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第二部

五十八話 奇怪な教王 中③

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 水の中は澄んでいるが、何せ睡蓮の茎が茂っていて視界を邪魔してくる。
 息継ぎをしながら水中に潜ってライルを探すと、少し先の底の方で何かがひらひら動くのを見つけた。
 泳いで近づきながらそれに目を凝らすと、それは白い布のように見える。

 見つけた。多分ライルの服だ。

 それが何となくもがいているように見えて、俺は急いでその場所に向かって泳いだ。
 ライルは池の底で睡蓮の茎と格闘していた。お守り袋が引っかかってしまったのか、茎から革紐が外れず何度も引っ張っている。長い衣装の下には俺と同じような膝下のズボンを履いていて、そのせいで更に動き辛そうだった。服が水の流れで捲り上がるのを払ってもがきながら、なんとか茎から離れようとしている。

 いや、違うな。

 よく見ると引っかかってしまったのはライルの手の方で、手首に巻き付けた革紐が上手く外れず、息継ぎに一度水面に上がろうとするのを邪魔しているらしい。
 だんだん弱々しくなる彼女の動きが見て取れて、俺は一回水から顔を出して大きく息を吸うと再び水中に潜って彼女の側に急いだ。
 もう息が続かなくなってしまったのか、ライルは身体から力が抜けたように足がふらふら漂い始める。

 まずい。
 間に合え。

 とにかく急いでライルのもとに泳ぐ。こういう時、魔法が使えればこんなに手間取らなかったのに。水中では風の精霊術は使えないが、土の魔法が使えれば最初から池の底を嵩上げすることは出来た。イラムの景観を壊すなと怒られるかもしれないが、そんなの人命には変えられないだろう。

 自分の体力を全て出し切って、ライルのもとに泳ぎ着いた。池の底に足をつき、既に気を失っているライルを抱えて時計の魔法陣を起動する。
 魔法陣が一瞬光った後、唐突に息が吸えるようになった。魔界に落ちた時にも俺とグウェンを救ってくれた、一時的に身体の周りに空気の膜を発生させるあの魔法である。抱えたライルの周りにも空気がちゃんと発生していることを確認してから、「ライル!」と大声で呼びかけた。
 反応がないから池の底に座り込み、彼女を横抱きに抱えたまま胸の真ん中辺りに手を当てて強く押した。
 何度か押してもまだ反応がない。直接息を吹き込んだ方がいいだろうか。女の子だけど、背に腹は変えられない。
 ごめんね、と思いながら人工呼吸をしようとライルの唇に口を寄せたとき、ひゅっと彼女の口から細い音がして、次の瞬間ライルが大きく咽せた。

「げほっ、ごほっ」
「ライル!」

 水を吐いてはあはあと大きく息を吸い込んだライルがぼんやりと目を開いた。
 ほっとして「大丈夫?」と呼びかけると、彼女はうっすらと頭を動かして頷いた。

「岸まで連れていくから、掴まってて」
「……ねの。ふくろ」

 微かにそう言った言葉に頷き、俺は懐中時計の仕込み刃を出すと茎に手を伸ばして絡まってしまった革紐の方を思いきって切った。お守り袋はしっかりライルの手の中に握られていたので、切れた革紐がなくならないように俺はそれをライルの手首に巻き付ける。

「そろそろ空気がなくなるかな。もう少し頑張ってね。喋れなくなるから、水面に出るまで息を止めてて」

 懐中時計をポケットにしまったところで、足の先からまた水の抵抗を感じ始める。
 急いで池の底を蹴ると、ライルを抱えて上まで泳いだ。途中で空気は完全に消えたが、ライルはちゃんと息を止めているのか俺の首に腕を回して大人しくしている。

 ザバッと二人で水面から顔を出すと、岸の方でこちらを見守っていたライラ達が俺を見つけた。

「ライル!」

 妹の姿を見とめて安心したのかライラが岸辺にへたりこんだ。

「大丈夫?」

 ライルに聞くと彼女は俺の首に腕を回したまま小さく頷いた。ちゃんと呼吸もしていることを確認してから、ライルを抱えてゆっくり岸まで泳ぐ。水面に顔を出したままゆっくり睡蓮を避けながら進んだ。
 多少時間はかかったが、無事に岸までたどり着くと、足がつくところからはライルを抱え直して池の中をザブザブ歩く。

「こちらに渡してください。すぐに手当します」

 岸で待っていたマスルールが険しい表情で俺に手を差し出してきた。

「頼んだ」

 彼にライルを渡すと、マスルールはすぐに彼女を草地の上に連れて行き、タオルを敷いた上に寝かせて治癒魔法をかけ始めた。
 溺れた場合どうやって回復させるのかはわからないが、とにかく手当をしてもらえるならこれ以上酷いことにはならないだろう。
 ライラがライルの側に座り込んで泣き始める。リリアンも二人を心配して駆け寄り、ライラの肩を抱いて寄り添った。

 俺は慣れないことをしたせいで疲労困憊になり、岸に上がったら重力に負けて立ち上がる力もなかった。その場で膝をついてぜいぜいする。

「……くそ。オズワルドのやつ、早く鍵を持って来いよ……」

 そう小声で文句を言っていると、「レイナルド様、大丈夫ですか?!」とルシアが駆け寄って来て膝をつき、俺の肩にタオルをかけてくれた。

「申し訳なかった。大丈夫かい」

 息を整えているとそう声が聞こえて、見上げるとダーウード宰相が心配そうな顔で俺を見下ろしている。
 青い顔をしたその老人の顔を見ていたら、俺は込み上げるものを抑えきれず苦々しく口元を歪めた。

