運命の番がヤギだった

遠間千早

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 それでヤギとの邂逅は終わったと思ったが、何故かそれからもヤギは僕の前に現れた。

「湊くん、私の番になってほしい」
「なりませんヤギさん」
「返事が早い! もう少し悩んでほしい」

 あれからヤギはちゃんと車を乗り付けてくるようになった。最初の日に校門で用務員のおじさんに野良のヤギだと思われて保健所に通報されそうになったのが、よほど怖かったらしい。ヤギの後ろから、秘書なのか使用人なのかわからない姿勢のいいお爺さんが下りてきて僕らを見守っている。

「お願いだよ。このままでは仕事にも支障が出る。専務がヤギなんて皆戸惑うだろう」
「業務が滞っているんですか」
「いや、今どき書類の承認はボタン一つでできる。読み上げソフトも聞き取りソフトも充実しているからメールの送受信にも困らない。しかし部下達は皆私を見ると牧草を差し出し手懐けようとしてくるんだ」
「平和でいいじゃないですか」
「何もよくない。いつの間にか私のデスクは寝心地のいいふわふわのラグと干し草の壁に囲まれた特設ブースに変わってしまった。しかも外側には空気清浄機が何台も置かれている」
「ああ、やっぱりちょっと臭うんでしょうね。獣臭が」
「嫌だ! 部下達から臭いと思われているなんて耐えられない! このままでは私の自尊心が破壊される!! 湊くん、助けてくれ」

 ヤギが「メー」と鳴いて僕に寄ってくる。
 赤い首輪に小さな金色のベルが付けられていて、カランカランと音を立てている。最近ヤギはこの鐘をつけているが、迷子防止なんだろうか。目立つし、少しうるさい。
 しっかりブラッシングされた頭をよしよしと撫でると、そこそこ毛並みは柔らかくて気持ちよかった。
 何度かの邂逅で若干ほだされた僕は、ヤギをヤギとして愛でる分には問題ないと自分を納得させている。

「ヤギさん、僕たちそろそろ学校に行かないといけないので」
「その前に首を噛ませてほしい」
「嫌ですヤギさん」

 ヤギの頭から手を離して歩き始めると、ヤギはカランカランと音を響かせながらついてくる。

「湊くん、お願いだよ」

 カランカラン

「最初に人間に戻りたいから番になろうなんて言ってすまなかった。本当は」

 カランカランカランカラン
 鐘の音がうるさくてヤギの声が聞こえない。

「うるさい! さっきからなんなのよその鐘は。このままだと私達、ヤギにベルを付けて散歩してるイカれた兄弟だと思われてご近所さんから苦情を言われてしまうわ。あなた、そのベルを付けてる間は私たちに近づかないで」
「しかしこのベルは」

 ヤギを振り返って睨んだ爽香は、無言で鞄の中から弁当袋を出した。

「ヒン」

 という鳴き声を上げてヤギは身をすくめ、車の方に引き返しすごすごと去っていく。
 離れたところで僕たちを見守っていたお爺さんが、車の横で微笑みながら僕に会釈した。


 ◆


 その日の帰り、委員会の用事で爽香とは下校時間がずれたので、夕方一人で帰り道を歩いていた。
 いつも途中で通り過ぎる公園の横に、見覚えのあるリムジンを見つけて僕は立ち止まった。
 ドアが開いてヤギが出てくるかと思ったら、下りてきたのはお爺さんの方だった。

「こんにちは湊さま」
「こんにちは」

 僕の名前は既に知っているらしい。お爺さんは「私は佐々木と申しまして、忠晴さまの執事です」と挨拶してきたので会釈しておいた。
 ヤギがいないのに何をしているのだろうと思ったら、佐々木さんは公園の中を振り返った。つられて僕もその方向を見ると、ベンチの上に見慣れた白い獣が立っている。

「黄昏ているようでして、車の中から見守っておりました」
「そうですか」
「湊さま、もしよろしければご挨拶だけでもお声かけいただけませんか」
「挨拶?」
「湊さまとお会いできると忠晴さまも喜ばれますから」

 ……本当にそうなんだろうか。
 僕にはいまいちヤギの表情は読めないし、ヤギは大抵必死だから僕に会って喜んでるのかなんてわからないんだけど。
 今頼んでくる相手はお爺さんで、人間だから無視して通り過ぎるのは躊躇われた。仕方なく公園の中に足をむけて、木でできたベンチに近づいた。
 ベンチの上に立って黄昏ているヤギの足元には、新聞がビリビリになってたくさん落ちている。遊んでたのか。よく見ると口にも新聞の切れ端がくっついている。

「湊くん、今帰りかい」

 ヤギが僕の方に首を向けずに、空を見上げながら言った。ヤギは視野が広いというけれど、そのまま話されると視線があってないからちょっと不気味なんだけど。

「はい。ヤギさんは何してるんですか」
「ベンチを見たら乗ってみたくなってね。最近なんだか行動までヤギっぽくなってきてるんだ。参ったな」
「ヤギっぽくもなにも、ヤギですからね」

