初は確かに私をヤギの番だと思って話しかけてきたのよ。でも話を聞いてたらこの人も番が見つからない不安をヤギで埋めようとしてただけみたいなのよね」
番が見つからない不安をヤギで埋めるというのはパワーワードだな、と思ったが、爽香の隣にいる男性は最初からそうだったように僕らに敵意はない。爽香が言う言葉を聞き漏らすまいとじっと耳を傾けている様子を見て、僕は納得した。
すでに爽香に心酔済みだったようだ。
彼女はアルファで雄々しい性格だから、信奉者を作りやすい。松下というオメガも無事入信したということだろう。
「松下さん、あなたみたいなアイドル並に綺麗で一途な男性オメガは、アルファの男よりも女のアルファの方が喜ばれるわよ。私たち、かわいくて綺麗な人が大好きなの。アルファの男で番が見つからないなら、女を探してみなさいな。今度私のコミュニティに紹介してあげる。きっと見つかるわよ」
「ありがとうございます、爽香さま」
「お礼なんてよして。今日は私の方があなたに協力してもらったんだから。もう不安な気持ちをヤギで誤魔化そうなんて愚かな真似はやめることよ。あなたを待ってるアルファが悲しむわ」
「はい……」
感極まったような顔で爽香を見るオメガの男性を、僕に擦り寄っていたヤギは口をぱかっと開けて凝視していた。爽香に別れの挨拶をしたストーカーが、すれ違い様に僕らの横を通り、ヤギをヤギだな、という目で見ながら去っていった。ヤギはそれを見送って「ェエ……」と小さく鳴いていた。
誘拐騒ぎも無事解決し、僕らは並んで土手を登り、細い脇道を塞ぐようにして路駐していたロールスロイスに戻った。幸い駐禁は取られていなかった。
登校時間はとっくに過ぎているが、僕と爽香はひとまずは高校に向かうことにした。
車の中で、僕はヤギと後部座席に座り、爽香は助手席に座った。ヤギはシートに寝そべって僕の膝の上に頭を乗せて満足げにしている。
「ヤギであることはいいことだ。私は今それを実感している。ヤギなら湊くんの膝の上に乗せてもらえる」
「人間でもできないことではないような」
「三十のおじさんが十七の少年に膝枕されるのは色々問題がある。絵面も酷い。それに下手をしたら全年齢から弾かれてしまう」
ごく真剣な口調でそう言ったヤギは、気持ちよさそうに目を細めながら視線が合っていないような目つきで僕を見上げてくる。
「さきほど湊くんはまだわからないと言っていたから、私はいつまでも待つよ。ヤギでも君に触れてもらえるならそれだけで幸せだ。でもいつか、もし君が怖くなくなったら、首を噛ませてほしい……」
そう言いながらうつらうつらしているヤギを見下ろして、僕は聞いてみる。
「ヤギの顎で噛んだら血が出ませんか」
「出ないよ。きっと軽く甘噛みしたら、私は元に戻るから。そしたらちゃんと人間の状態で君の首を噛みたいな……」
「僕、痛いの苦手なので噛まれたら咄嗟に掌底打ちを決めてしまうかもしれません」
「甘んじて受けよう。君が番になってくれるなら、拳の一つや二つは顔面に入れてくれて構わない。私の呪われた顔が歪んでちょうどいいかもしれないね……」
「まずはお友達からと言っても受け入れてくれますか」
「もちろんだよ。一緒に色んなところに行って、たくさんデートしよう。私も湊くんのことをもっと知りたい」
ヤギとデートしている男子高校生という絵面も酷いのではないかと思ったが、ヤギはご機嫌な様子で鼻歌でも歌いそうな雰囲気だ。ヤギに鼻歌は歌えないので、「メェェェ」と鳴いているだけだが。
それでも僕は、番いになることを尻込みする僕の戸惑いと躊躇いをしっかり受け止めようとしてくれるヤギの優しさに口元が綻んだ。
「湊くんは笑顔も素敵だな」
楕円形の瞳で僕を見たヤギが嬉しそうな声を出す。
相変わらず視線が合わないようなヤギの目つきを見下ろして、僕は囁くような声で呟いた。
「ヤギさんの笑顔も、いつか見てみたいです。……忠晴さん」
僕の声を聞いたヤギは「ヒン」と小さく鳴いて、悶えるように前脚をバタバタ動かしながら短い尻尾で車のシートを叩いていた。
僕の運命の番がヤギだった。
それが僕たちの笑い話になるのは、もう少し先の話だ。
朝、いつものように高校に向かう道の途中、道の先にロールスロイスが停まっていた。一体何台車を持っているんだろう。怖くて聞きたくない。
