1 / 11
○最初の仕合
しおりを挟む
疾風の如く駆け抜ける小童あり。ただ、小童とするには背が高く、野伏せりの集団に居たとしても、違和感がないだろう。彼を小童とする所以は、幼い顔にあった。前髪を下ろし、腕白な目がキラキラしている。褌一つに破れた単を羽織り、柴を背負っていた。裾が風を受け、野山を走って鍛えた体躯が見えていた。裸足のまま走る姿は、まるで狼のようで、敏捷で獰猛な小童だった。
「弁助ちゃん、何を慌てて走っとるん?」
弁助の後に続くのは、やはり同じ歳くらいの小童で、弁助と同じように山で柴を集めて背負っている。色白で細身の彼は、息が上がっていた。
「おう、又やん、庄屋ん家に武芸者が泊まってっから見に行くんじゃ。それより、もう息があがっとんのか? そんなこっちゃ、戦さ場で先駆けできんぞ!」
弁助の追走者は、息を切らしながらも応える。
「先駆けって、馬に乗れる身分にならにゃよう言わんぞ。おいたちは雑兵じゃ」
「又やんは夢がないのう」
弁助に応える声は無かった。又やんこと又八は、とうに倒れ込んでいた。
弁助は、柔な友人を置き去りにして山を駆け下りる。
三方を山に囲まれた窪地に町が存在した。川沿いに田畑が広がり集落を取り囲んでいる。そこは、播磨ノ国北部の村だった。
弁助は、畔道をひた走り、立派な橋を渡り、白い土塀と生活用水路を横目に見ながら茅葺きの大きな屋敷へ来た。水で野菜を洗う女に声を掛ける。
「お通は居っか?」
女は、ちょっとばかり顔を上げ、相手を確認した。髪を結い上げた女は、胸元を緩く合わせているので、白い谷間が見えていた。赤い半衿からも、色香が漂う。彼女は朱美と言い、屋敷の使用人だった。
「居るよ。弁助、旦那様に見つからねぇようになぁ」
「おお、ありがとよ」
弁助が訪ねたのは、この地方の大庄屋の家で、農家とは言え地域の権力者でもあった。時は戦国時代が終わり、安土桃山時代に入っていたが、それは後の世の区分であって、まだまだ戦国の不安定な時世が残っている。庄屋は、領主への上納、百姓の取り纏めや差配、更には治安維持すら任される立場にある。この当時の農民は、戦に駆り出される事が多く、武器を所持している者も多かった。太閤秀吉殿下の刀狩りでかなりの農民が武装解除させられたが、この所の不穏な情勢を受け、農民兵の需要も高まっていた上、朝鮮出兵で領主が異国に出払い、治安の悪化もあった。
弁助は屋敷の裏手に回ると、裏門から入る。鶏を追い飛ばし、台所の土間に柴を置いた。
「お~い、弁助さまが柴を取って来てやったぞ。茶菓子でも出しやがれ」
戯けて声を掛けると、奥から返事があった。
「はいぃぃ、梅干しでもしんぜよう」
芝居がかった鈴の様な声が響く。登場したのは、オカッパ頭の童だった。切り揃えた前髪の下で愛嬌のある瞳が輝く。口角が上がった所は見る者を笑顔にさせる愛玩人形の様だった。
「お通、うるせぇのは留守か?」
「おお、有馬喜兵衛と一緒に神社へ行ってる。客人の武芸者じゃ」
お通は、弁助に竹の子の皮を三角に折った物を渡す。
「おいは武芸者を見に来たんじゃ。神社へ行くっぞ」
弁助とお通は、連れ立って屋敷を出た。
二人で竹の子の皮を啜りながら歩く。中には梅干しが仕込まれていて、酸っぱいおやつになっていた。
「又八はどうしたんじゃ?」
お通が、急に思い出したように尋ねた。
「遅いから置いて来た」
お通は、弁助を意味ありげに見つめ、意見を述べた。
「弁助はいけずじゃのう」
お通の言葉を、弁助は理解できない。
お通の父、庄屋の善右衛門は、八幡神社を借り受け、有馬喜兵衛を招いて農民に武芸の手ほどきをさせていた。当時は村ごとの自警も重要で、格闘の鍛錬をする事も多かった。旅の武芸者の生業は、こうした方法で成り立っている。
二人が神社に着くと、境内は大層な人手で、祭りのようだった。有馬喜兵衛への関心の高さもあるのだろう。
弁助は、まずハッタリが鼻についた。三尺の杉板に「日ノ本一の兵法家、天下無双の兵法術者、新当流 有馬喜兵衛」と書かれて立て掛けてある。
弁助の父、新免無二は武芸者で、足利義昭より「日下無双兵法術者」の号を賜っていた。無双とは並び立たない事を意味する。何人も居ては可笑しい筈だが、当時は全国に無双は何人も存在した。
弁助は、今度は有馬喜兵衛本人に目を向ける。
喜兵衛は、神社の本堂を背にして立って居た。両側の狛犬が、彼を讃美する様に控えている。田舎の兵法家は、金色の陣羽織を羽織り、朱の着物に白い袴を穿いていたので、蝋燭みたいに目立つ。草履の鼻緒も白で、お洒落ではあった。ただ、顔はお洒落とは程遠い。鼻は大胡座をかき、目はギョロリとしている。八の字髭の下に有る口は完全にへの字だった。まぁ、兵法家らしくはある。
喜兵衛の前には、村人が木刀を持って対峙している。その数は三十人ほどだった。その中には、お通の父の善右衛門も居た。一回の教授人数が決まっているのだろう。
さて、肝心の教授だが、喜兵衛が「えい」と声を掛けると、村人も「えい」と応じて木刀を振る。これの繰り返しだった。弁助はちょっとバカらしく感じていた。そんな時、尻に蹴りが飛んで来た。隣のお通が生っ白い足を飛ばして来たのだ。当然、弁助は抗議する。
「なにするんじゃ」
お通は澄まして応えた。
「弁助が喜兵衛を睨んでおるからじゃ。あんな大男に餓鬼が勝てる訳なかろう?」
ケロケロと笑うお通を、弁助は飽きれて見ていた。
「おいがあんなでかい奴に挑む訳がなかろう」
そう、弁助も小童の割に大きいが、有馬喜兵衛はそれを上回っている。しかも、諸国を武者修行しているのだ。弁助に勝ち目はないだろう。
新免無二
