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第二部

九十八話 月の微笑み 後②

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 急に明らかにされた事実についていけない。
 皆もそうだ。
 周りで俺たちを見ているマスルール達もルシアも、突然の展開にまだ口を開けてぽかんとしている。グウェンも俺を抱きしめて状況を把握するように黙ったままだ。

 打って変わって朗らかな雰囲気になった年若い王と不死鳥の雛は、もう一度顔を見合わせると俺の疑問に揃って首を傾げる。

「その質問には、どちらも、ということになりますね。メルが前に出ていることが多かったですが、私も時々出ていましたし、野生の本能のままに行動していることもままありました」

 それを聞いて、俺はメルが生まれてからのことを脳内で高速再生した。確かに、俺の言うことがよく分かっているという顔をすることもあったし、好奇心のままにベル達と戯れていることもあった。だけどマスルールや宰相に愛想が良かったような気もするし、言われてみれば、時々アシュラフ皇帝が出ていたと言われて納得することも、あるような気がする。
 今思えばメルは皇帝を召喚してからはなるべく側から離れないようにしたかったのか、さっきオズを探しに行く時も俺にはついて来なかったし。

「ほんとに、メルの中に入ってたのか……?」

 なんか、大丈夫だったか。俺。
 色々駄目なこと見せたり言ったりしてなかった?
 大丈夫?

 この二日のプライベートを見られていたと分かって謎の焦りが押し寄せてきた。
 思い返せばグウェンといちゃついている時もメルは一緒にいた。
 恥ずかしいだろう。普通に。

 赤くなったり青くなったりしている俺を眺めながら、アシュラフ皇帝は微笑んだ。

「最初私の精神はボロボロでしたが、母上の愛情で満たされて再び自我を構築することができました。思えば私は、今まで母という存在を感じたことがなかったので、メルと一緒にあなたに愛されてとても幸せな時間を過ごしました」

 そう言った皇帝はメルを腕に抱き、俺を見て嬉しそうな顔になった。

「私の母は私を産んでからすぐに王宮を去りましたし、アルフの母君には良くしてもらいましたが、本当の意味で私はこれまで母というものを知りませんでした。でも短い間でもあなたは私を愛してくれて、全力で慈しんでくれた。私はこれが母の愛なんだと感じて、この三日間本当に幸せだったんです」

 それを聞いて、俺は混乱しながらも少し胸がじんわりしてしまった。
 アシュラフ皇帝の瞳は喜びと感謝で溢れていて、俺を慕うように真っ直ぐに見つめてくる眼差しは、確かに俺が見ていたメルの瞳と同じだった。

 それで、俺を母上なんて呼んでいるのか。
 俺は大したことはしていないと思うが、そんなふうに純粋な敬愛を伝えられるとなんだかほっこりしてしまう。
 母上と呼ばれて戸惑いが強いが、彼は早くに父王も亡くしているから、きっとメルを通して親の温もりを感じられたのが嬉しかったんだろう。それを思うと突き放すことはできなかった。

「これからも母上と呼んでいいでしょうか」

 そう言ってキラキラした空色の瞳で見つめられると、つい頷いてしまいそうになって慌ててすぐ横にいるマスルール達を見た。

「えっと、どうなんだろう。やっぱ問題があるんじゃ……」

 俺が視線を横にずらしたから、アシュラフ皇帝もそこでようやく宰相達の方を向いた。
 俺たちを穴が開くほど凝視して固まっていたダーウード宰相は、アシュラフ皇帝と目が合うと途端に目に涙を浮かべて飛びついた。

「陛下! 我が君、我が目の中の君、お戻りになられたのですね。私は、もう陛下があのまま戻られないのかと……」

 目の前でよろよろとしゃがみ込んでしまいそうな宰相を片手でメルを抱きながら支えて、アシュラフ皇帝は微笑んだ。

「ワジール、心配をかけたね」
「陛下、私はもう、陛下と共に心中しようかとも思ったのですよ」
「ああ、それは大変だ。ワジールがいなくなったら誰が貴族達の我儘を抑え込めるんだろう、国が滅ぶじゃないか」
「我が君、笑い事ではありません」

 ふふ、と声を出して笑ったアシュラフ皇帝を、ダーウード宰相は泣きながら顔を綻ばせて抱きしめている。
 
「ねぇワジール、私が心の母と思った方を母上と呼ぶのは間違っていないよね?」
「……陛下、それはそうかもしれませんが」
「ちゃんと時と場はわきまえるから、少しくらい甘えても許されるでしょう? 私を悪魔から守ってくれた方なんだよ、母上は」
「……まぁ、それは確かにそうですから……ええ。よろしいでしょう」

 いいのか?

 俺は二人のやり取りを聞きながら心の中で突っ込んだ。

 異国のそんなに歳の変わらない男を皇帝が母上って呼んでいて、困惑しないか?

 至極真っ当な疑問だと思うが、もはやダーウード宰相の表情は完全にお爺ちゃんのそれである。
 アシュラフ皇帝も祖父の扱い方を心得ているというような甘え方であった。
 
「そうだよね、よかった。ということなので、母上って呼んでもいいでしょう?」

 宰相を離してからアシュラフ皇帝がもう一度俺に顔を向けて微笑んでくる。

「あ、うん。陛下がいいなら」

 未だにアシュラフ皇帝の柔らかい笑みに慣れない俺が戸惑いつつも思わず流されて頷くと、彼はにっこり微笑んだ。

「アシュラフって呼んでください、母上」
「……え? それいいのか?」

 今度は口から直接ツッコミが出たが、アシュラフ皇帝はにこにこしているし、ダーウード宰相はもうそれどころじゃなくて感涙してるから俺たちの話なんて聞いてない。

「母上、アシュラフって呼んでください。メルはメルって呼んでいるでしょう。ずるいです」

 少し拗ねた顔をして俺を見つめてくるアシュラフ皇帝の顔が確かにメルと被って見えて、俺はまぁいいかと細かいことは考えないことにした。

「わかった。なんかまだ違和感すごいけど、アシュラフがメルだったなら、俺が育ててたことは事実だしな」
「嬉しいです……母上ーー!!」

 顔に喜びを浮かべてまた抱きついてこようとするアシュラフを、腕を伸ばしたグウェンが頭を掴んで阻止した。
 がっと頭部を掴まれて動きを止めたアシュラフが眉を寄せてグウェンを見上げる。

「痛いですよ」
「……」

 俺を腕の中に隠しながら無言でアシュラフを見下ろすグウェンと、笑顔で彼を見上げるアシュラフがバチバチやり始めてしまったので、俺は焦って間を取りなした。
 アシュラフとしては小さな雛の中にいた時の気持ちがまだ抜け切れていないだろうが、グウェンから見たら俺が他所の男に抱きつかれているように見えるし、気に食わないだろう。
 ちらりと俺を見るグウェンは眉間に皺を寄せてため息を吐く。

「君は、また厄介なものを拾い上げたな……」
「……ごめん、何かあったら相談するって言ってた側から」

 責めるような声で呟かれたので、俺は内心またやってしまった、と反省しつつもグウェンに抱きついて必死でご機嫌を取った。


「ぴぃ」

 メルがアシュラフの手の中から跳んで、俺の頭の上に戻ってくる。
 メルはメルでアシュラフが抜けても様子は変わらないから俺はほっとした。

「メル、お前すごいことしてたんだな。びっくりしたよ」
「ぴっぴぃ!」

 頭の上で足を踏ん張って羽ばたいているであろうメルの鳴き声を聞いて、俺は顔を綻ばせた。

「ラムルの王様を助けたなんて、表彰ものじゃないか。グウェンがいない間に俺のこともたくさん助けてくれたし、ありがとう。トウモロコシ後でいっぱい食べような」
「ぴぃー!」

 嬉しそうに鳴くメルを羨ましそうに眺めたアシュラフが、唇を尖らせて俺を見てきた。
 
「私だって母上をお守りしました」
「うん、ありがとう、アシュラフも。メルの中にいた時の話はまた詳しく聞きたいけど、とにかくお前はまずみんなに自己紹介とかした方がいいんじゃないか」