家を出てから忘れ物を取りに戻った僕は、爽香を先に行かせていた。爽香がヤギと待っているのかと思って高級車に近づくと、中からはまた佐々木さんが出てきた。
「湊さま、おはようございます」
「おはようございます佐々木さん」
「すみませんが、忠晴さまにはお会いになりませんでしたか」
「ヤギさんには会っていません」
「そうですか。こちらに向かう途中で、また急に車を止めるように言われてお一人で走っていかれてしまったんです」
「そうですか。好物でも見つけたんですかね」
「ええ。てっきり湊さまを見つけて走っていかれたものと思っておりました」
その言い方だと僕がヤギの好物であるかのように聞こえる。でもここに来るまでには見てないな。
「ああ、どうしましょう。もしまた保健所の職員に捕獲されていたら大変なことに……」
そう言いながらお爺さんはスーツの内ポケットからスマホを取り出した。
「ヘイSiri、忠晴さまがどこにいるか教えて」
『鱈春雨というものが何を表すのかわかりません』
「Siri違う。ただはる」
『ただ、春。今日もいい天気ですね』
「違う! Siriた・だ・は・る!!」
『すみません。わかりません』
佐々木さんは絶望した顔で項垂れた。僕はお爺さんとSiriのやりとりを見てよくできたコントだなと思った。
「ヤギさんにGPSがついているならアプリの方で直接みたらどうですか」
「私のスマートフォンには、今アプリが千個ほどダウンロードされていて、画面上で該当のアプリを探すのが難しいのです」
「検索したらどうですか」
「それが、位置情報関係のアプリだけでも五十以上あるのです。どれが忠晴さまの首輪についたGPSアプリか覚えがなく」
「……」
使えない。
このお爺さんは執事のくせに使えないな。
「だからあれほどベルを付けておいてほしいとお願いしましたのに……」
あの煩いベルを首輪につけたのは佐々木さんだったのか。
スーツを着た品のいい顔のお爺さんは片手で額を覆った。
「見た目も可愛いし、部下たちにも愛されますと太鼓判を押しましたのに、皆から煩いと言われると悲しんでおられた忠晴さま……なんておいたわしい」
「でもあれは本当に煩かったので、仕方ないですね」
「私は昔の人間なので、現代のツールについて行けないのです。便利な機能は全て試そうとして、位置情報アプリを大量にダウンロードして使おうとしたら、広告のリンクを踏んでしまい、あっちもこっちも訳の分からない商品ページに誘われ、Siriに助けを求めても彼は『わかりません』と言い哀れな老人を突き離してくるのです……」
それはSiriにもわかりませんと言う以外どうすることもできないと思う。
僕が佐々木さんは少しおかしい、と彼への評価を改めたとき、僕が今来た方角からヤギが走ってきた。
「湊くん!」
「忠晴さま!!」
佐々木さんがホッとした顔でスマホをスーツの中にしまった。
慌てた様子で走ってきたヤギは、息を切らせて僕の目の前で止まり、口をぱかっと開いて「メー!」と鳴いた。
「大変だ! 爽香ちゃんが拐われた!」
「え?」
急に爽香の話になって僕は瞬きした。ブレザーからスマホを取り出しても、爽香から何か連絡が入っているわけではない。
「すまない、私のせいだ。私が最近この辺りで双子のオメガの高校生をストーカーしていると噂を聞きつけた私のストーカーが、爽香ちゃんをオメガだと思って連れ去った」
「ん?」
回りくどい説明だったが最後のセリフはかろうじてわかった。
僕と爽香は似ている。高校生で双子でオメガと聞いたら、爽香の方だと勘違いされて誘拐されたということだろうか。
「拐われたんですか? 爽香が、本当に?」
眉を寄せてヤギを見下ろすと、僕に頭を向けたヤギは耳をへたっと下ろした。
「車から偶然爽香ちゃんが見知った顔の男に声をかけられるのを見つけた。慌てて追ったが、爽香ちゃんと男を乗せた車に振り切られてしまった。あの男はオメガで私のストーカーだ。爽香ちゃんが危ない。佐々木、私のスマホを出せ。あいつが何か要求してくるなら何か連絡が入っているはずだ」
爽香を連れ去った相手がオメガなら、男相手だったとしても爽香は大丈夫だと思う。話を聞いて少し安心した。彼女はアルファで武道も嗜んでいるから強いし、どうして見知らぬ男について行ったのかは知らないが、爽香の位置情報なら僕もスマホで見られる。