有馬喜兵衛見学を終えた弁助は、お通と別れ、一人歩きながら考えていた。同じ武芸者として、父の無二と喜兵衛では全く違う。喜兵衛も無二も恐い顔をしているが、喜兵衛は世渡り上手に見えた。まず、衣装が違う。喜兵衛は色鮮やかな派手な衣装を着て、世間の注目を浴びるが、無二は鼠みたいな色の麻織物と革袴を好み、着替えるのも嫌いだった。風呂に入るのも億劫がる。目立つ事も嫌がるから、当然、派手な宣伝用の看板など立てないだろう。とても剣術指南で食える男ではない。ただ、無二は手先が器用で論理的思考ができた。それは、弁助にも受け継がれている。剣術指南が駄目なら何で食べているのかと言うと、無二の主な生業は粉挽きだった。彼は、一人で水車小屋を完成させ、商人や農民から使用料を取って銭を稼いでいた。無二の自作水車小屋は、故障もせずに効率が良いと評判で、親子二人で暮らすのに充分な稼ぎを提供してくれた。
弁助が喜兵衛と無二を比較しながら歩いていると、川沿いに一軒家が見えてきた。茅葺き屋根の家は、水車小屋の隣にある。
弁助が中庭に入ると、無二は縁側で楊枝を作っていた。夕暮れ時、武芸者崩れの影が長く伸びる。それは、地味な格好と相まって、酷く寂しい者に見えた。
「親父、いま帰ったぞ」
弁助は、取り敢えず挨拶をしてみる。
「そうか、有馬喜兵衛はどうだった?」
無二の言葉に弁助が驚いていると、無二は口の端を歪めて応える。
「お前の行動など容易く読めずに兵法家と言えるか? 驚くでない。愚か者の小童め」
弁助は、無二の言葉に腹を立てたが、どうにも反論しようがない。忌々しく思い、つい悪口になる。
「有馬喜兵衛は立派な兵法家じゃ。縁側で楊枝を削る暇人とは違うんじゃ!」
無二は弁助の言葉を聞くと、目をカッと見開いた。
「何だと!」
無二は、息子に向かって楊枝を削っていた小刀を投げた。弁助は、片足を上げ、犬が小便をするような格好で避けた。
「親父の兵法は小童にも当たらぬか? ちんちんちろちろ生兵法」
無二は真っ赤になって怒り、木刀を持って中庭へ降りる。裸足のままだった。
弁助は臆する事なく待ち受け、無二を睨んでいた。
無二は、我が子に小刀を投げつける様な男だが、木刀を振り下ろす事は無かった。いや、彼女の制止が無ければ、もしかするとやっていたかも知れない。縁側から、親子に呼びかける声があったのだ。
「親子でやっとうの稽古ですか? よろしいですね」
縁側には、庄屋の家で下働きをしていた朱美の姿があった。朱美は、この家に間借りしている。本人が四六時中束縛されるのを嫌い、庄屋の家には通いで務めていた。
朱美は、親子の修羅場を目にしても微笑んでいる。そんな所は肝が座って居る。彼女が何処から来て何者なのか、誰も知らない。無二は素性に無頓着なので、何も聴かずに間借りさせていた。借料は家事との交換で無料にしている。女手のない新免家では、貴重な存在だった。もっとも、村では無二と朱美を夫婦として見ている。二人にもその方が都合が良かった。
「さぁ、ご飯にしますよ。無二さんも弁助も機嫌を直して食べましょう。不機嫌だと上手にこなれません。武芸者は体が大事でしょ」
囲炉裏を囲んで三人が座る。囲炉裏の火が鍋を温め、煤が天井に上がる。上がった煤は茅葺きの素材であるススキやヨシの中に潜む虫や動物を避けさせ、更に屋根を支える梁をコーティングし、建材を強くする。また、煙が外に出るように通気性もよく作られている。家が、人と一緒に生きている。それが風土に根差した家屋なのであろう。
さて、新免家の食事だが、今晩は玄米と雑穀と野菜を煮込んだ鉄鍋が囲炉裏の火の上に下がっていた。玄米は白米より栄養素が豊富で、これだけで活力を得られた。時は、天下を太閤殿下が治めていたが、太平が続いた江戸時代と違ってこの頃は、まだ農民も力を持っていた。兵士として駆り出される事もあるので、領主も気を使う部分があった。雑穀ばかりでは不満も募ろう。
弁助は、玄米をガツガツと噛み砕きながら考えていた。それは、同居人の朱美の事だった。
彼女は、淡い黄色の小袖に赤い半衿をしている。目鼻立ちは麗しく、唇は厚ぼったい。白い肌はしっとりしていて、搗き立ての餅のようだった。以前に弁助は、阿国かぶきの一座を観た事が有った。まぁ、本物を真似た亜流の一座だろうが、神社に舞台を立て、舞を披露した。踊り手の巫女はまるで天女の様な女たちで、官能的でもあり、多くの男は勿論、女も魅了された。皆、農作業とは縁のない異次元的な美しさを感じたのだろう。朱美は、その時の巫女を連想させる女だった。弁助の疑問は、それほど色っぽい朱美に対する父の態度だった。無二は朱美の色香に興味を示さない。弁助などは、機会があれば見つめている。ここで、一つの疑惑が湧く。それは、無二が男色家なのではないか? と言う事だった。勿論、弁助が生まれた以上、最初は女好きなのだろうが、変わってしまったのかも知れない。そう考えると、優男の又八を見る目が怪しい。「又やんの穴はおいが守らにゃならんな」弁助がそう思った時、勝手口を叩く音がした。
「ごめんください」
声から判断して、訪問者は又八だった。弁助は箸と木製の茶碗を置き、対応に出る。
土間に降り、勝手口を開けると、又八が青い顔で立っていた。まぁ、もう夕暮れ時なので、はっきり青とは判断できないが、又八の表情からそう感じていた。
「又やん、どうした」
又八は内々で話があるのか、弁助の手を握って外に連れ出そうとする。弁助は、男とは思えないふっくらとした手で引っ張られ、庭に出た。湿った感触にゾクゾクする。
「どうした又やん、誰かに虐められたんか?」
弁助が笑って聞くと、又八はムキになって反論する。
「違うわい、弁助ちゃんが心配なんじゃ!」
「なして心配なんじゃ?」
弁助は心当たりがないので、呑気に訊ねる。ところが、又八の方は深刻なようで、深いため息をついた。
「お通から話は聴いたぞ。有馬喜兵衛を睨んでいたそうじゃな。弁助ちゃんはなして危ない事が好きなんじゃ。勝てる相手ではないじゃろ! 前に熊に喰われかけたのを忘れたか?」
又八は、真剣な顔で怒っている。弁助を心配しすぎて声が裏返った。足も小刻みに震えている。
又八の言う熊の話は、山で柴刈りをした時に大きな熊の足跡を見つけ、弁助が追跡しようと提案した。又八は止めたが、弁助は言う事を聞かない。仕方なく一緒に行くと、案の定、足跡が新しくなって行く。弁助は、又八が怖気づくのも構わず、どんどん先へ進む。そして、草むらから黒い塊が飛び出した。
「熊に待ち伏せされとる」