「……あんたらね、いい加減にしてくださいよ」

 ふつふつと湧き上がる怒りで、一瞬相手がこの国の宰相であるという事実を都合よく忘れた。

「六女典礼だかなんだか知らないけど、こんなの妃選びでもなんでもない。候補者を殺す気か? 皇帝が決めた試験の内容に口を挟めないなんてクソみたいなルール、今すぐ改めたらどうなんだ。しきたりに則って手を出せないあんた達は、じゃあ何のためにここにいるんだよ」

 突然キレ始めた俺の剣幕に、ダーウード宰相の顔が強張る。ライルの手当をしていたマスルールも俺に顔を向けた。
 何も弁明しない二人に俺は更に苛立った。

「候補者が溺れかけてるのになんで突っ立って見てんだよ?! 子供が溺れてんだぞ? しきたりだかなんだか知らねーけど、中断するとか手助けに入るとか、当たり前のことをやれよ! 大人として恥ずかしくねーのか! それが規則で出来ないっていうなら、出来るようにしろよ……! あいつの思う通りになってんじゃねぇ……!」

 大声で怒鳴りつける体力なんてもうないから、途中からぜいぜい言いながら掠れた声しか出なかったが、それでも言った。

 好き勝手に喚いたが、ついこの前もオズにキレたし、最近もしかして俺はキレやすいのか?
 でも理不尽に巻き込まれて毒を飲まされそうになったり、溺れて人が死にそうになってるのを見たらキレたくもなるだろう。俺は間違ってない。

 お爺さんは黙って俺の言うことを聞いていた。
 アシュラフ皇帝は俺たちの側に立って面白そうな顔でじっと成り行きを見ている。
 その興味深げな視線にムカついて、俺は地面に膝をついたまま今度は奴を睨みつけた。
 
「それから皇帝、お前は許さねぇからな。子供を池に入らせたり、人が大切にしてるものを無理矢理取り上げて池に投げ込ませてんじゃねーよ。お前は人の心がねぇのか」

 そう吐き捨てると、アシュラフ皇帝は微かに眉を上げた。それから俺を見下ろしてまたにんまりと笑う。

「なかなか的を射ることを言う」

 俺の棘のある言葉を気にしたふうもない皇帝は、皆を見回してやれやれと肩をすくめた。

「さて、全員池に落としたものは見つけてきたらしい。では第二の試験も皆合格か。今度こそ一人くらい欠けるかと思ったが、つまらんな」

 その信じられないセリフを耳にした瞬間、頭に血が昇った。燃えるような怒りを感じて、俺は衝動のまま肩からタオルを投げ捨てると勢いよく立ち上がり、拳を振り上げて皇帝の顔に殴りかかった。
 表情を一切変えない皇帝が瞬時に顔の前に結界を展開したため俺の拳はそれに打ちつけられて防がれたが、そうなることは予測していたし、別にそれで構わない。殴りつけたかったのは俺の気持ちの問題だ。

 ガツッと硬い結界に拳がまともにぶつかって指の骨が痺れるくらい痛かったが、そんなこともどうでも良い。

 ただ許せないと思った。

 一人くらいと言った、こいつのその傲慢な無神経さが。

「皇帝を殴りつけようとするとは、お前は本当に面白いな。……だが次はない。覚えておけ」

 そう言うと、アシュラフ皇帝はギロと俺を青い目で睨んだ。
 咄嗟に頭を腕でガードして後方へ跳んだが、皇帝から鋭く放たれた衝撃波が身体にぶつかった。いや、多分直撃はしていない。ぶつかる寸前に俺の目の前に白い結界が張られた。多分ルシアだ。
 それでも一瞬でその結界は破られて、胸を殴られたような衝撃が走り、後ろの池に吹っ飛ばされた。

「レイナルド様!」

 ルシアの高い悲鳴が聞こえた時にはまた池の中にどぼんと落ちていた。

 クソ野郎。

 首輪がなければこんなことにはならない。
 俺だってそこそこ応戦できるはずなんだ。
 魔力封じの首輪さえなければ。

 ザバッと水面に顔を出して舌打ちした。

「オズワルドの野郎! だからさっさと鍵を持ってこいよもう!!」

 そう叫んで池の中からアシュラフ皇帝を睨むと、奴は俺を見たままふんと軽く笑い、何か呟いてから池に背を向けた。岸辺にいる候補者やマスルール達を残して皇帝はさっさと宮殿の方へ帰って行く。

 あのクソ皇帝。
 絶対に許さない。

 水面から顔を出したまま俺は奴の背中を睨み、それから仕方なく岸に向かって泳ぎ始めた。

「レイナルド様! 大丈夫ですか?」

 ルシアが大声で呼びかけてくるのに手を上げて応えようとしたが、思ったように手が動かないことにそこで気がついた。
 そういえば、俺はもうさっきのライルの救出でほぼ全ての体力を使いきっていたんだった。怒りでアシュラフ皇帝に殴りかかったから忘れていたけど、思い出したら岸までの距離が急に遠く感じられる。

 ああ。これはまずいかもしれない。

 泳いで岸まで戻りたいのに、なんだか浮いているのが精一杯だ。手も足ももう思ったように動いてくれない。

「ルシア、ヤバい……!」

 そう声を上げてルシアを見たのを最後に、俺の足は池の水を上手く蹴れなくなった。
 身体が池の中に中途半端に沈んでいく。
 頭の中が意識を留めようと必死に抵抗しているが、立ちくらみになったようにだんだんと視界が黒く塗りつぶされていく。

 まずいな。

 俺を見るルシアの悲鳴と、マスルールが慌てた顔で俺に手を伸ばすのが微かに見えた。

 それきり、俺はふっと意識を手放した。

 ああ。

 これはまた、グウェンに叱られる。

 また溺れたなんて、あいつに知られたら。
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