そう伝える前に、佐々木さんが取り出したスマホをヤギが覗き込んだ。
「佐々木、顔認証させるな、指紋認証なんて無理に決まってるだろう! さっさとパスコード画面を出せ!」
「あ、すみません」
「そこで私に打たせようとするな! なぜ私に画面を向ける?! 私はヤギだ! 番号は教えてあるだろう、早く解除しないか!」
「すいません、最近老眼で」
「もう嫌この執事! 湊くん代わりに打って!!」
痺れを切らしたヤギが僕を見て、僕は本当によくできたコントだなと思いながら流れで佐々木さんからスマホを受け取った。
「パスコードは?」
「湊愛してる」
「え?」
「み・な・と・あい・してる、371014だ!」
「あ、はい……」
恥ずかしげもなく、ヤギだから恥じらっていたとしてもわからないが、ヤギが堂々と告げた数字を打ち込んでロックを解除した。
そのパスコードに対しては何かツッコミ入れた方がいいのか、スルーするべきなのか、と思いながら画面をヤギに見せると、ヤギはすぐに僕の手元を覗き込んでくる。
「ヘイSiri、一番最近受信したメールを読み上げろ」
『はい。……リゾ婚アンジュウェディングさま、より、お問合せいただいたハワイ挙式』
「うわああああ!! 違う、そうじゃない! Siri! それじゃない!」
ヤギが絶叫して僕の手元に顔を伏せ画面を隠した。
……今、ハワイ挙式って言った?
誰と? 番って宣言されてるんだから僕と?
僕はこのままだとヤギとハワイで挙式することになるのか。絵面すごいな。
頭の中で困惑している僕の顔を見ずに、ヤギは頭を震わせて小さな声で「メェ」と鳴いた。僕の刺すような視線には気づかないフリをしたヤギが咳払いするように「メ゛ッ」と鳴いてもう一度頭を上げる。
「ヘイSiri、松下という名前で来た直近のメールを読み上げろ」
『はい。……松下さま、より、あなたの番は私が拐いました。あなたが私のものにならないなら、あなたが誰のものにもならないようにあなたの番を殺します。さようなら。……メールは以上です』
「なんだと?! 犯行予告を伝えるだけでどこにいるともわからないじゃないか! 私の浮かれた脳内が湊くんに晒されただけ! くそ! 許さんぞ松下!!」
ヤギが地団駄を踏んでいる間に僕はスマホのアプリを起動させ、爽香の場所を特定した。
「ヤギさん、爽香は河川敷にいるみたいなので、車で連れて行ってください」
「えっ、なぜ場所を」
「僕のスマホには爽香の位置情報がわかるアプリが入っているので」
「ヒン、先に言ってよ……」
口を挟む隙がなかったんだ。そう指摘するのもどうかと思い、「今思いついたので」と当たり障りのないことを言っておいた。ヤギの顔を立てる必要はあったのかなと内心思ったが、爽香が拐われたと知って懸命に行動しようとしてくれる姿を見たら、勝手に口から言葉が出ていた。
すぐにヤギと佐々木さんと一緒に車に乗り込んで、僕は爽香のいる河川敷に向かった。
◆
車を停められるところに駐車して、そこから走って河川敷に出た。こんな高級車を路駐して駐禁とられないかな、と一瞬心配したがヤギも佐々木さんも気にしていないから僕も気にしないことにした。
土手に上がり、砂利と草むらで覆われた河原を見下ろすと、橋の下に見慣れた制服を見つける。
「爽香ちゃん!」
橋下に走ると、爽香は一人の男の隣に普通に立っていた。男の身長は爽香とそう変わらない。オメガらしく細身で、年齢は二十代後半くらいだろうか。神経質そうだが綺麗な顔立ちをしている。
「湊、来てくれたのね」
「大丈夫? 怪我はない?」
「ないわ」
「えっと、それでその人は……?」
「松下さんよ。私を誘拐した」
自分を誘拐した犯人を堂々と紹介する爽香の態度は誘拐された側としては正しいのかな、と思ったが僕はその松下という男の様子を観察した。
見た限り、彼は冷静に僕とヤギを見比べているように見える。ブチギレていたり、メールの文面にあったように番を殺す、なんて息巻いているようには見えない。
「松下、その子をこちらに渡せ。危害を加えようとするなら今度は本当に警察に突き出す」
ヤギが低い声を出してそう言うと、相手の男は驚いたような顔でヤギを見た。ヤギがヤギになったことを知らなかったか、初めてヤギの状態を見たのか知らないが、『ヤギが喋ってるよ』という当然の驚きを顔に浮かべた男を見て僕は緊張感を失った。