弁助が、緊張感のない声で呟いた。勿論、熊が怖くない訳ではないだろう。彼の神経は常人では測れない所を通っているのだ。
一方、又八は、腰を抜かしてしまった。弁助は、友のために引く訳には行かなかった。帯に挿した木刀を抜くと、上段に構える。足を肩幅に開き、地固めをした。
「いやぁい!」
空を突き抜ける気合いが森を駆け抜ける。熊に闘気をぶつける。すると、熊は弁助の姿に恐怖を感じたのか? 逃げ去った。
又八は、その時の恐怖が甦ったのか泣き顔になる。弁助は、又八に泣かれると弱い。しかも、彼は弁助の厚い胸に顔を付けて泣くのだ。これは、女に泣かれる以上に困ってしまう。
弁助は、又八を胸で泣かせながら悪戯を思い付いた。
「又やん、おいは有馬喜兵衛を許せんのじゃ! 親父と同じ、日の下無双を堂々と高札に掲げている。親父は足利様のお墨付きじゃぞ。おいは悔しゅうて悔しゅうて堪らんのじゃ! この気持ち、解ってくれるか?」
又八は顔を上げると弁助を見つめた。唇が近い。
「弁助ちゃんの気持ちは判るよ。だけど、おいのために堪えてな。お願いだから堪えてな」
弁助は、又八の必死な様子に笑いを堪えるのが大変だった。
「よし、おいは又やんのために堪えよう。ならば、又やんはおいのために何をしてくれるんじゃ?」
又八は黙ってしまう。これは予想外の展開だった。弁助としては、何か美味しい物でもご馳走してくれるのを期待していた。なのに、又八は沈黙している。そして、幽霊みたいに儚く来た道を帰る。
弁助は、又八の後ろ姿を見送りながら、釈然としない気持ちを抱えていた。
次の日、新免家では何時もの日常が始まる。つまり、朱美は庄屋の家へ奉公に行き、無二は縁側で楊枝を作り、弁助は中庭で木刀を振るう。
一応、無二は兵法家だが、弟子はおらず、弁助との稽古もほとんどしない。弁助はと言うと、木立打ちに励んでいた。木刀で柿の木を打ち据える。左右に切り返して打ち込んでいた。
「りゃぁ、りゃぁ、りゃぁ」
木刀の打撃音と掛け声が共鳴する。一呼吸に何回打ち込めるかを競う。柿の木には災難だが、日に日に速さも力も上がっていた。剣術は、結局の所、太刀行きの速さで決まる。相手より先に切っ先を当てれば勝てる物理現象だった。ただ、人間は機械のように物理の法則では動けない。迷いや恐怖が付き纏う。自信も必要だろう。そこで、見切りと言う概念が重要になる。例えば、目を瞑って片足立ちなら大抵の人が出来るが、その場所が凄く高い場所ならどうだろう? 行為自体は同じだが、落ちたら死ぬと言う恐怖心が、心と体を不自由にする。真剣での斬り合いの場合も同じで、恐怖心を克服するには生半可な覚悟では出来ない。
さて、弁助が一心不乱に木立打ちをしていると、視界に目立つ集団が入った。それは、白い袴に赤い小袖と金の陣羽織と言ったド派手な衣装の大男を先頭にした集団で、中には庄屋の善右衛門も居た。全部で十五人ほどになる。弁助が集団を見つめていると、無二もその存在に気が付いたが、ちらりと確認しただけで楊枝作りに戻った。
蝋燭みたいに目立つ男、有馬喜兵衛が橋を渡り、水車小屋の脇を通り、新免家へ入って来た。庭に弁助と無二を確認すると、近づいて来る。
喜兵衛は、無二に五歩まで近づき、品定めをする様に眺めていた。顔は自信に溢れ、尊大な態度と言っていい。刀の柄に手を掛け、声を上げた。
「日下無双の兵法術者、新免無二殿とお見受けいたす。拙者は新当流、有馬喜兵衛と申す。貴殿の御子息について話したき議がござる」
喜兵衛は、妙に改まった武家言葉で口上を述べた。大抵の場合、素性が不確かな者ほどそれらしい言葉遣いを好む。有馬喜兵衛の出自は兎も角、兵法家としての気負いは感じられた。
「伺おう」
無二は、喜兵衛の顔を見ようともせず、楊枝を作りながら応えた。喜兵衛は、かなり憮然としていたが、話を続ける。
「拙者、八幡神社に高札を上げ、新当流を習いたい者に広く知らしめております。ところが、昨夜、何者かによって高札に落書きがされ、当流派が侮辱を受け申した」
「それで?」
「落書きの主は字の様子から童のようで、善右衛門どのに心当たりを尋ねた所、こんな大それた事をするのは新免弁助しかいないと申されて、問い正しに参った」
喜兵衛の口上を聴いた無二は、暫く黙っていた。それは、考えているようにも、相手を馬鹿にしているようにも見えた。そして、無二は弁助に事を糾す。
「今の話は誠か?!」
弁助は、話を突然振られて背筋が伸びた。褌がきゅっと締まる。
弁助には、全く身に覚えのない話だった。夜中にこっそり抜け出し、有馬喜兵衛が立てた高札に落書きをするなんて、夢遊病だとしても不可能な事だった。当然、嫌疑を否定しようとしたが、昨晩の又八の後ろ姿が目に浮かんだ。今から考えると、あれは勇気を振り絞ろうとしていたのかも知れない。弁助はそう思いつくと、返答に困った。自分が否定すれば、又八を売る事になる気がしたからだ。それに、又八は自分を思って行動した。それを分かっていたから、なおさら心苦しい。
「そうじゃ、おいがやったんじゃ!」
弁助は、思い切って宣言する。後は出たとこ勝負と覚悟を決めた。
一方、弁助の発言に喜兵衛は顔を綻ばせる。してやったりと言った感じだった。喜兵衛の思惑としては、これを理由に無二との仕合に持ち込みたかった。無二は、室町幕府将軍、足利義昭の剣術指南役、吉岡憲法と立ち合い、三度の勝負を二度も制した剛の者だった。無二を破れば、喜兵衛にも箔がつく。弁助を利用できるのは願ったり叶ったりだった。
「無二殿、ご子息の始末をどうつけるおつもりか? この際、貴殿と拙者で雌雄を決しようではないか?」
喜兵衛の提案は、無二に却下された。
「知らんがな」
「しっ知らんがなぁ!」
喜兵衛は盛大に口を開け、無二の言葉を復唱する。馬鹿にされたと思ったのだろう。顔が真っ赤になっていた。
「拙者を愚弄するつもりか? 無二、返答しだいでは只では置かんぞ!」
喜兵衛は切れてしまったらしい。乱暴な口調に変わり、鼻の穴も大きくなる。
