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第三部

六十六話 ゴーストナイトパレード 後①

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「ティティ、そろそろ着くのかな」
『はい! もうすぐです』

 それを聞いてほっとして周りを見回した。
 さっきの湖のようなところから出て、川幅はまた元のように狭くなってきた。
 すると今度は後ろから、俺達のボートを追い越す勢いで別のボートが疾行してきて横に並ぶ。勢いよく水を切る船から跳ねた飛沫がこっちにまで飛んできた。乗っているのは男女のペアで、嗜めるような女性の声がこちらにも聞こえてくる。

「……ちょっと速すぎるんじゃない?」
「どうして? 兄さんが待ってるんだから早く行かないと」
「たからって、いくらなんでも飛ばしすぎよ。ほら、隣のボートに水がかかってしまうわ」
「離れてるし大丈夫だって」
「ディラン」

 その名前を聞いた瞬間、俺は息を止めた。
 隣を併走しているボートに視線を動かす。

 最初に見たのは、進行方向に背を向けて座っている淡い金髪の若い女性だった。見覚えがある。実際に会ったことも話したこともないが、彼のロケットペンダントの小さな絵の中で見た。何度も。
 心臓が跳ねるように煩く脈を打っていた。どくんどくんという音が耳の内側に鳴り響く。俺は呼吸を止めたまま、女性の向かいに座る人物にゆっくりと視線を向けた。

 女性とそう変わらない歳の若者が、座って櫂を握っている。
 柔らかそうな茶色の短い髪。見慣れていた目元の皺はなく、代わりに顔は若々しい肌に覆われていて健康的だ。薄暗い中でも冴えたように輝く彼の榛色の瞳を見て、胸が震えた。

「レイナルド?」

 俺が横を向いて固まっているから、グウェンが怪訝な声を出した。
 その声に反応した女性が俺を見る。
 俺の顔をじっと見つめた彼女は、ふわりと口元を綻ばせた。

「姉さん? 知り合い?」

 彼が不思議そうな顔をして俺を横目で見た。それから首を傾げる。
 身構えていただけに、俺を見て何も反応しない彼に戸惑った。彼は俺を見ても嬉しそうな顔をするでもなく、嫌そうな顔をするでもなく、ただキョトンとしている。

 どうして……?

 混乱している俺を見つめながら、女性の方が頷いた。

「ええ。とてもお世話になった方なの。あなたは覚えていない?」
「ほんと? いつ? よくわからないな。兄さんに聞いてみないと」

 彼が話す様子に、少し違和感を覚えた。見た目は青年くらいの歳に見えるが、話し方が幼い。まるで十代か、それよりも下の少年が話すのを聞いているような。

「すごくたくさんのお花だね。ボートが明るくていいなぁ」
「……いりますか?」
「ほしいほしい。姉さん、お花くれるって」
「まぁ、ありがとうございます」

 目をキラキラさせて喜ぶ彼に、恐る恐る黄色のリコリスの花を差し出すと、彼は手を伸ばしてきてそれを取った。嬉しそうな笑みを浮かべて前に座る姉にその花を見せる。「光ってるよこれ」と言いながら花の内側を覗き込む彼に、女性は温かい眼差しを向け、彼女はそれからまた俺を見た。

「戸惑わせてしまってごめんなさい。この子は魔に魅せられていた時間が長すぎて、多くの記憶が壊れてしまっているの」
「記憶が壊れている……?」

 呆然と呟いた俺に、彼女は頷いた。

「幼い頃や、私達のことは覚えているけど、それ以外のことはほとんどわかっていないわ。この前ようやく目覚めてから少しずつ自分を取り戻しているけれど、正常な意識が戻るにはまだ時間がかかる。それでも、あれだけの罪を犯したのに川の底に繋ぎ止められずに済んだのは、最後にあなたを助けたから」

 そう言って彼女は俺に微笑んだ。

「ありがとう。あのとき落ちるあなたを見て、この子は一時だけ本来の優しさを取り戻せた」

 静かな声でそう語った彼女の目は潤んでいた。

 公爵は俺を覚えていない。
 俺はそれに衝撃を受けて、同時に重苦しいような切なさが再び胸の内側に込み上げてくるのを感じた。魔の虚で暗闇に消える公爵を見送った、あのときの引き裂かれるような気持ちを。

 グウェンは何か察したのか、口を挟まずに黙って見守ってくれている。
 姉の言葉を聞いてもまるで自分のことだとわかっていない彼は、花を持ったままそれを水面に近づけて川の底を見ようとしていた。

「姉さん! 魚がいる!」
「本当?」
「いるよ! この前はあと少しのところで逃げられちゃったんだ。ねぇ兄さんを呼んでこようよ。すぐ捕まえないと逃げちゃうよ」
「そうね、すぐに会えるからお願いしてみようね」
「そしたら、釣りの後のおやつは姉さんのクッキー?」
「うーん……カスタードパイかしら」
「やった!」

 朗らかに笑った彼の表情は明るい。
 俺はそれを見て泣きたくなった。

 また川面を熱心に見始めた彼を目を細めて見つめながら、彼女が俺に言う。

「この子が魂を回復させて、次の生に向かえるようになるのはいつになるかわからない。それまでは私達が傍にいます。けれど、皆さんにはなんとお詫びしたらいいのか……」
「……」

