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第二部

百二話 運命の鍵 中①

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 ……出た。

 台所であのおぞましい生きものを見つけた時のような心境で、俺は軽く飛び上がった。
 ライラ達が何事かと振り返ったが、とにかく二人には先に行けと促す。

 どうしよう。
 またややこしいことになってしまった。
 このタイミングで取り憑いて来るなよ。
 空気を読め。空気を。

 悪魔から目を逸らしてグウェンを呼ぼうとしたら、それよりも早く視界が回った。

「え?!」

 思わず両目を閉じると、すぐに背中と肩にどすんと強い衝撃が走り息を詰める。
 眉を寄せながら目を開いたら、スイード殿下の身体を乗っ取ったアシュタルトに押し倒されていた。悪魔の赤い瞳がじっと俺を見下ろしてくる。硬い床に引き倒された時に打ち付けた肩が痛くて顔を顰めた。

「レイナルド!」

 グウェンの鋭い声が聞こえた直後、凄まじい雷撃と衝撃波が飛んできたが、悪魔は即座に結界を張ってその攻撃を弾いた。
 続け様に魔法が放たれるが、俺が近くにいて威力が制限されるのか全て弾かれている。
 顔だけ動かしてグウェンの方を見ると、彼は既に剣の柄に手をかけて床を蹴っていた。

「騒がしい」

 煩そうな顔をした悪魔が、グウェンの方に部屋の中に散乱していた机や椅子を吹き飛ばす。
 彼の進行を妨げる悪魔に舌打ちして、俺も右の拳を振り上げた。

「お前、何でまた出てきた」

 奴の顔面を狙って殴りつけようとしたが、難なくそれを避けた悪魔は俺をまたじろじろと見下ろした。

「少し気になることがある」

 そう呟くと、アシュタルトはおもむろに俺の襟もとをわし掴み、道衣のような衣装の胸元をがばっと開いてずり下げた。

「は?!」

 不幸にも着替える暇がなく女装のままだったため、羽織のようになっている俺の服はさっきグウェンに引き下ろされたのもあって簡単にずり下がる。

 何で脱がす?!
 
 予想外の展開に驚愕していると、剥き出しになった俺の肩の上を悪魔がじろじろと見下ろしてきた。

「やはりないのか」
「は?」

 そう呟いた悪魔の顔を俺は怪訝な顔で見上げた。
 アシュタルトは俺の左肩に視線を落として眉を顰めている。どこか失望したというような顔をしていた。
 どうでもいいけど、肩にはさっきグウェンに吸われた時の鬱血が残っているから、見られると相手が悪魔でもちょっと恥ずかしい。

「何意味不明なこと言ってんだよ」
「私がつけたはずの傷跡が、お前にはない」
「傷跡……?」

 そう言われて俺は眉間に皺を寄せる。

 そんなものは俺には無いし、さてはこいつ、まだ俺と大聖女様を混同してやがるな。

「だから、俺はサリア様じゃないんだって」

 ため息を吐きながら冷たく言い放つと、今度は悪魔の方が怪訝な顔をした。

「サリア……? ああ、そういえばあいつはそんな名前だったか。お前は生まれ変わりではないのか」
「違うわ」

 即答して言い返したら、少し残念そうな顔をされた。
 なんなんだよ。もしかしてこいつはもう一度聖女様に会ってしばかれたいのか?
 そういう趣味?

 ボキィッ

 その時何か大きなものが折れる音が聞こえた。
 顔を横に向けると、床に押し倒されている俺をグウェンが凝視していた。真っ黒な目を見開いて、よく見ると少し口元がわなわなしている。
 床を見ると、へし折れた分厚い板の残骸が落ちていた。

 折れた。

 脱がされかかっている俺の有様を見て、グウェンが多分飛んできたテーブルを力任せに折った。

 ヤバいな。
 この光景は刺激的すぎる。

 そう思った時にはグウェンが斬りかかってきて、悪魔が弾き飛ばした椅子ごと結界を剣で叩き斬った。粉砕した結界を突き抜け、スイード殿下の脳天に躊躇いなく鋭い剣戟が振り下ろされる。

「おっと」

 悪魔が俺から飛び離れてグウェンから距離を取った。
 グウェンは悪魔を追わず、床に倒れた俺を素早く助け起こして腕の中に抱えた。

「グウェン、ありがと」
「あの男は先に縛り付けておくべきだった」
「うん、そうだな。ごめん、油断して」

 俺が小声でお礼を言うと、彼は俺を腕に抱えながら憤怒で燃える瞳でアシュタルトを睨みつけた。眼力が鋭すぎて俺の方がちょっと怯えた。
 グウェンが俺の服を素早く肩まで引き上げて戻し、腰に腕を回して立ち上がらせてくれる。眉間に皺を寄せて彼は俺を見下ろしてきた。

「君は、手を離した途端に攫われていくのは一体何故なんだ」
「攫われてない。今のは押し倒されただけ」
「なお悪いだろう」

 さらに眼光が鋭くなったグウェンを見上げて失言を悟った俺は、慌てて彼にぎゅっと抱きついた。

「よく分からないけど、俺を大聖女様の生まれ変わりじゃないかって確かめたかったらしい。大丈夫。変な意味はない。多分」
「あったら殺す」

 ひぇ。
 ちょっと瞳孔開きかけてるよ。

 ただでさえ彼は今回俺がむちゃくちゃしたせいでいつもより感情が揺れやすい。
 今にも理性がぶち切れそうになっているグウェンの首に腕を回して俺は必死に宥めた。

「大丈夫だから。落ち着け」

 悪魔が入っているとはいえ、さすがに他国の皇族を殺したらまずいだろう。

 グウェンは物騒な顔をしながら、俺の腰に腕を回して精神を安定させていた。
 そんな彼を退屈そうに横目で眺めながら、悪魔はスイード殿下の身体の調子を確かめているのか腕や首を回して動かしている。

