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第二部

五十五話 奇怪な教王 前③

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 彼女はもう座卓に座っていて、カップを一つずつ手に取って中を見ている。治癒魔法をかけているんだろう。アシュラフ皇帝はそれをまた面白くなさそうな顔をして眺めていた。
 ロレンナは全てのカップを持ち上げた後、右の方からカップを一つ手に取った。
 そしてそれに口をつけてゆっくり飲んでいく。

「あ、私さっき言われたことを間に受けて左から選んで飲んじゃいました。右の方が危なかったんですよね。右から選べばよかったな」

 隣でルシアが小さく漏らした言葉に、俺は「大丈夫」と囁いて返した。

「次は俺だから。次で終わらせるよ」
「え?」

 きょとんとしてこちらを見たルシアに軽くウインクして、俺は立ち上がった。
 飲み終わって何事もなく戻ってくるロレンナとすれ違い、俺は座卓の前に進む。

 頭の上でメルが緊張したように震えたのを感じ、誰にも聞こえないくらいの小さな声で「大丈夫だ」と囁いた。
 すぐ近くというわけではないが、地上にグウェンがいるとわかっているだけで気持ちが強くなるんだから不思議なものだ。
 この非道な試験に対してただ黙って従うなんて、そんなのおかしいだろう。このムカつく皇帝に一泡吹かせないと腹の虫が収まらない。

 俺は座卓の前に立ち、つまらなそうに俺を見ているアシュラフ皇帝を見下ろしながら腕を組んだ。

「あんたはさっきカップを選んで、その場で飲み干せって言ったよな。そして最後に残った一つをあんたが飲むって」

 そう言うと皇帝は眉を上げ、俺を鋭い目で見上げる。

「そのルールに変更はないな」

 その圧に構わずにそう問うと、アシュラフ皇帝は口元を歪めた。

「ああ。そうだ」

 それを聞いて俺は黙って座卓の前に座る。
 左端からカップを一つ手に取った。口をつける前に俺をつまらなそうに見ている皇帝を見上げて、挑発するように笑う。

「じゃあ、今あるカップを俺が全部飲んでも問題はないよな。一人一杯なんて言わなかったんだから」

 そう言い放つと、部屋の中がざわついた。
 俺はそれに構わずにカップの中身をあおる。あまり上を向きすぎるとメルがバランスを崩すかもしれないので、空いている手でターバンを軽く押さえた。

 確かに、お茶は冷めていてまずい。

 一気に飲み込んでカップを置き、制止される前にその隣のカップを手に取ってそれもあおった。

 意表を突かれた顔をした皇帝は、俺が迷いなく次々にカップの茶を飲み込んでいくのを見て、しばらくすると口の端を歪めて笑い出した。

「面白い。いいだろう」

 そう言うと目を細めて俺を見下ろしてくる。
 俺はその青い目を睨み返しながら飲み終わった三杯目のカップを座卓に戻した。そして最後に二つ残ったカップのうち、一つを選ぶ。
 リリアンは右の方が危ないと言っていたから、素直に一番右は避けるか。
 右端のカップを残し、それよりも内側に置かれたカップを手に取った。
 躊躇うことなく口元に運び、それも一気にあおる。
 さすがに四杯も飲み続けると若干気持ち悪さがあるが、仕方がない。あんなに小さな女の子達に毒入りかもしれないお茶を飲ませるなんて出来ないだろう。
 もしルシア達の浄化魔法が上手く効いていなくて運悪く毒に当たってしまったら、リリアンの解毒剤で治してもらえばいい。なんとかなる。
 
 最後の一滴まで飲み込んで、叩きつけるように座卓にカップを置いた。
 まだにやにやと俺を眺めている皇帝に冷たく一瞥いちべつをくれてから、俺はさっさと立ち上がる。
 多少の気持ち悪さはあるが、毒が回ってくるような感じはしない。毒を飲んだことはないから中毒になるとどうなるのかは謎だが、痺れたり苦しくなったりすることもない。いたって普通だ。
 ほっとしてルシア達のところに戻ると、ロレンナとリリアンが慌てて俺の近くに寄ってきた。ルシアと双子も心配そうな顔で俺の方に身体を向けている。

「レイ様、大丈夫ですか。ご気分は」
「大丈夫です。なんともない。二人のおかげでちゃんと毒は浄化されてたんじゃないかな」
「私の解毒剤、必要であればすぐに溶かします」
「ありがとう。本当に大丈夫だよ」

 口々に言ってくる二人を安心させるために笑いかけて元の場所に座った。

「とにかくこの試験を終わらせよう。あとは皇帝陛下が残ったカップを飲めば終わりなんですよね」

 そう言うと、ロレンナは俺が本当に何の症状も訴えないことを確認すると、ひとまず自分の場所に戻っていった。
 前を見ると、アシュラフ皇帝は最後に残ったティーカップを持ち上げていた。
 その中をのぞいた彼は「ふむ」と呟いてから軽く笑う。座卓の隅に置かれていた小さなガラスの鉢に、皇帝はその中身を少しだけ垂らした。
 水で満たされていた鉢の中には小さな赤い魚が泳いでいたが、カップの茶が水に混ざると少ししてから魚は突然震え始めた。そして俺達がその鉢に目が釘付けになっている目の前で、魚は水面にぷかりと浮かんで動かなくなった。

「え……?」

 死んだ?

