14 / 57
始まりの日
俺と嫁3
しおりを挟む 裏の井戸へと瓶を手にやって来て、ぐるるる……と弱り気味に喉を鳴らし、耳を寝かせた挙げ句に溜息を吐いた。背を丸め冷たい水を汲み取り、柄杓で一杯飲み干す。
「冷えてきたな」
肌に感じる温度や空気の乾き、森に生きる生き物の鳴き声からして、もうすっかり夜であると知った。瓶を水で満たし庵へと戻ると、篤実は十兵衛の姿を認めて彼を呼んだ。
「十兵衛」
「飯は、口に合いましたか、若君」
「ちと、塩が強かった」
「この辺の味噌は、都に比べるとそうかもしれねえ。次は薄く……」
「いや、そんなことはしなくてよい、十兵衛」
篤実は碗を手に立ち上がった。つられて十兵衛が顔を上げると微かに笑むような吐息が聞こえた。
「これが其方の味なのだな。此の儘で良い。して……何処に下げれば良い」
「いや、若! 儂が片付けます、どうかごゆるりと」
十兵衛は水瓶を足元に置き、篤実の気配のする方へ手探りで進む。その手を篤実が取り、空になった碗を握らせた。
「では、余は先に休む。十兵衛、寒いのは余は好まぬ故」
「はい、湯湯婆を……」
「いや」
するり……と十兵衛の着物の上から、冷えた薄い掌が撫でた。そうして、肘の辺りが摘ままれる。
「余に添い寝せよ、十兵衛。その方が良い」
篤実の言葉に十兵衛は無い目を瞠った。
「…じゃが、若君、儂は…」
「余の命が聞けぬか?」
十兵衛の脳裏には、五年前に見た若者が首を傾げながら自分を睨め付ける様がありありと再生できた。息を詰め、眉間に皺を寄せた後渋々頷く。
「――御意、若君」
篤実の手が十兵衛の着物の袖を再びキュッと握った後、手の甲を名残惜しげに撫でて離れていく。
とさりと横に鳴る音を聞いて、十兵衛は掻き込むように夕餉を済ませた。
湯を沸かし、熱い茶を飲んだ後に布団に近付くと、篤実は大人しくしていたがその僅かな気配の違いから狸寝入りをしているのがばればれであった。なにせ十兵衛は盲になった分気配に敏いのだ。
「……失礼します」
布団をめくり、潜る。五年振りにして、初めて褥を共にする若君の背は、こうして並ぶと以前よりも伸びている。それでも頭が十兵衛の胸元に収まり、つま先はすねの辺りまでしかない。
「十兵衛」
「はい」
囁く声に十兵衛は擽ったさをおぼえて、狼の立ち耳をぴるるるっと震わせる。
「余を抱きしめよ」
ぶわぁっと毛皮が逆立った。
「さ…すがに、そんな無礼はできねぇ、若君」
「……よい。余とそなたしかおらぬ」
布団の中で十兵衛よりも細い身体が擦り寄せられる。己と違い毛皮の無いつるりとした肌。濃縮されたひとのにおい。
あの戦場で庇い、抱き締めた若君のにおい。ずっと嗅いでいたい、生き物の本能に絡み付くにおいがする。
「余は――におう、か? 十兵衛」
その台詞に、この人は己の心を見抜く目を持っているのだと、十兵衛はかえって恥ずかしくなった。
「あ、明日、湯を沸かしましょう。それか風呂を借りに」
「……そうか」
獣の匂いをまとわりつかせた若君が腕の中に身を落ち着けて、十兵衛は尚のこと眉間の皺を深くした。あまりにもその匂いが濃くて、近い。横を向いた十兵衛は後ろ向きであるらしい若君の身体に腕を回し、意識を静かに眠らせていった。
「冷えてきたな」
肌に感じる温度や空気の乾き、森に生きる生き物の鳴き声からして、もうすっかり夜であると知った。瓶を水で満たし庵へと戻ると、篤実は十兵衛の姿を認めて彼を呼んだ。