「この男は私の元部下で、付き纏いがあまりに執拗になったからクビにした。私に執着していたが、会社から消えたら大人しくなったのだと思っていた。しかしメールに書かれていたように私の番やその家族に手を出そうとするなら、容赦はしない」
キリッとした口調で告げたヤギのセリフが橋下に響く。
僕たちの周りがピリッとした雰囲気になった瞬間、爽香がごく自然に片手を上げた。
「ちょっといいかしら。さっきのメールは湊とヤギにここに来てもらうために私が書いたのよ」
「えっ」
「松下さん、少しお話ししたけれどとても情の深い方なの。ヤギがヤギでも構わないっていうの。ね? すごいでしょう。この人付き合うのは人間じゃなくてヤギでも大丈夫っていうのよ。見上げた根性じゃない。愛なのよ。だから、ヤギも湊も一度考えてあげてくれないかしら」
「えっ」
「だって、この人ヤギでも大丈夫なのよ。人間に戻らなくてもいいんだから、ヤギも湊に執着する必要ないじゃない。湊もヤギを引き取ってもらえるなら、構わないわよね? ヤギに噛まれるのは嫌なんでしょう」
ぎょっとしたように「メェェ」と鳴いたヤギは、爽香と僕を見比べるように頭を動かしている。
松下という男は相変わらず喋らないが、青白い顔でじっと僕とヤギを観察しているのがわかった。
僕は爽香のセリフを聞いて、彼女がなぜ誘拐犯に自分からついて行ったのかがわかった。
僕たちは双子で、考え方も似ている。でも爽香はアルファだから、オメガの僕が運命の番に対してどう思っているのか、いまいち掴みきれないと思ったんだろう。
僕にその気がないなら、ここできっぱりヤギに引導を渡すべきだと、爽香はそう言いたいんだと思う。姉らしい潔さだ。
僕が黙って爽香を見つめると、僕が自分の意図を汲んでいることも察している爽香は、真顔で僕を見つめ返してきた。その目は答えを決めなさい、と告げている。
「僕は……」
そう言いかけたとき、隣でヤギが「メェ!」と鳴いて飛び跳ねた。
「待って! 待ってくれ爽香ちゃん。私は湊くんと離れたくない! たとえ湊くんの首を噛めなくても、このままずっとヤギのままだったとしても、私は側にいるなら湊くんがいいんだ! ヤギなら相手は誰でもいいなんてそんな訳ないだろう!」
「あなた、最初は人間に戻りたいから番になれなんて言ってたのに、もうヤギのままでいいってことなの」
「いいさ! 湊くんが私を側に置いてくれるならヤギのままでも構わない。ヤギだったとしてもちゃんとお金は稼いでくるし、湊くんを守れるはずだ! 私の番は湊くんだけなんだよ!」
ヤギは真剣な声でそう語ると僕を見上げてきた。
相変わらず目線が合っているのかわからない瞳だが、それでも何故か、僕はヤギが僕をまっすぐに見つめていることがわかった。
「湊はどうなの」
僕はヤギから目を逸らし、冷静な表情を崩さない爽香の顔を見た。
僕の答えは、もう決まっている。
「僕は……ヤギさんのことを邪魔だなんて思ってない。ヤギさんが僕のところに来たいなら、いつでも来ればいいと思ってる」
「湊くん……」
「ヤギさんを番にしたいかと聞かれるとまだわからないけど、でも、ヤギさんが僕の前に現れなくなって、別の人のところに行くのは嫌だ」
「湊くん……!」
ヤギがぴょーんと一メートルくらいその場で跳ねて、僕の周りをくるくる回った。周りを回る輪がだんだん小さくなり、僕の腰に頭を擦り付けるようにしてじゃれついてくる。
僕はヤギの頭を優しく撫でた。ふわふわの毛は触り心地がいい。このモフモフに絆されたのだと思うが、僕はヤギのことをいつの間にか大事に思い始めていた。中身は三十のおじさんなのに、僕の名前を恥ずかしげもなくスマホのパスコードにしたり、妄想で式場を検索してしまうヤギが可愛いと思っている。そしてこのヤギが自分のもとに現れなくなってしまったら、たまらなく寂しいと思う。
「わかったわ。やっぱり湊もそのつもりがあったのね。見守っていてもいつまでも決断しないから、いい加減はっきりさせなくちゃって思ってたの。こんなやり方をしてごめんなさい」
「ううん、爽香ちゃんは僕を心配してくれたんだよね。ありがとう」
ヤギを撫でながら爽香を見ると、僕の姉は慈愛に満ちた目をして僕に微笑みかけた。確かに、きっかけがなければ僕はいつまでも自分の気持ちをヤギに伝えられなかっただろう。
「あの、松下さんという人は、なんだったの?」
「ああ、この人。最初は確かに私をヤギの番だと思って話しかけてきたのよ。でも話を聞いてたらこの人も番が見つからない不安をヤギで埋めようとしてただけみたいなのよね」
番が見つからない不安をヤギで埋めるというのはパワーワードだな、と思ったが、爽香の隣にいる男性は最初からそうだったように僕らに敵意はない。爽香が言う言葉を聞き漏らすまいとじっと耳を傾けている様子を見て、僕は納得した。
すでに爽香に心酔済みだったようだ。
彼女はアルファで雄々しい性格だから、信奉者を作りやすい。松下というオメガも無事入信したということだろう。
「松下さん、あなたみたいなアイドル並に綺麗で一途な男性オメガは、アルファの男よりも女のアルファの方が喜ばれるわよ。私たち、かわいくて綺麗な人が大好きなの。アルファの男で番が見つからないなら、女を探してみなさいな。今度私のコミュニティに紹介してあげる。きっと見つかるわよ」
「ありがとうございます、爽香さま」
「お礼なんてよして。今日は私の方があなたに協力してもらったんだから。もう不安な気持ちをヤギで誤魔化そうなんて愚かな真似はやめることよ。あなたを待ってるアルファが悲しむわ」
「はい……」
感極まったような顔で爽香を見るオメガの男性を、僕に擦り寄っていたヤギは口をぱかっと開けて凝視していた。爽香に別れの挨拶をしたストーカーが、すれ違い様に僕らの横を通り、ヤギをヤギだな、という目で見ながら去っていった。ヤギはそれを見送って「ェエ……」と小さく鳴いていた。
誘拐騒ぎも無事解決し、僕らは並んで土手を登り、細い脇道を塞ぐようにして路駐していたロールスロイスに戻った。幸い駐禁は取られていなかった。
登校時間はとっくに過ぎているが、僕と爽香はひとまずは高校に向かうことにした。
車の中で、僕はヤギと後部座席に座り、爽香は助手席に座った。ヤギはシートに寝そべって僕の膝の上に頭を乗せて満足げにしている。
「ヤギであることはいいことだ。私は今それを実感している。ヤギなら湊くんの膝の上に乗せてもらえる」
「人間でもできないことではないような」
「三十のおじさんが十七の少年に膝枕されるのは色々問題がある。絵面も酷い。それに下手をしたら全年齢から弾かれてしまう」
ごく真剣な口調でそう言ったヤギは、気持ちよさそうに目を細めながら視線が合っていないような目つきで僕を見上げてくる。
「さきほど湊くんはまだわからないと言っていたから、私はいつまでも待つよ。ヤギでも君に触れてもらえるならそれだけで幸せだ。でもいつか、もし君が怖くなくなったら、首を噛ませてほしい……」
そう言いながらうつらうつらしているヤギを見下ろして、僕は聞いてみる。
「ヤギの顎で噛んだら血が出ませんか」
「出ないよ。きっと軽く甘噛みしたら、私は元に戻るから。そしたらちゃんと人間の状態で君の首を噛みたいな……」
「僕、痛いの苦手なので噛まれたら咄嗟に掌底打ちを決めてしまうかもしれません」
「甘んじて受けよう。君が番になってくれるなら、拳の一つや二つは顔面に入れてくれて構わない。私の呪われた顔が歪んでちょうどいいかもしれないね……」
「まずはお友達からと言っても受け入れてくれますか」
「もちろんだよ。一緒に色んなところに行って、たくさんデートしよう。私も湊くんのことをもっと知りたい」
ヤギとデートしている男子高校生という絵面も酷いのではないかと思ったが、ヤギはご機嫌な様子で鼻歌でも歌いそうな雰囲気だ。ヤギに鼻歌は歌えないので、「メェェェ」と鳴いているだけだが。
それでも僕は、番いになることを尻込みする僕の戸惑いと躊躇いをしっかり受け止めようとしてくれるヤギの優しさに口元が綻んだ。
「湊くんは笑顔も素敵だな」
楕円形の瞳で僕を見たヤギが嬉しそうな声を出す。
相変わらず視線が合わないようなヤギの目つきを見下ろして、僕は囁くような声で呟いた。
「ヤギさんの笑顔も、いつか見てみたいです。……忠晴さん」
僕の声を聞いたヤギは「ヒン」と小さく鳴いて、悶えるように前脚をバタバタ動かしながら短い尻尾で車のシートを叩いていた。
僕の運命の番がヤギだった。
それが僕たちの笑い話になるのは、もう少し先の話だ。
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