 アシュラフ皇帝はそれを見てまた鼻で笑い、カップの上に手を翳すと多分何か魔法をかけた。
 そしてそのままそのカップに口をつけて中身を飲み干す。一息でカップを空にした彼は、それを座卓の上に戻すと長椅子にもたれかかって足を組んだ。

「もう少しで私を殺せるところだったが、残念だな」

 そう言って、邪悪な笑みを浮かべた皇帝は、唖然としている俺たちを見た。

 魚が死んだということは、最後に残ったあのカップの中には毒が入っていたということだろうか。
 でも、ルシアは全てのカップに浄化魔法をかけたはずだ。ロレンナも。
 なのに最後に残ったカップにまだ毒が残っているのはどういうことなんだ。二人の魔法が上手くいっていなかったんだろうか。だから最初からあのカップに毒が入っていて? それじゃあ結局俺はたまたま正解のカップを選んでいたということなのか?

 今更背中がぞっとするが、アシュラフ皇帝が飲もうとしたカップが毒入りだったならば、考えられることはそれしかない。

 皆まだ呆然として、ガラスの鉢の中でぴくりともせずに浮いている魚を見ている。

「これで一つ目の試験は終わりだな。全員合格とする」

 皇帝がつまらなそうにそう告げると、さっさと長椅子から立ち上がった。
 まだ状況を上手く飲み込めていない俺達を見下ろして、彼は颯爽と部屋の入り口に向かって歩き始めた。

「続けて二つ目の試験を始める。全員ついて来い。下の層に降りる」

 そう言って一人で出て行ってしまったアシュラフ皇帝を、ダーウード宰相が慌てて追って行った。
 残された俺たちはまた顔を見合わせる。

「もう次の試験をやるって言った?」
「はい。そう聞こえましたけど」

 俺の問いにルシアが答えた。
 ロレンナも驚いているが、皇帝が言った以上はその通りになるのか、彼女は立ち上がった。

「一日のうちに二つ試験を行うのはあまり例がありませんが、あり得ないことではありません。とにかく行きましょう」

 つまり、あの王様の頭の中には次に何をやるのかもう考えがあるということだよな。

 またとんでもないことを言い出すんじゃないかと嫌な予感はするが、試験を早く進めてくれる分には文句はない。
 今のロシアンルーレットの結末について話し合いたいこともあるが、俺は仕方なくルシアと立ち上がり、リリアンと双子もロレンナについて行った。侍女達も当然ながら俺たちに追従して来る。
 正殿から出ると、後ろからマスルールも追いついてきて、横を歩きながらさり気なく俺の顔色をうかがってきた。

「気分は大丈夫ですか」

 多分俺が全てのカップを飲むという強行手段をとったから体調の心配をしているんだろう。

「大丈夫です。一度にたくさん飲みすぎてちょっと気持ち悪いですけど」
「少しでも手足が痺れるようなことがあれば、すぐに言ってください」

 眉間に皺を寄せて俺の顔を見てくるマスルールに薄く笑った。
 皇帝を止めない割に、心配だけはしてくるのか、と少し腹が立った。

「問題ないですよ」
「あなたに何かあれば責任を感じます。下にいる方も黙っていないでしょう」

 それはそうだな。
 地上にはグウェンがいる。俺に傷の一つでも付こうものならあいつは相手が誰でも許さないだろう。
 今グウェンは下で何をしているんだろうか。
 俺がロシアンルーレットやってるなんてまだ気付かなくていいから、会いに行くまではウィル達と大人しくしてくれてるといいんだが。

 試験が終わったらグウェンに会いに行ってもいいか聞こうと口を開きかけた時、鐘の音が辺りに響いた。
 地上にいてあれだけの音が聞こえるからイラムではかなり大きな音が響くかと思いきや、そこまでけたたましくはなく、からんからんと澄んだ音を響かせる鐘の音は地上で聞いた時のように幾重にも重なった音の束が空から響いているように綺麗だった。

 全員が鈴園にいるから強制転移がかかることもなく、急いで広場に向かうと皇帝と宰相が俺たちを待っていた。
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