「十兵衛」
「飯は、口に合いましたか、若君」
「ちと、塩が強かった」
「この辺の味噌は、都に比べるとそうかもしれねえ。次は薄く……」
「いや、そんなことはしなくてよい、十兵衛」
篤実は碗を手に立ち上がった。つられて十兵衛が顔を上げると微かに笑むような吐息が聞こえた。
「これが其方の味なのだな。此の儘で良い。して……何処に下げれば良い」
「いや、若! 儂が片付けます、どうかごゆるりと」
十兵衛は水瓶を足元に置き、篤実の気配のする方へ手探りで進む。その手を篤実が取り、空になった碗を握らせた。
「では、余は先に休む。十兵衛、寒いのは余は好まぬ故」
「はい、湯湯婆を……」
「いや」
するり……と十兵衛の着物の上から、冷えた薄い掌が撫でた。そうして、肘の辺りが摘ままれる。
「余に添い寝せよ、十兵衛。その方が良い」
篤実の言葉に十兵衛は無い目を瞠った。
「…じゃが、若君、儂は…」
「余の命が聞けぬか?」
十兵衛の脳裏には、五年前に見た若者が首を傾げながら自分を睨め付ける様がありありと再生できた。息を詰め、眉間に皺を寄せた後渋々頷く。
「――御意、若君」
篤実の手が十兵衛の着物の袖を再びキュッと握った後、手の甲を名残惜しげに撫でて離れていく。
とさりと横に鳴る音を聞いて、十兵衛は掻き込むように夕餉を済ませた。
湯を沸かし、熱い茶を飲んだ後に布団に近付くと、篤実は大人しくしていたがその僅かな気配の違いから狸寝入りをしているのがばればれであった。なにせ十兵衛は盲になった分気配に敏いのだ。
「……失礼します」
布団をめくり、潜る。五年振りにして、初めて褥を共にする若君の背は、こうして並ぶと以前よりも伸びている。それでも頭が十兵衛の胸元に収まり、つま先はすねの辺りまでしかない。
「十兵衛」
「はい」
囁く声に十兵衛は擽ったさをおぼえて、狼の立ち耳をぴるるるっと震わせる。
「余を抱きしめよ」
ぶわぁっと毛皮が逆立った。
「さ…すがに、そんな無礼はできねぇ、若君」
「……よい。余とそなたしかおらぬ」
布団の中で十兵衛よりも細い身体が擦り寄せられる。己と違い毛皮の無いつるりとした肌。濃縮されたひとのにおい。
あの戦場で庇い、抱き締めた若君のにおい。ずっと嗅いでいたい、生き物の本能に絡み付くにおいがする。
「余は――におう、か? 十兵衛」
その台詞に、この人は己の心を見抜く目を持っているのだと、十兵衛はかえって恥ずかしくなった。
「あ、明日、湯を沸かしましょう。それか風呂を借りに」
「……そうか」
獣の匂いをまとわりつかせた若君が腕の中に身を落ち着けて、十兵衛は尚のこと眉間の皺を深くした。あまりにもその匂いが濃くて、近い。横を向いた十兵衛は後ろ向きであるらしい若君の身体に腕を回し、意識を静かに眠らせていった。
10
お気に入りに追加
107
あなたにおすすめの小説
【完結】伴侶がいるので、溺愛ご遠慮いたします
*
BL
3歳のノィユが、カビの生えてないご飯を求めて結ばれることになったのは、北の最果ての領主のおじいちゃん……え、おじいちゃん……!?
しあわせの絶頂にいるのを知らない王子たちが吃驚して憐れんで溺愛してくれそうなのですが、結構です!
めちゃくちゃかっこよくて可愛い伴侶がいますので!
本編完結しました!
リクエストの更新が終わったら、舞踏会編をはじめる予定ですー!