 俺に抱きつこうと隙をうかがっているアシュラフの注意を逸らすためにそう言うと、彼はようやく思い至ったという顔で頷いて、皆を見回した。
 呆気に取られて黙ったままだった皆はアシュラフの朗らかな表情を見て未だに戸惑っている。

「皆さん、この度は本当にありがとうございました。そして悪魔に乗っ取られていた間、多大なるご迷惑をおかけして申し訳なかったと、お詫びいたします。シャフリヤール皇家の者として、皆さんに心からの感謝を捧げます」

 皆に向かってアシュラフが丁寧に腰を折った。
 俺と彼のやり取りで場の空気が固まっていたが、アシュラフの言葉を聞いてようやく皇帝が本来の姿に戻ったという事実を飲み込めてきたのか、皆の表情が次第に明るくなる。

「本当に呪いが解けたんですね?」

 ルシアが確認するように尋ねると、アシュラフは穏やかに微笑んだ。

「はい。胸の刻印は消えました。私の身体から呪いは解呪されたものと思います。ルシア嬢も本当にありがとうございました。それからチーリンも」

 それを聞いてルシアはほっとした顔になり、少し離れて様子を見守っているベルのおばあちゃんは頷くように軽く首を振った。

「陛下、本当に、呪いが解呪されたのですか?」

 まだ半信半疑なのか、ずっと固まっていたマスルールがようやくアシュラフに話しかけた。

従兄上あにうえ、この数ヶ月色々と苦労をかけてしまったよね。だいぶ困らせて申し訳なかった」
「いえ……それは陛下ではなかったのですから……」

 口元が強張り、慎重に様子をうかがうような表情をしたマスルールをアシュラフは穏やかな微笑みで見返した。

「私の呪いは解けたんだよ。だから従兄上はもう私に罪悪感など抱かなくていい」

 その静かに囁やかれた言葉を聞いて、マスルールは微かに目を見開いた。何か言葉を探すように口を開きかけた彼は、柔らかな光を宿すアシュラフの空色の瞳を見つめて、何かを飲み込むように唇を噛み締めた。
 そんなマスルールを眺めてアシュラフがふふと笑う。

「本当に終わったんだよ。だからいつまでもそんな重苦しい顔をしないでほしいな、従兄上」

 若い皇帝の顔を見つめていたマスルールはそう言われて眉間にぐっと力を入れ、月明かりを反射して潤む琥珀色の目を伏せた。そして深く安堵したような眼差しで地面を見据えると、しばらくの間片手で顔を覆って黙っていた。

 俺にはよく分からないが、マスルールにはマスルールなりの葛藤があったんだろう。父親が皇位を継がなかった故に呪いから免れたという事実が、もしかしたら彼に何らかの重圧を感じさせていたのかもしれない。

 とにかくこれで、ラムルの皇帝に取り憑いた悪魔を引き剥がし、呪いを解くのも成功した。上々な成果じゃないか。
 まさかこんなことに巻き込まれるとは思っていなかったが、この数日間のことを思い出すとようやく先に進んだという達成感がある。

 俺はグウェンにもたれて大きく息をつくと、俺の目の前で従兄を見守っていたアシュラフがまだ感涙しているダーウード宰相を振り返る。

「さて、呪いは解けたということを家臣達に報告しなくてはならないね。それともその前に、デルトフィアの逃亡犯に手を貸しているジャアファル達を絞めあげるのが先だろうか。ワジールはどう思う?」

 皇帝の顔になった少年はそう言って不敵に笑うと腕を組んで宰相を見据えたが、祖父が答える前にしゃんとした姿勢に戻った彼の側近に再び「陛下」と呼びかけられた。

「何? 従兄上」

 首を傾げたアシュラフが問う。
 マスルールは少し眉を顰めて彼の王を見た。

「まずは足に刺さったままの剣を抜くのが先です」

 彼の言葉で皆がアシュラフの足に注目した。

 そういえば、短剣刺さったままだったな。
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