「いやいや、落書きしたのはワシではないぞ。弁助が謝るなり、仕合で公開処刑されるなりすれば良い。童とは言え、己れの行いには責めを負わせるのが新免の家風でな」
無二は澄まして答える。その薄情さは弁助のみならず、喜兵衛や善右衛門まで飽きれるほどで、鬼畜なほど無責任だった。
喜兵衛は、予想外の展開に面喰らっていたが、無二を軽蔑してもいた。彼が思うに無二は、仕合するのが怖いのだろう。子を犠牲にしても命が惜しいとは、とんだ卑怯者だと言えた。喜兵衛は相手を低く見る事によって、冷静さを取り戻し、嫌味を言った。
「かつては将軍家から『日の下無双の兵法者』と謳われた名馬も、年老いて駄馬になり申したか?」
無二は、喜兵衛の侮辱には答えず、楊枝作りに没頭した。その姿は、呆れた臆病者とも見る事ができたが、帯剣した武芸者を目の前にしている事を考えると、豪胆とも言えた。しかし、この場で無二を評価していたのは、弁助だけだろう。弁助は、体を内側から奮わせながら叫んだ。
「おんしとの仕合、受けてやる。文句があるなら口じゃなく剣で来い!」
喜兵衛は、小童に堂々と宣言されて笑い出した。
「無礼な小童だな。そんなに死にたければ仕合してやろう。落書き通りにしてやる。五日後、金倉橋のたもとに仕合場所を設けておく。午の上刻に参れ」
弁助は、口を真一文字に結び、喜兵衛を睨みつける。脳天から爪先まで、痺れるように緊張した。
喜兵衛は、余裕のある皮肉な笑顔を見せると、取り巻きたちを引き連れて帰って行った。
有馬喜兵衛が去ると、弁助の緊張の糸が切れる。盛大に溜め息をつき、その場でへたり込んだ。
無二は、弁助の弱い部分を曝け出す様子を見て笑う。一方、嘲笑われた方としては、言い返したくなる。
「親父、おいは喜兵衛と刺し違えてしぬっぞ。それでも笑うか?」
無二は、弁助の真剣な様子を見て態度を改める。たまには父親らしい所を見せようとしたのだろう。
「弁助、勇ましいな。まぁ、そう気負うな。お前が喜兵衛を見切る事が出来たら、戦えばよい。もし見切る事ができなんだら、ワシが戦う」
弁助は、無二の意外な申し出に戸惑っていた。毒気を抜かれ、呆けた顔になる。
無二は、縁側の自分の隣を叩き、弁助に座る事を促す。
「ワシは今までお前に兵法を教えて来なかった。だが、今こそ授けるぞ」
無二は、基本的に笑わない男だったが、我が子が仕合を受けるまでに成長した事が嬉しかったのだろう。笑顔を見せていた。
「仕合に勝つには、三つの知がいる。一つは、己れを知ることだ。二つ目は相手を知ることだ。三つ目は策を知ることだ。己れを知るとは、力量、技量を知る事だ。相手を知るとは、敵の力量、技量を知る事だ。己れと敵の力量、技量を比べ、優劣を冷静に判断せねば仕合には勝てんぞ」
弁助は無二の教えを理解した。つまり、客観的に判断し、行動しろと言う事だろう。
「更に、策を知らねばならぬ。それには理が要る。地の理と心の理だ。地の理とは、対決場所を知る事だ。広さ、形、凹凸、土壌の質、敵地か否か。等だな。心の理とは、己れの心持ちを整え、相手の心持ちを乱す事だ。例えば、いま喜兵衛はお前と対戦するものだと決めて掛かっている。だが、当日になってワシが出向いたらどうであろう?」
弁助は、仕合当日の様子を想像してみた。喜兵衛は、小童が相手だと余裕を持っているだろう。そこへ互角か互角以上の無二が現れたら、きっと顔面蒼白になる。しかも、対戦を断る訳にも行くまい。
「喜兵衛は腰を抜かすじゃろな」
弁助が元気よく答えると、無二は頷いた。
「まぁ、よく相手を見切る事だ。場合によっては逃げると言うのも選択すべきだし、恥でもない」
弁助は、無二の言葉に希望が持てた。彼は、先ずは喜兵衛を知る事から始める。その前に、又八に問い質す必要があった。喜兵衛の高札に落書きしたのが彼とは限らない。ちょうど又八の実家の旅籠に楊枝を納める都合も有ったので、弁助は出かけて行った。
田園風景を過ぎ、橋を渡る。川を越えると宿場町の様相を呈していて、賑やかになる。田舎と違って蔵造りの家が並んでいた。
川沿いにある一軒の家が、旅籠を営む又八の家だった。女将の杉はとても艶っぽい人で、旅籠の主人である又七が京から連れて来たらしい。又八の父である又七は、既に他界している。
弁助は川沿いの裏口へ回ると、勝手口から入る。香ばしい匂いが胃袋を刺激する。
「弁助ちゃん、ちょうど良い所に来たね。今さ、知り合いから山女を貰って焼いている所さ。食べるだろ?」
杉が囲炉裏から弁助に声をかける。深緑色の小袖に黄色の半衿が映える。杉は又八に似てもち肌だった。いや、又八の方が杉に似ているのか? とにかく弁助好みだった。弁助は母を知らず、又八は父を知らない。お互いに足りぬ所を補う様に、弁助は杉が好きで、又八は無二に憧れていた。
「弁助ちゃん、何を慌てて走っとるん?」
弁助の後に続くのは、やはり同じ歳くらいの小童で、弁助と同じように山で柴を集めて背負っている。色白で細身の彼は、息が上がっていた。
「おう、又やん、庄屋ん家に武芸者が泊まってっから見に行くんじゃ。それより、もう息があがっとんのか? そんなこっちゃ、戦さ場で先駆けできんぞ!」
弁助の追走者は、息を切らしながらも応える。
「先駆けって、馬に乗れる身分にならにゃよう言わんぞ。おいたちは雑兵じゃ」
「又やんは夢がないのう」
弁助に応える声は無かった。又やんこと又八は、とうに倒れ込んでいた。
弁助は、柔な友人を置き去りにして山を駆け下りる。
三方を山に囲まれた窪地に町が存在した。川沿いに田畑が広がり集落を取り囲んでいる。そこは、播磨ノ国北部の村だった。
弁助は、畔道をひた走り、立派な橋を渡り、白い土塀と生活用水路を横目に見ながら茅葺きの大きな屋敷へ来た。水で野菜を洗う女に声を掛ける。
「お通は居っか?」
女は、ちょっとばかり顔を上げ、相手を確認した。髪を結い上げた女は、胸元を緩く合わせているので、白い谷間が見えていた。赤い半衿からも、色香が漂う。彼女は朱美と言い、屋敷の使用人だった。
「居るよ。弁助、旦那様に見つからねぇようになぁ」
「おお、ありがとよ」
弁助が訪ねたのは、この地方の大庄屋の家で、農家とは言え地域の権力者でもあった。時は戦国時代が終わり、安土桃山時代に入っていたが、それは後の世の区分であって、まだまだ戦国の不安定な時世が残っている。庄屋は、領主への上納、百姓の取り纏めや差配、更には治安維持すら任される立場にある。この当時の農民は、戦に駆り出される事が多く、武器を所持している者も多かった。太閤秀吉殿下の刀狩りでかなりの農民が武装解除させられたが、この所の不穏な情勢を受け、農民兵の需要も高まっていた上、朝鮮出兵で領主が異国に出払い、治安の悪化もあった。
弁助は屋敷の裏手に回ると、裏門から入る。鶏を追い飛ばし、台所の土間に柴を置いた。
「お~い、弁助さまが柴を取って来てやったぞ。茶菓子でも出しやがれ」
戯けて声を掛けると、奥から返事があった。
「はいぃぃ、梅干しでもしんぜよう」
芝居がかった鈴の様な声が響く。登場したのは、オカッパ頭の童だった。切り揃えた前髪の下で愛嬌のある瞳が輝く。口角が上がった所は見る者を笑顔にさせる愛玩人形の様だった。
「お通、うるせぇのは留守か?」
「おお、有馬喜兵衛と一緒に神社へ行ってる。客人の武芸者じゃ」
お通は、弁助に竹の子の皮を三角に折った物を渡す。
「おいは武芸者を見に来たんじゃ。神社へ行くっぞ」
弁助とお通は、連れ立って屋敷を出た。
二人で竹の子の皮を啜りながら歩く。中には梅干しが仕込まれていて、酸っぱいおやつになっていた。
「又八はどうしたんじゃ?」
お通が、急に思い出したように尋ねた。
「遅いから置いて来た」
お通は、弁助を意味ありげに見つめ、意見を述べた。
「弁助はいけずじゃのう」
お通の言葉を、弁助は理解できない。
お通の父、庄屋の善右衛門は、八幡神社を借り受け、有馬喜兵衛を招いて農民に武芸の手ほどきをさせていた。当時は村ごとの自警も重要で、格闘の鍛錬をする事も多かった。旅の武芸者の生業は、こうした方法で成り立っている。
二人が神社に着くと、境内は大層な人手で、祭りのようだった。有馬喜兵衛への関心の高さもあるのだろう。
弁助は、まずハッタリが鼻についた。三尺の杉板に「日ノ本一の兵法家、天下無双の兵法術者、新当流 有馬喜兵衛」と書かれて立て掛けてある。
弁助の父、新免無二は武芸者で、足利義昭より「日下無双兵法術者」の号を賜っていた。無双とは並び立たない事を意味する。何人も居ては可笑しい筈だが、当時は全国に無双は何人も存在した。
弁助は、今度は有馬喜兵衛本人に目を向ける。
喜兵衛は、神社の本堂を背にして立って居た。両側の狛犬が、彼を讃美する様に控えている。田舎の兵法家は、金色の陣羽織を羽織り、朱の着物に白い袴を穿いていたので、蝋燭みたいに目立つ。草履の鼻緒も白で、お洒落ではあった。ただ、顔はお洒落とは程遠い。鼻は大胡座をかき、目はギョロリとしている。八の字髭の下に有る口は完全にへの字だった。まぁ、兵法家らしくはある。
喜兵衛の前には、村人が木刀を持って対峙している。その数は三十人ほどだった。その中には、お通の父の善右衛門も居た。一回の教授人数が決まっているのだろう。
さて、肝心の教授だが、喜兵衛が「えい」と声を掛けると、村人も「えい」と応じて木刀を振る。これの繰り返しだった。弁助はちょっとバカらしく感じていた。そんな時、尻に蹴りが飛んで来た。隣のお通が生っ白い足を飛ばして来たのだ。当然、弁助は抗議する。
「なにするんじゃ」
お通は澄まして応えた。
「弁助が喜兵衛を睨んでおるからじゃ。あんな大男に餓鬼が勝てる訳なかろう?」
ケロケロと笑うお通を、弁助は飽きれて見ていた。
「おいがあんなでかい奴に挑む訳がなかろう」
そう、弁助も小童の割に大きいが、有馬喜兵衛はそれを上回っている。しかも、諸国を武者修行しているのだ。弁助に勝ち目はないだろう。
新免無二
有馬喜兵衛見学を終えた弁助は、お通と別れ、一人歩きながら考えていた。同じ武芸者として、父の無二と喜兵衛では全く違う。喜兵衛も無二も恐い顔をしているが、喜兵衛は世渡り上手に見えた。まず、衣装が違う。喜兵衛は色鮮やかな派手な衣装を着て、世間の注目を浴びるが、無二は鼠みたいな色の麻織物と革袴を好み、着替えるのも嫌いだった。風呂に入るのも億劫がる。目立つ事も嫌がるから、当然、派手な宣伝用の看板など立てないだろう。とても剣術指南で食える男ではない。ただ、無二は手先が器用で論理的思考ができた。それは、弁助にも受け継がれている。剣術指南が駄目なら何で食べているのかと言うと、無二の主な生業は粉挽きだった。彼は、一人で水車小屋を完成させ、商人や農民から使用料を取って銭を稼いでいた。無二の自作水車小屋は、故障もせずに効率が良いと評判で、親子二人で暮らすのに充分な稼ぎを提供してくれた。
弁助が喜兵衛と無二を比較しながら歩いていると、川沿いに一軒家が見えてきた。茅葺き屋根の家は、水車小屋の隣にある。
弁助が中庭に入ると、無二は縁側で楊枝を作っていた。夕暮れ時、武芸者崩れの影が長く伸びる。それは、地味な格好と相まって、酷く寂しい者に見えた。
「親父、いま帰ったぞ」
弁助は、取り敢えず挨拶をしてみる。
「そうか、有馬喜兵衛はどうだった?」
無二の言葉に弁助が驚いていると、無二は口の端を歪めて応える。
「お前の行動など容易く読めずに兵法家と言えるか? 驚くでない。愚か者の小童め」
弁助は、無二の言葉に腹を立てたが、どうにも反論しようがない。忌々しく思い、つい悪口になる。
「有馬喜兵衛は立派な兵法家じゃ。縁側で楊枝を削る暇人とは違うんじゃ!」
無二は弁助の言葉を聞くと、目をカッと見開いた。
「何だと!」
無二は、息子に向かって楊枝を削っていた小刀を投げた。弁助は、片足を上げ、犬が小便をするような格好で避けた。
「親父の兵法は小童にも当たらぬか? ちんちんちろちろ生兵法」
無二は真っ赤になって怒り、木刀を持って中庭へ降りる。裸足のままだった。
弁助は臆する事なく待ち受け、無二を睨んでいた。
無二は、我が子に小刀を投げつける様な男だが、木刀を振り下ろす事は無かった。いや、彼女の制止が無ければ、もしかするとやっていたかも知れない。縁側から、親子に呼びかける声があったのだ。
「親子でやっとうの稽古ですか? よろしいですね」
縁側には、庄屋の家で下働きをしていた朱美の姿があった。朱美は、この家に間借りしている。本人が四六時中束縛されるのを嫌い、庄屋の家には通いで務めていた。
朱美は、親子の修羅場を目にしても微笑んでいる。そんな所は肝が座って居る。彼女が何処から来て何者なのか、誰も知らない。無二は素性に無頓着なので、何も聴かずに間借りさせていた。借料は家事との交換で無料にしている。女手のない新免家では、貴重な存在だった。もっとも、村では無二と朱美を夫婦として見ている。二人にもその方が都合が良かった。
「さぁ、ご飯にしますよ。無二さんも弁助も機嫌を直して食べましょう。不機嫌だと上手にこなれません。武芸者は体が大事でしょ」
囲炉裏を囲んで三人が座る。囲炉裏の火が鍋を温め、煤が天井に上がる。上がった煤は茅葺きの素材であるススキやヨシの中に潜む虫や動物を避けさせ、更に屋根を支える梁をコーティングし、建材を強くする。また、煙が外に出るように通気性もよく作られている。家が、人と一緒に生きている。それが風土に根差した家屋なのであろう。
さて、新免家の食事だが、今晩は玄米と雑穀と野菜を煮込んだ鉄鍋が囲炉裏の火の上に下がっていた。玄米は白米より栄養素が豊富で、これだけで活力を得られた。時は、天下を太閤殿下が治めていたが、太平が続いた江戸時代と違ってこの頃は、まだ農民も力を持っていた。兵士として駆り出される事もあるので、領主も気を使う部分があった。雑穀ばかりでは不満も募ろう。
弁助は、玄米をガツガツと噛み砕きながら考えていた。それは、同居人の朱美の事だった。
彼女は、淡い黄色の小袖に赤い半衿をしている。目鼻立ちは麗しく、唇は厚ぼったい。白い肌はしっとりしていて、搗き立ての餅のようだった。以前に弁助は、阿国かぶきの一座を観た事が有った。まぁ、本物を真似た亜流の一座だろうが、神社に舞台を立て、舞を披露した。踊り手の巫女はまるで天女の様な女たちで、官能的でもあり、多くの男は勿論、女も魅了された。皆、農作業とは縁のない異次元的な美しさを感じたのだろう。朱美は、その時の巫女を連想させる女だった。弁助の疑問は、それほど色っぽい朱美に対する父の態度だった。無二は朱美の色香に興味を示さない。弁助などは、機会があれば見つめている。ここで、一つの疑惑が湧く。それは、無二が男色家なのではないか? と言う事だった。勿論、弁助が生まれた以上、最初は女好きなのだろうが、変わってしまったのかも知れない。そう考えると、優男の又八を見る目が怪しい。「又やんの穴はおいが守らにゃならんな」弁助がそう思った時、勝手口を叩く音がした。
「ごめんください」
声から判断して、訪問者は又八だった。弁助は箸と木製の茶碗を置き、対応に出る。
土間に降り、勝手口を開けると、又八が青い顔で立っていた。まぁ、もう夕暮れ時なので、はっきり青とは判断できないが、又八の表情からそう感じていた。
「又やん、どうした」
又八は内々で話があるのか、弁助の手を握って外に連れ出そうとする。弁助は、男とは思えないふっくらとした手で引っ張られ、庭に出た。湿った感触にゾクゾクする。
「どうした又やん、誰かに虐められたんか?」
弁助が笑って聞くと、又八はムキになって反論する。
「違うわい、弁助ちゃんが心配なんじゃ!」
「なして心配なんじゃ?」
弁助は心当たりがないので、呑気に訊ねる。ところが、又八の方は深刻なようで、深いため息をついた。
「お通から話は聴いたぞ。有馬喜兵衛を睨んでいたそうじゃな。弁助ちゃんはなして危ない事が好きなんじゃ。勝てる相手ではないじゃろ! 前に熊に喰われかけたのを忘れたか?」
又八は、真剣な顔で怒っている。弁助を心配しすぎて声が裏返った。足も小刻みに震えている。
又八の言う熊の話は、山で柴刈りをした時に大きな熊の足跡を見つけ、弁助が追跡しようと提案した。又八は止めたが、弁助は言う事を聞かない。仕方なく一緒に行くと、案の定、足跡が新しくなって行く。弁助は、又八が怖気づくのも構わず、どんどん先へ進む。そして、草むらから黒い塊が飛び出した。
「熊に待ち伏せされとる」
弁助が、緊張感のない声で呟いた。勿論、熊が怖くない訳ではないだろう。彼の神経は常人では測れない所を通っているのだ。
一方、又八は、腰を抜かしてしまった。弁助は、友のために引く訳には行かなかった。帯に挿した木刀を抜くと、上段に構える。足を肩幅に開き、地固めをした。
「いやぁい!」
空を突き抜ける気合いが森を駆け抜ける。熊に闘気をぶつける。すると、熊は弁助の姿に恐怖を感じたのか? 逃げ去った。
又八は、その時の恐怖が甦ったのか泣き顔になる。弁助は、又八に泣かれると弱い。しかも、彼は弁助の厚い胸に顔を付けて泣くのだ。これは、女に泣かれる以上に困ってしまう。
弁助は、又八を胸で泣かせながら悪戯を思い付いた。
「又やん、おいは有馬喜兵衛を許せんのじゃ! 親父と同じ、日の下無双を堂々と高札に掲げている。親父は足利様のお墨付きじゃぞ。おいは悔しゅうて悔しゅうて堪らんのじゃ! この気持ち、解ってくれるか?」
又八は顔を上げると弁助を見つめた。唇が近い。
「弁助ちゃんの気持ちは判るよ。だけど、おいのために堪えてな。お願いだから堪えてな」
弁助は、又八の必死な様子に笑いを堪えるのが大変だった。
「よし、おいは又やんのために堪えよう。ならば、又やんはおいのために何をしてくれるんじゃ?」
又八は黙ってしまう。これは予想外の展開だった。弁助としては、何か美味しい物でもご馳走してくれるのを期待していた。なのに、又八は沈黙している。そして、幽霊みたいに儚く来た道を帰る。
弁助は、又八の後ろ姿を見送りながら、釈然としない気持ちを抱えていた。
次の日、新免家では何時もの日常が始まる。つまり、朱美は庄屋の家へ奉公に行き、無二は縁側で楊枝を作り、弁助は中庭で木刀を振るう。