異世界に転生したので幸せに暮らします、多分
かのこkanoko
ファンタジー
物心ついたら、異世界に転生していた事を思い出した。
前世の分も幸せに暮らします!
平成30年3月26日完結しました。
番外編、書くかもです。
5月9日、番外編追加しました。
小説家になろう様でも公開してます。
エブリスタ様でも公開してます。

溺愛最強 ~気づいたらゲームの世界に生息していましたが、悪役令嬢でもなければ断罪もされないので、とにかく楽しむことにしました~
夏笆(なつは)
恋愛
「おねえしゃま。こえ、すっごくおいしいでし!」
弟のその言葉は、晴天の霹靂。
アギルレ公爵家の長女であるレオカディアは、その瞬間、今自分が生きる世界が前世で楽しんだゲーム「エトワールの称号」であることを知った。
しかし、自分は王子エルミニオの婚約者ではあるものの、このゲームには悪役令嬢という役柄は存在せず、断罪も無いので、攻略対象とはなるべく接触せず、穏便に生きて行けば大丈夫と、生きることを楽しむことに決める。
醤油が欲しい、うにが食べたい。
レオカディアが何か「おねだり」するたびに、アギルレ領は、周りの領をも巻き込んで豊かになっていく。
既にゲームとは違う展開になっている人間関係、その学院で、ゲームのヒロインは前世の記憶通りに攻略を開始するのだが・・・・・?
小説家になろうにも掲載しています。
婚約破棄されて辺境へ追放されました。でもステータスがほぼMAXだったので平気です!スローライフを楽しむぞっ♪
naturalsoft
恋愛
シオン・スカーレット公爵令嬢は転生者であった。夢だった剣と魔法の世界に転生し、剣の鍛錬と魔法の鍛錬と勉強をずっとしており、攻略者の好感度を上げなかったため、婚約破棄されました。
「あれ?ここって乙女ゲーの世界だったの?」
まっ、いいかっ!
持ち前の能天気さとポジティブ思考で、辺境へ追放されても元気に頑張って生きてます!

侯爵家の愛されない娘でしたが、前世の記憶を思い出したらお父様がバリ好みのイケメン過ぎて毎日が楽しくなりました
下菊みこと
ファンタジー
前世の記憶を思い出したらなにもかも上手くいったお話。
ご都合主義のSS。
お父様、キャラチェンジが激しくないですか。
小説家になろう様でも投稿しています。
突然ですが長編化します!ごめんなさい!ぜひ見てください!

積みかけアラフォーOL、公爵令嬢に転生したのでやりたいことをやって好きに生きる!
ぽらいと
ファンタジー
アラフォー、バツ2派遣OLが公爵令嬢に転生したので、やりたいことを好きなようにやって過ごす、というほのぼの系の話。
悪役等は一切出てこない、優しい世界のお話です。

【完結】元婚約者であって家族ではありません。もう赤の他人なんですよ?
つくも茄子
ファンタジー
私、ヘスティア・スタンリー公爵令嬢は今日長年の婚約者であったヴィラン・ヤルコポル伯爵子息と婚約解消をいたしました。理由?相手の不貞行為です。婿入りの分際で愛人を連れ込もうとしたのですから当然です。幼馴染で家族同然だった相手に裏切られてショックだというのに相手は斜め上の思考回路。は!?自分が次期公爵?何の冗談です?家から出て行かない?ここは私の家です!貴男はもう赤の他人なんです!
文句があるなら法廷で決着をつけようではありませんか!
結果は当然、公爵家の圧勝。ヤルコポル伯爵家は御家断絶で一家離散。主犯のヴィランは怪しい研究施設でモルモットとしいて短い生涯を終える……はずでした。なのに何故か薬の副作用で強靭化してしまった。化け物のような『力』を手にしたヴィランは王都を襲い私達一家もそのまま儚く……にはならなかった。
目を覚ましたら幼い自分の姿が……。
何故か十二歳に巻き戻っていたのです。
最悪な未来を回避するためにヴィランとの婚約解消を!と拳を握りしめるものの婚約は継続。仕方なくヴィランの再教育を伯爵家に依頼する事に。
そこから新たな事実が出てくるのですが……本当に婚約は解消できるのでしょうか?
他サイトにも公開中。

公爵家三男に転生しましたが・・・
キルア犬
ファンタジー
前世は27歳の社会人でそこそこ恋愛なども経験済みの水嶋海が主人公ですが…
色々と本当に色々とありまして・・・
転生しました。
前世は女性でしたが異世界では男!
記憶持ち葛藤をご覧下さい。
作者は初投稿で理系人間ですので誤字脱字には寛容頂きたいとお願いします。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる