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第二部
九十七話 月の微笑み 後①
しおりを挟む鈴園に戻ると、アシュラフ皇帝の浄化魔法はまだ続いていた。
俺はオズワルドを皆に紹介して、まだふらついている王子の世話をサラに頼み、彼は一旦ルシアの鈴宮で身体を休めることになった。
さすがに手負いの王子の胸ぐらを掴む気はないようで、グウェンはこの件が片付くまではオズのことを見逃すことにしたのか、胡乱げな目をしつつも彼の存在はスルーすることにしたらしい。
マスルールには広場に残ってもらう必要があるから、オズへの詳細報告はライネルとサラに任せた。俺はウィル達のところに様子を見に行くと、メルはぴょんと起きて屈んだ俺の側に「ぴぃぴぃ」と跳ねてきた。
ウィルはまだ眠そうに欠伸をしていて、ベルがウィルを見つけて隣に寝そべる。
「レイナルド様、先ほど双子のお二人が媒体を作り終わったって言いにきてくれました。レイナルド様が帰ってきたら伝えてほしいと」
ウィルが目をこすりながら報告してくれたので、俺は頷いてウィルとベルに毛布をかけた。
「うん、わかった。もう少し寝てていいよ」
「はい……それから、二人とも、特にライルさんの方はかなり疲れているみたいだったので、後で休ませてあげてください。大丈夫か聞いたら、頷いてはいましたけど……」
半分眠り込みながら俺にそう伝えてきたウィルに「わかったよ。ウィルもありがとう」と返してから立ち上がった。
確かにライラとライルはまだ子供といっていい年齢だし、今日は相当疲れているだろう。解呪が無事に終わったら先に休ませてあげないといけない。
そう思いながらウィル達がすやすやと寝始めたのを見守ってから、俺はメルだけを頭の上に乗せてグウェンと一緒にアシュラフ皇帝の方へ戻った。
皇帝が昏睡してからベルのおばあちゃんとルシアが浄化魔法を絶やさないようにかけ続け、そしてとうとうその時がきた。
ライルが追加の媒体を持って広場に現れた頃、ルシアが突然「レイナルド様!」と小さく悲鳴を上げた。
俺がルシアの側に駆けつけると、アシュラフ皇帝の顔がぴくぴくと引き攣るように痙攣していた。何か反動のようなものを感じているのか、ルシアが息を飲み、かざした指先に力が入る。ベルのおばあちゃんも瞳を強く輝かせるとその角から一際眩しい光が放たれた。
皇帝の眉間にぐわっと皺がより、かっとその両目が開いた。ぎょろりとした赤い瞳が側に立つ俺の顔を捉える。
「……上手くやったな。だがこれで終わりではない」
そう言うと、アシュタルトは低い声で短く嗤い、そして次の瞬間瞳の色がすっと空色に戻った。
「剥がれました!」
ルシアが叫んだ瞬間、アシュラフ皇帝はまた目を閉じて動かなくなった。
悪魔が剥がれたのか? 本当に?
唾を飲み込んでベルのおばあちゃんを見ると、彼女も俺を見て小さく頷く。
ルシアの声を聞いて少し離れたところで見守っていた皆が駆け寄ってきた。
慌ただしい雰囲気を察したのか、メルが俺の頭の上からぴょんと跳んで寝台の隅の方に着地した。わらわらと集まってくる皆を見回して大人しく寝台の隅に座っている。
「解呪しよう」
俺はライルを探して振り返った。
悪魔が剥がれたなら、すぐに解呪してもう取り憑けないようにしてしまわなければならない。
彼女は寝台の側に近寄ってきて、マスルールに皇帝の上着を捲るように頼んだ。
すぐにマスルールがアシュラフ皇帝の服をはだけさせ、心臓の上に浮かんでいる呪いの刻印を晒す。確かに、胸の心臓がある位置に刺青のような黒い紋様があった。
「媒体を塗って、もう一度浄化魔法をかければいいんですよね」
ダーウード宰相に確認すると、目を覚さない皇帝を不安げな顔で見守っていたお爺さんは「そのはずだ」と頷いた。
ライルが緊張した表情で器の中から甘露で溶いた媒体を金属のヘラで掬い、刻印の上にそっと塗りつけた。それはすぐに皮膚の中に染み込むように薄く広がり、紋様に触れると白く光を帯びる。
「ルシア、浄化魔法を頼む」
「はい」
ライルが後ろに下がっていき、入れ替わるようにルシアがもう一度浄化魔法をかけた。
白く光った紋様が一層輝きを放ち、次の瞬間黒い刻印が端から赤黒く焼けて焦げ落ちるように消えていく。
呪いの印が胸から消えていくのを、側で膝をついて見守っているマスルールが目を見開いて見つめていた。
メルが皇帝の枕元から「ぴぃ」と小さく鳴く。皆が刻印に注目している間に近づいていたのか、目を閉じた皇帝の顔を首を傾げて覗き込んでいた。
本当にこれで呪いが解けたんだろうか。
刻印が消えたということは、呪いが解除されたと考えていいのか。
少し不安が残りつつも、俺はアシュラフ皇帝の身体から黒い模様が全て消え去るのを皆と一緒に最後まで見守った。
「これで、大丈夫だと思うんですが」
ルシアが静かな声で囁き魔法を止めたが、誰も何も言わずに黙って皇帝を見続けていた。
しばらくして、アシュラフ皇帝の瞼がまたぴくりと動いた。
ゆっくりと開いた目の瞳はちゃんと空色だった。それを見て俺も周りの皆もほっと胸を撫で下ろす。
その澄んだ水色の瞳がぼんやりと近くに立つ俺を眺めていた。
「……ん?」
もしかして、目が合っている?