一応、無二は兵法家だが、弟子はおらず、弁助との稽古もほとんどしない。弁助はと言うと、木立打ちに励んでいた。木刀で柿の木を打ち据える。左右に切り返して打ち込んでいた。
「りゃぁ、りゃぁ、りゃぁ」
木刀の打撃音と掛け声が共鳴する。一呼吸に何回打ち込めるかを競う。柿の木には災難だが、日に日に速さも力も上がっていた。剣術は、結局の所、太刀行きの速さで決まる。相手より先に切っ先を当てれば勝てる物理現象だった。ただ、人間は機械のように物理の法則では動けない。迷いや恐怖が付き纏う。自信も必要だろう。そこで、見切りと言う概念が重要になる。例えば、目を瞑って片足立ちなら大抵の人が出来るが、その場所が凄く高い場所ならどうだろう? 行為自体は同じだが、落ちたら死ぬと言う恐怖心が、心と体を不自由にする。真剣での斬り合いの場合も同じで、恐怖心を克服するには生半可な覚悟では出来ない。
さて、弁助が一心不乱に木立打ちをしていると、視界に目立つ集団が入った。それは、白い袴に赤い小袖と金の陣羽織と言ったド派手な衣装の大男を先頭にした集団で、中には庄屋の善右衛門も居た。全部で十五人ほどになる。弁助が集団を見つめていると、無二もその存在に気が付いたが、ちらりと確認しただけで楊枝作りに戻った。
蝋燭みたいに目立つ男、有馬喜兵衛が橋を渡り、水車小屋の脇を通り、新免家へ入って来た。庭に弁助と無二を確認すると、近づいて来る。
喜兵衛は、無二に五歩まで近づき、品定めをする様に眺めていた。顔は自信に溢れ、尊大な態度と言っていい。刀の柄に手を掛け、声を上げた。
「日下無双の兵法術者、新免無二殿とお見受けいたす。拙者は新当流、有馬喜兵衛と申す。貴殿の御子息について話したき議がござる」
喜兵衛は、妙に改まった武家言葉で口上を述べた。大抵の場合、素性が不確かな者ほどそれらしい言葉遣いを好む。有馬喜兵衛の出自は兎も角、兵法家としての気負いは感じられた。
「伺おう」
無二は、喜兵衛の顔を見ようともせず、楊枝を作りながら応えた。喜兵衛は、かなり憮然としていたが、話を続ける。
「拙者、八幡神社に高札を上げ、新当流を習いたい者に広く知らしめております。ところが、昨夜、何者かによって高札に落書きがされ、当流派が侮辱を受け申した」
「それで?」
「落書きの主は字の様子から童のようで、善右衛門どのに心当たりを尋ねた所、こんな大それた事をするのは新免弁助しかいないと申されて、問い正しに参った」
喜兵衛の口上を聴いた無二は、暫く黙っていた。それは、考えているようにも、相手を馬鹿にしているようにも見えた。そして、無二は弁助に事を糾す。
「今の話は誠か?!」
弁助は、話を突然振られて背筋が伸びた。褌がきゅっと締まる。
弁助には、全く身に覚えのない話だった。夜中にこっそり抜け出し、有馬喜兵衛が立てた高札に落書きをするなんて、夢遊病だとしても不可能な事だった。当然、嫌疑を否定しようとしたが、昨晩の又八の後ろ姿が目に浮かんだ。今から考えると、あれは勇気を振り絞ろうとしていたのかも知れない。弁助はそう思いつくと、返答に困った。自分が否定すれば、又八を売る事になる気がしたからだ。それに、又八は自分を思って行動した。それを分かっていたから、なおさら心苦しい。
「そうじゃ、おいがやったんじゃ!」
弁助は、思い切って宣言する。後は出たとこ勝負と覚悟を決めた。
一方、弁助の発言に喜兵衛は顔を綻ばせる。してやったりと言った感じだった。喜兵衛の思惑としては、これを理由に無二との仕合に持ち込みたかった。無二は、室町幕府将軍、足利義昭の剣術指南役、吉岡憲法と立ち合い、三度の勝負を二度も制した剛の者だった。無二を破れば、喜兵衛にも箔がつく。弁助を利用できるのは願ったり叶ったりだった。
「無二殿、ご子息の始末をどうつけるおつもりか? この際、貴殿と拙者で雌雄を決しようではないか?」
喜兵衛の提案は、無二に却下された。
「知らんがな」
「しっ知らんがなぁ!」
喜兵衛は盛大に口を開け、無二の言葉を復唱する。馬鹿にされたと思ったのだろう。顔が真っ赤になっていた。
「拙者を愚弄するつもりか? 無二、返答しだいでは只では置かんぞ!」
喜兵衛は切れてしまったらしい。乱暴な口調に変わり、鼻の穴も大きくなる。
「いやいや、落書きしたのはワシではないぞ。弁助が謝るなり、仕合で公開処刑されるなりすれば良い。童とは言え、己れの行いには責めを負わせるのが新免の家風でな」
無二は澄まして答える。その薄情さは弁助のみならず、喜兵衛や善右衛門まで飽きれるほどで、鬼畜なほど無責任だった。
喜兵衛は、予想外の展開に面喰らっていたが、無二を軽蔑してもいた。彼が思うに無二は、仕合するのが怖いのだろう。子を犠牲にしても命が惜しいとは、とんだ卑怯者だと言えた。喜兵衛は相手を低く見る事によって、冷静さを取り戻し、嫌味を言った。
「かつては将軍家から『日の下無双の兵法者』と謳われた名馬も、年老いて駄馬になり申したか?」
無二は、喜兵衛の侮辱には答えず、楊枝作りに没頭した。その姿は、呆れた臆病者とも見る事ができたが、帯剣した武芸者を目の前にしている事を考えると、豪胆とも言えた。しかし、この場で無二を評価していたのは、弁助だけだろう。弁助は、体を内側から奮わせながら叫んだ。
「おんしとの仕合、受けてやる。文句があるなら口じゃなく剣で来い!」
喜兵衛は、小童に堂々と宣言されて笑い出した。
「無礼な小童だな。そんなに死にたければ仕合してやろう。落書き通りにしてやる。五日後、金倉橋のたもとに仕合場所を設けておく。午の上刻に参れ」
弁助は、口を真一文字に結び、喜兵衛を睨みつける。脳天から爪先まで、痺れるように緊張した。
喜兵衛は、余裕のある皮肉な笑顔を見せると、取り巻きたちを引き連れて帰って行った。
有馬喜兵衛が去ると、弁助の緊張の糸が切れる。盛大に溜め息をつき、その場でへたり込んだ。
無二は、弁助の弱い部分を曝け出す様子を見て笑う。一方、嘲笑われた方としては、言い返したくなる。
「親父、おいは喜兵衛と刺し違えてしぬっぞ。それでも笑うか?」