 見た目は完全にヤギだ。ヤギの人間だった頃の姿を僕は知らないから、ヤギにヤギだと言われてもヤギだなとしか思わない。
 朝爽香に言われたからか、ヤギは首輪からベルを外していた。

「湊くん、私は三十になるまでに、色んなオメガを相手に見合いをしたり、告白されたり、迫られたり、追いかけ回されたりしてきたんだよ」

 また文字数の空気を読んだかのように、急にヤギの自分語りが始まった。
 挨拶だけして帰ろうと思っていたのに、この雰囲気でさようならと立ち去ったらさすがに僕の対応は塩すぎるし、少し可哀想かもしれない。
 仕方ないから聞いていこうと思ってヤギを見ると、ヤギは相変わらず目が合っているのかわからない顔で僕の方に顔を向けていた。

「ずっと自分の運命の番が現れるのを夢見ていたけれど、私の人間の姿は少し見目が良すぎるのか、オメガだけじゃなくてベータからもアルファからも執着されるような呪われた顔面でね、付き纏いやストーカー被害が酷くて困ってたんだよ。でもある日ヤギになって、驚くほど平和になった」

 呪われた顔面を持つというヤギは嘆息するように「メー」と鳴いた。

「こんなに穏やかな日々は初めてで、番ができずにずっとヤギでいられるならそれでもいいなと思っていたんだ」
「そうなんですか?」

 それは最初に聞いた印象と違うな、と僕は首を傾げた。
 僕の様子を見たヤギは耳をぴくぴくと震わせる。

「人間に戻りたいから番になりたいなんて誤解させるようなことを言ってごめんよ。正しくは、君を見たら人間に戻るのもいいなと思ったんだ。君はとてもかわいかったから」
「ヤギの目で僕の顔ってちゃんと見えてるんですか」
「人間と同じようには見えていないかもしれない。ヤギの目は視野が広いし、いわゆるパノラマビューみたいになっているから」
「それなら、かわいく見えたって言うのは、ヤギの目ではってことですね」
「そうだ。君はヤギの目で見るととてもかわいい」

 自分がヤギに好印象を持たれる顔面だとは思わなかった。

「じゃあ人間に戻ったらがっかりするかもしれませんよ」
「そんなことはない!」

 僕の言葉に驚いたのか、ヤギはぴょんと飛んだ。
 ヤギのぴょんだから、軽く一メートルくらい飛んでいた。ベンチからスタッと地面に降り立ったヤギは、頭を僕の方に向ける。

「また誤解をさせてしまった。湊くんはかわいい。きっと人間の目でみたらもっとかわいいと思う」
「根拠はなんですか?」
「私が君の運命の番だからだ。番のことを可愛いと思わないアルファなんていない」
「僕はヤギさんのことをカッコいいと思ったことはないんですが」
「そうなの?」

 ガーンというように口を開けて「メェ……」と鳴いたヤギはかわいかった。

「カッコいいではないですが、ヤギさんは可愛いとは思います」
「可愛い? そうか、ならいい……のか? とにかく、私は君のことを可愛いと思うし、話してみたら君は素直で家族を大事にするとてもいい子だ。人間に戻ったら私はきっと湊くんを好きになると思うんだよ」
「ヤギのままでは好きにならないんですか?」
「ヤギだからな。君のことはどちらかというと、番だ、という確信はあるが、人間のような恋愛感情がまだ上手く拾えない。ヤギっていうのは不便なものだ」

 僕を流し目で見上げるヤギは、夕方のオレンジ色の日の光を背中に浴びて毛並みがキラキラ光っていた。

「しかしそれでよかったのかもしれない。ヤギのまま君にキスしたいと思っても絵面に少し問題がある。私も初めての湊くんとのキスは人間に戻ってからしたい」
「そうですか」

 僕が照れることもなくいたって冷静なので、ヤギはそれ以上何も言わなくなった。僕も特に何も言わなかった。

「湊くんは私のことが嫌いか」

 ぽつりと聞かれて、僕は首を横に振った。

「嫌いではないです」
「そうか。ならよかった」

 ヤギはほっとしたような声を出して、楕円形の瞳で僕を見上げた。

「今日は爽香ちゃんはいないのか。なら家まで送っていこう」
「いえ、大丈夫です。もうすぐそこなので」
「ダメだ。君は私のオメガなのだから、何かあっては取り返しがつかない」
「ヤギを連れて歩いてたらご近所さんに困惑されます」
「今更だよ。私はたびたびこの姿で君の家の周りをうろうろしている」

 突然のカミングアウト。
 初耳だ。
 ヤギにストーカーされていたなんて気づかなかった。家の周りをうろつかれていたら、近所の人からツッコミがありそうなものだけど、親も隣のおばちゃんも特に何も言ってこない。
 それともヤギの執事さんがご近所さんに菓子折りでも配って挨拶周りしているんだろうか。あり得るな。確かに最近近所の人たちは僕と爽香に生暖かい目を向けてくると思っていたんだ。

 迷惑なのでやめてくださいと言いたかったが、機嫌良く「メェメェ」と鳴きながら僕の前で器用にスキップしているヤギを見たらその一言が言えなかった。

 絆されてる。まずいな。
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