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第二部

第二部 プロローグ

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「こんなところで何をしてるんだい」

 庭で泣いていたら、その人が声をかけてきた。
 俺はしゃがんでいた花壇の陰から、膝に手をついてこちらを見ている榛色の瞳を見上げた。

 小さな頃、兄のようになれないのが悔しかった。
 勉強も運動も良くできて、幼いのに人付き合いも上手く世渡り上手な兄に、俺は到底敵わなかった。
 兄が俺の歳で出来ていたことが、俺には出来ない。それがたまらなく悔しくて、恥ずかしかった。
 家族や使用人達は皆気にするなと言って優しくしてくれたけど、心の中では皆俺に呆れてため息をついていると思っていた。
 家を訪れる親戚も、客人も、俺を見て「まあ次男だから」と薄い笑顔でそれでも良いと言う。
 出来ないなら出来るまで頑張ればいいと頭ではわかってはいたけど、それが出来るほどその時の俺は忍耐強くもなく、何時間も運動を続けられるような体力もなかった。

 人に泣いているところを見られるのは嫌で、俺はいつも庭の隅にある花壇の陰に隠れてこっそり泣いていた。
 そうしたら、ある日父親よりも少し年配の男性が、俺を見つけて驚いたような顔でそう言ったのだ。

 その人の顔を見上げたまま、俺は黙っていた。
 彼も俺を見下ろして、しばらく黙って俺のことを観察していた。
 やがてふと笑みを浮かべたその人は、俺の前にしゃがんで俺の顔をのぞきこんだ。

「兄がいるっていうのは、いいものだよ」

 出し抜けにそう言った彼に俺は少し驚いて、それでも心の中の苛立ちは収まらず下を向いた。

「僕は、バカじゃない」
「……そうだ。君は馬鹿じゃない」

 俺が呟くように言った言葉を聞いて、その人は穏やかな声音で返した。

「君は、偉大な魔法士になるだろう。きっと、私よりもずっと素晴らしい」

 それを聞いて俺はその人をもう一度見上げた。
 目元と口の端に月日を重ねた柔らかな皺が寄り、俺を見る榛色の瞳はくすんだ黄色の上に微かに茶色がかかっていて、温かな色をしていると思った。
 そんなふうに俺に声をかけてくれたのは、その人が初めてだった。

「もっと力を抜いてもいいんだ。お兄さんのことは周りのうるさい大人達の注意を引いてくれる風避けだと思って、君はもっと自由に、レイ君」

 名前を呼ばれて、俺は目を見開いた。

 その人は偶に来る父親の友人で、先輩で、仕事の相談相手だと知っていた。でも俺の名前まで知っていてくれたとは思っていなかった。
 力を抜いてもいいと言われて、その時は兄へのコンプレックスを拗らせすぎていたからその言葉にとても直ぐには頷けなかったけれど、でも兄と比べずにちゃんと俺を見て話してくれたことが嬉しかった。
 しゃがんで目線を俺と合わせたまま、彼は微笑んだ。

「君の話が聞きたいな。今度からはもっと色々話をしよう。私はね、君の家の花壇が好きなんだ。花の色が暖かくて鮮やかで、大事にされていることがよく良くわかるよ。だからレイ君。きっと君も同じように、大人になったら綺麗な花になる」

 榛色の、あたたかな光を湛えた瞳が明るい日差しを受けて輝いていた。

 俺は黙ってその穏やかな陽だまりのような瞳を見上げた。その眼を見ていると、自分の心の中も次第に暖かく照らされるような気がした。

 その人は少し考えてから、俺に顔を寄せて内緒話をするように片手を口元に添えた。

「本当はね、君の家の花壇が見たくてエリス公爵に会いに来ているようなものなんだ。内緒だけどね」

 悪戯っぽく笑った父の友人は、「君は花火って知ってる?」と俺に聞いた。
 俺は突然の質問に少し驚いて、瞬きした後小さく頷いた。

「知ってる。見たことある」
「そうか。私はね、花火も好きだけど、もう少し長く楽しめて、夜に空を彩る美しい花が作れないかなあとずっと思っているんだ。もしレイ君に興味があったら、いつか私と一緒に作ろう」

 そう言って柔らかく微笑んだその人の言葉に嘘はないと思った。一緒にやろうと言ってくれた気持ちが嬉しかった。それが泣いている子供に言う都合の良い気休めの言葉ではなかったと、それからもずっと信じていた。

 でも例え、本当はもしそれがその場をしのぐための単なる慰めだったのだとしても、俺がその言葉に救われたのは事実だった。

 その人の優しく綻んだ顔を見上げて、俺はその時確かに頷いた。心の中にあった重石のいくつかが、彼の言葉で取り去られて軽くなった気がした。

 だから、今も俺の胸の中には言葉に出来ない想いが積み重なっていく。覚えているのは苦しくて、もう手放してしまいたいと思っても、記憶の中のその人の笑みがそれを拒む。
 花壇の陰に隠れていた俺を見つけてくれた人。
 家族以外で一番最初に、俺が素晴らしい魔法士になると言ってくれた人。

 ディラン・バレンダール公爵。

 もう二度と会えないかもしれない、俺に罪を着せようとした、俺の幼い心を救った恩人。

 もう、忘れてしまおう。

 何度もそう思うのに、俺はあの花壇で公爵に出会った日のことをまだはっきりと覚えている。

 だからいつまでも、あの人のことを忘れることが出来ない。
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