皇帝が俺を真っ直ぐに見ているような気がして、俺もじっと見下ろすと、その空色の瞳が何度か瞬きした。
そして突然、寝台に寝ていた身体が急にがばっと跳ね起きる。
「陛下?!」
ダーウード宰相が大声を上げた。
その声がまるで聞こえていないというように、目覚めた皇帝は潤んだ瞳で俺を真っ直ぐに見て、唇を震わせるとくしゃりと顔を歪ませた。
「母上ーーー!!!!」
がばっと勢いよく抱きつかれた。
え?
ぎょっとして固まり、抱きつかれた勢いのまま数歩下がると、覆いかぶさるように抱きついてきたアシュラフ皇帝が俺の肩に頭を擦り付けてくる。
「母上!! ありがとうございます……! おかげで元に戻れました!」
母上……????
全く意味がわからず視線だけでマスルールと宰相に助けを求めると、二人もぽかんとして思考停止していた。皆も呆気に取られて俺と皇帝を見つめている。
「もう駄目かと思っていました。まさか呪いまで解けるなんて……母上はさすがです」
「……え?」
俺を抱きしめたまま感嘆のため息を漏らしているアシュラフ皇帝に困惑しか湧かず、俺は固まったまま頭の中で疑問符を繰り返すだけで突っ立っていた。
俺が混乱の極みに至り放心していると、グウェンが強い力で俺と皇帝をばりっと引き剥がした。
「貴様、何のつもりだ」
怖い顔をした彼が俺を腕の中に抱きしめ、アシュラフ皇帝を睨みつける。
お前皇帝に向かって貴様って言っていいのか。
そう心の中で突っ込みながらグウェンの腕の中で身体を反転させアシュラフ皇帝の方を見ると、グウェンの剣幕を見て瞬きした彼は、表情を緩めて俺たちに微笑んだ。
「すみません、驚かせるつもりはなかったんです。そんなに警戒しないでください母上」
「…………母上?」
グウェンが訝しむような声を出した。
一体何がどうなっているんだ。
あの悪魔の邪悪な笑みを見慣れていた身としては、同じ顔で急に穏やかな笑顔を浮かべられると違和感が強すぎて変な汗が出てくる。
なんで俺が母上なんだ。悪魔に乗っ取られていたせいで、彼はやっぱりちょっと頭がおかしくなってしまったのか。
意味不明すぎて呆けた顔でアシュラフ皇帝を見ていると、彼は嬉しそうに自分の身体を見回して捲れていた服を元に戻した。
そして純粋で親しみのこもった瞳を俺に向けてくる。
その瞳の輝きを見て、俺はふと既視感を覚えた。
俺はメルを見た。
寝台の上であどけない顔で俺たちを見上げているメルはいつもと変わらないが、よく見ると瞳の色が変化している。
今まではエメラルドのような明るい緑だったはずだ。
それが何故か今は金色になっている。
メルの瞳の色は、いつから変わっていた?
今のメルの瞳は、まるで緑色の中から青みのある要素だけ抜けていったかのような、黄色に近い明るい金色だ。
いやむしろ、それが正しい気がする。不死鳥にしては、メルは緑の目をしているのが不思議だと思っていた。
これまでのメルの瞳は、本来の金色だったものに青い色が混ざっていたのだとしたら……?
おい、まさか。
「まさか……メルの中に……?」
呆然と口から漏れた俺の声を拾ったアシュラフ皇帝は、それを聞くと嬉しそうにうんうんと頷いた。
「そうです。生まれてから母上とずっと一緒にいたのは、私だったんですよ」
「…………はえ??!!」
グウェンの腕の中で飛び上がった。
驚きすぎて変な声が出た。
メルの中にいた……??
アシュラフ皇帝が?!
目を大きく見開いて目の前の皇帝を凝視した。
「いや嘘だろ?! いつから?! そんなのおかしい、卵は三日前の夜に初めて王宮に来たんだぞ?!」
叫ぶように言うと、アシュラフ皇帝は首を傾げてメルと顔を見合わせた。
メルはぴょんと跳ねてアシュラフ皇帝の手のひらの上に乗り、つんとその指をつつく。それを見て皇帝は微笑み、「メルも本当にありがとう」と言ってメルの頭をそっと指で撫でた。
彼は俺に視線を戻すと、敬愛のこもった眼差しで俺の目を見つめてくる。
「私は悪魔に身体を乗っ取られてからなんとか意識を繋いでいましたが、日に日に自我が薄らいでいき、きっともう魂ごと粉々にされて消滅すると思っていました。そしたら目の前に母上とメルの卵が現れたんです。私がメルの中に逃れたのは、母上が王宮に来た次の日に、悪魔が部屋まで来て広間に連れ出したあの時です。悪魔が気まぐれに卵に触ったでしょう。その時意を決して、私は卵の中に逃れました」
「あのとき……?」
そう言われれば、確かにあの時悪魔はちょっと変なことを言っていたような、気もするけどそんな細かいことは正直もう覚えていない。
「メルが不死鳥で、生まれる前にも関わらずその身に膨大な力を宿していたおかげで救われました。メルが私を自分の中に入れて助けてくれたので、今まで自我を無くさずに持ち堪えました。メル、本当にありがとう」
「ぴぃっ!」
アシュラフ皇帝がうるうるした目でメルを見て、優しく指で撫でている。メルは彼の手のひらの上で胸を張り、誇らしそうな顔をしていた。
俺は未だに混乱する頭を抱えて目を白黒させる。
「え? ちょっと待って。まだわからないんだけど、じゃあ俺が今まで接してたのは、アシュラフ皇帝なの? メルなの?」
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