 叔父に悪魔が取り憑いたことを察したアシュラフが、ロレンナと双子を部屋の入り口に退避させて俺たちの方に走ってきた。ルシアとオズワルドも俺たちの方に駆け寄ってくる。

「結局悪魔に取り憑かれてしまいましたね」

 ルシアが眉を顰めながらアシュタルトの方を見た。俺が押し倒されて揉めていた一件はスルーしてくれるらしい。ちょっとよれた服に視線は感じたものの、またグウェンの機嫌が悪くなってもいけないので俺はそのまま流れに乗り、話を続けることにした。

「まだ憑かれたばかりだから、浄化魔法をかければすぐに剥がれるんじゃないか。退魔の剣は今誰が持ってる?」

 俺がそう言って皆を見回すと、アシュラフが手を上げた。

「私です」

 彼がそう言って服の中から退魔の剣を取り出した。
 すかさずグウェンがそれに手を伸ばす。

「私がる」
「グウェン、わかってるよな。あれは取り憑かれてるだけだ。ったらダメだぞ。軽く刺すだけ」

 のニュアンスがおかしかったから俺が突っ込むと、グウェンは無表情で「善処する」と答えて短剣を手に取った。



「えっと、じゃあ確認だけど、スイード殿下を攻撃して吹っ飛ばしてもいいのか? もう不意打ちとかできる状況じゃないだろう」
「そうですね……動きを止めなければ退魔の剣を刺せませんし、多少の怪我はやむを得ません。それに怪我を負わせても治癒できます。ですが油断せず、気をつけてください。叔父上は私ほど体力はありませんが神聖力はかなり強いので」

 俺たちがこそこそと話し合っていると、アシュタルトが退屈した声で「もういいか」と聞いてきた。
 聞いただけで待つ気はさらさらないようで、同時におびただしい数の衝撃波を放ってくる。
 アシュラフとルシアがすかさず結界を張り防いだが、矢のように降り注いだ攻撃は完全には弾き切れず、突き刺さるような衝撃と共に結界の表面にいくつも亀裂が走った。悪魔の攻撃の激しさに緊張したルシアが入り口を振り返る。

「私、向こうの皆を守ってきます。スイード殿下を浄化する時はすぐ来ますから呼んでください」
「うん。ルシアも気をつけて」

 立て続けに攻撃魔法が続く中でルシアが隙を見て部屋の入り口まで後退した。

「部屋が狭くて煩わしいな」

 不意に悪魔が眉を寄せて呟き、次の瞬間自分の周りに強烈な爆発を起こした。爆風が上がり、俺は結界の中でグウェンに抱き寄せられ、立ち上る砂塵と轟音に驚いて彼の胸に顔を伏せた。
 スイード殿下の離宮は一階の柱や躯体のみを残して二階以上は皆吹き飛んだ。煙が収まってグウェンから離れ、周りを見回すと上にはイラムの天井が見渡せて視界が広く開けた。
 部屋の入り口があった方を見ると、ルシアが間に合っていてロレンナと一緒に皆を結界で守っている。

「今までの身体ほどではないが、この者も神聖力はなかなか強いな。少し貧弱だが、鍵を見つけるまではこれでもいいかもしれない。そこにいる皇帝。どうだ、お前達の肉親だろう。殺せるものなら今のうちにやってみろ」

 そう言いながら悪魔が低く嗤い、アシュラフに向かって首を傾けた。
 眉を寄せたアシュラフが「叔父上の身体から出て行け」と低い声で吐き捨てる。
 にやりと嗤った悪魔は、その病弱そうな身体を使ってどうやったらそんなに俊敏に動けるのか、と言いたくなるほどのスピードでアシュラフに向かって飛びかかった。

 アシュラフは狼狽えることなく悪魔の前に手を翳す。攻撃を放とうとした彼を見て、スイード殿下の顔に恐怖が浮かび、その表情がくしゃりと歪んだ。

「アシュラフ、やめておくれ」

 懇願するような声を聞いて、アシュラフは手を伸ばしたまま固まった。

 恐怖を顔に張り付けたまま目だけで笑ったスイード殿下がアシュラフに向かって大きく口を開き、火焔を吐いた。

「陛下!」
「アシュラフ!」

 ロレンナと俺の声が響く。
 火焔の勢いで結界が溶けた。
 アシュラフが炎に包まれる寸前、風を切って飛び出したグウェンが二人の間に割って入った。襲い掛かる炎ごと剣で薙ぎ払い、グウェンが躊躇うことなくスイード殿下に斬りかかる。
 悪魔は舌打ちすると、またすいっと飛んでグウェンから距離を取った。グウェンのことは警戒しているらしい。もしかしたら彼が退魔の剣を持っているのに気づいているのかもしれない。

「……すみません。ありがとうございます」

 我に返って結界を張り直したアシュラフが、グウェンの背中を見ながら小さな声で言った。
 ちらりと振り返ったグウェンは気にした様子もなく軽く頷いただけだったが、アシュラフはグウェンの後頭部を見上げながら瞬きして、微かに頬を紅潮させるときらきらした目で彼の背中を見つめていた。
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