 俺にも何を言えばいいかわからなかった。
 もし公爵に会えたら何と言おうと思っていた。
 彼から謝罪が聞きたいわけでも、言い訳が聞きたかったわけでもない。
 どうして俺を陥れようとしたのか。
 どうして魔の虚で俺を助けたのか。
 公爵の真意を知りたかったけれど、今の公爵は俺を覚えていない。幼い俺に手を差し伸べたことも、自らの罪を着せようとしたことも。きっと、大切なお兄さんとお姉さんを失ったという過去すらも。
 それを知ったら俺はどうしてかほっとして、目を閉じて息を吐き出した。
 もういいじゃないか。
 俺はこれ以上、公爵から悲しい言葉を聞かないで済む。それでいい。それで俺は、もう自分の中に答えを見つけるだけで。

 瞼を開けて、彼の好奇心に満ちた明るい顔を眺めた。
 光を浴びた日向の芝と同じ、柔らかな榛色の瞳。生気がなかったその目に、今は生き生きとした輝きが見える。彼は今満たされている。それがわかって心から嬉しいと思った。俺は彼のその目が好きだったのだと、泣きたくなるような気持ちで安堵した。

「もしよければ、この花もどうぞ」

 俺は船の中から赤いリコリスの花を一輪取り、彼に差し出した。
 ボートの縁に手をついて下を覗き込んでいた彼は俺の声を聞いて顔を上げる。

「本当? ありがとう」

 満面の笑みで手を伸ばしてくる彼の姿に、今度こそ目の前が滲んだ。

「……助けてくれてありがとう、おじさん」

 小さな声で呟くように囁いた。彼はきょとんとして首を傾げたが、俺は無理やり笑みを浮かべて彼の手に花を渡した。

 暗い空を彩る花を二人で作ろうと約束した。
 夜空に咲く綺麗な花を、あなたに見せたかったよ。
 薔薇の花が好きだったおじさんを驚かせたかった。
 言えないままになってしまった言葉がたくさんある。でも、今何の憂いもなく明るく笑う姿を見たら、それはもう全部、自分の心の中にしまっておこうと思う。

「ありがとうございました」

 彼に救いが訪れたことに感謝します。女神様。

 彼の顔をじっと見つめていたら、目の前で俺を見つめ返す榛色の瞳が、不意にはっきりとした知性を宿した。緩やかに崩れていた顔が引き締まり、やがて落ち着きのある男性の表情に転じる。

「……ロケットを見たかな」
「え?」
「私のロケットを、よく見てごらん。レイ君」

 その口調にハッとして、公爵の顔を凝視した。
 
「おじさん?」
「君はたどり着けるよ。信じていい、君自身の力を」

 彼は俺を真っ直ぐに見つめて微笑んだ。記憶のままの、穏やかで優しいバレンダール公爵の顔で。
 俺が言葉に詰まって何か答えようとしたら、公爵の表情はまたゆるりと崩れた。

「また遊んでね、お兄さん」

 夢を見ているようなあどけない顔でにっこりと微笑まれて、俺は言葉を呑み込んだ。
 俺達のやり取りを見守っていた女性を見る。公爵の一瞬の変化に彼女も驚いていたが、ふわりと優しく微笑むと、俺にゆっくりと頭を下げた。


 ◆


 二人に別れを告げた俺達のボートは、彼らが乗る船からだんだん離れていった。

「いた、兄さん! 兄さん! ここだよ!」

 公爵が明るい声を上げるのを、遠ざかるボートの上から俺はじっと眺めていた。リコリスの咲く川岸に誰かが立っている。彼らが乗るボートを待っていた男性は、彼の声を聞いて岸から大きく手を振った。

 二人のボートが川岸に着くのを最後まで見届けず、俺は深呼吸して船の舳先に顔を戻した。目の前でグウェンが黙って俺を見つめている。
 ずっと見守ってくれていたグウェンに微笑んで、俺はもう一度深く息をついた。

「ごめんな、ほっといて。今のがバレンダール公爵なんだ」
「ああ」

 気遣うような顔で俺を見るグウェンは、何か言いたげな雰囲気だったが、しばらく待っても何も言わない。

「さっき、気になることを言ってたな。公爵が最後に渡してきたペンダントに、何かあるのかもしれない。帰ったら確認してみるよ」
「レイナルド」

 俺の声を遮って、グウェンが口を開いた。

「話したくなければ、無理に気を遣わなくていい」

 そう言われて思わず彼を見上げる。グウェンは相変わらず無表情だが、目では俺を心配しているのがわかる。何度か彼の腕が躊躇うように小さく動くのを見て、じわっと感情が動いた。そうするとさっきまでの締め付けられるような気持ちがまたぶり返して、グラスから水が溢れるように胸がいっぱいになった。
 衝動のまま腕を伸ばしてグウェンにしがみつき、彼の服に顔を埋める。彼の足元に無理やり座り込んで強く抱きついた。
 グウェンは黙って俺の背中に腕を回してくれる。

「ちょっとの間このままでいい?」

 小さな声で囁くと、彼は返事の代わりに俺の背中を撫でてくれた。

 船はまた、スピードを上げて先に進む。

 もう周りの景色を眺める余裕はなかったが、ボートの底板から感じる僅かな揺れは心地よかった。
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