無二は、弁助の真剣な様子を見て態度を改める。たまには父親らしい所を見せようとしたのだろう。
「弁助、勇ましいな。まぁ、そう気負うな。お前が喜兵衛を見切る事が出来たら、戦えばよい。もし見切る事ができなんだら、ワシが戦う」
弁助は、無二の意外な申し出に戸惑っていた。毒気を抜かれ、呆けた顔になる。
無二は、縁側の自分の隣を叩き、弁助に座る事を促す。
「ワシは今までお前に兵法を教えて来なかった。だが、今こそ授けるぞ」
無二は、基本的に笑わない男だったが、我が子が仕合を受けるまでに成長した事が嬉しかったのだろう。笑顔を見せていた。
「仕合に勝つには、三つの知がいる。一つは、己れを知ることだ。二つ目は相手を知ることだ。三つ目は策を知ることだ。己れを知るとは、力量、技量を知る事だ。相手を知るとは、敵の力量、技量を知る事だ。己れと敵の力量、技量を比べ、優劣を冷静に判断せねば仕合には勝てんぞ」
弁助は無二の教えを理解した。つまり、客観的に判断し、行動しろと言う事だろう。
「更に、策を知らねばならぬ。それには理が要る。地の理と心の理だ。地の理とは、対決場所を知る事だ。広さ、形、凹凸、土壌の質、敵地か否か。等だな。心の理とは、己れの心持ちを整え、相手の心持ちを乱す事だ。例えば、いま喜兵衛はお前と対戦するものだと決めて掛かっている。だが、当日になってワシが出向いたらどうであろう?」
弁助は、仕合当日の様子を想像してみた。喜兵衛は、小童が相手だと余裕を持っているだろう。そこへ互角か互角以上の無二が現れたら、きっと顔面蒼白になる。しかも、対戦を断る訳にも行くまい。
「喜兵衛は腰を抜かすじゃろな」
弁助が元気よく答えると、無二は頷いた。
「まぁ、よく相手を見切る事だ。場合によっては逃げると言うのも選択すべきだし、恥でもない」
弁助は、無二の言葉に希望が持てた。彼は、先ずは喜兵衛を知る事から始める。その前に、又八に問い質す必要があった。喜兵衛の高札に落書きしたのが彼とは限らない。ちょうど又八の実家の旅籠に楊枝を納める都合も有ったので、弁助は出かけて行った。
田園風景を過ぎ、橋を渡る。川を越えると宿場町の様相を呈していて、賑やかになる。田舎と違って蔵造りの家が並んでいた。
川沿いにある一軒の家が、旅籠を営む又八の家だった。女将の杉はとても艶っぽい人で、旅籠の主人である又七が京から連れて来たらしい。又八の父である又七は、既に他界している。
弁助は川沿いの裏口へ回ると、勝手口から入る。香ばしい匂いが胃袋を刺激する。
「弁助ちゃん、ちょうど良い所に来たね。今さ、知り合いから山女を貰って焼いている所さ。食べるだろ?」
杉が囲炉裏から弁助に声をかける。深緑色の小袖に黄色の半衿が映える。杉は又八に似てもち肌だった。いや、又八の方が杉に似ているのか? とにかく弁助好みだった。弁助は母を知らず、又八は父を知らない。お互いに足りぬ所を補う様に、弁助は杉が好きで、又八は無二に憧れていた。
0
お気に入りに追加
0
あなたにおすすめの小説
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
水野勝成 居候報恩記
尾方佐羽
歴史・時代
⭐タイトルを替えました。
⭐『福山ご城下開端の記』もよろしくお願いします。
⭐福山城さま令和の大普請、完成おめでとうございます。
⭐2020年1月21日、5月4日に福山市の『福山城築城400年』Facebookでご紹介いただきました。https://m.facebook.com/fukuyama400/
備後福山藩初代藩主、水野勝成が若い頃放浪を重ねたあと、備中(現在の岡山県)の片隅で居候をすることになるお話です。一番鑓しかしたくない、天下無双の暴れ者が、備中の片隅で居候した末に見つけたものは何だったのでしょうか。
→本編は完結、関連の話題を適宜更新。
柳生十兵衛の娘
戸部家尊
歴史・時代
史実では、剣豪・柳生十兵衛三厳には松と竹という二人の娘がいたという。
柳生十兵衛の娘、竹(たけ)はある日、父への果たし状を受け取る。
だが父が不在のため、代わりに自らが決闘に挑む。
【こんな方にオススメの小説です】
■剣豪ものの時代小説が読みたい。
■本格的なチャンバラが読みたい。
■女性剣士の活躍が見たい。
■柳生十兵衛の出る小説が好きで今まで他の作品も読んできた。
※ノベルアッププラスにも掲載しています。
※表紙画像はイラストACのフリー素材を使用しています。
織田信長IF… 天下統一再び!!
華瑠羅
歴史・時代
日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。
この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。
主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。
※この物語はフィクションです。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

【完結】風天の虎 ――車丹波、北の関ヶ原
糸冬
歴史・時代
車丹波守斯忠。「猛虎」の諱で知られる戦国武将である。
慶長五年(一六〇〇年)二月、徳川家康が上杉征伐に向けて策動する中、斯忠は反徳川派の急先鋒として、主君・佐竹義宣から追放の憂き目に遭う。
しかし一念発起した斯忠は、異母弟にして養子の車善七郎と共に数百の手勢を集めて会津に乗り込み、上杉家の筆頭家老・直江兼続が指揮する「組外衆」に加わり働くことになる。
目指すは徳川家康の首級ただ一つ。
しかし、その思いとは裏腹に、最初に与えられた役目は神指城の普請場での土運びであった……。
その名と生き様から、「国民的映画の主人公のモデル」とも噂される男が身を投じた、「もう一つの関ヶ原」の物語。
旧式戦艦はつせ
古井論理
歴史・時代
真珠湾攻撃を行う前に機動艦隊が発見されてしまい、結果的に太平洋戦争を回避した日本であったが軍備は軍縮条約によって制限され、日本国に国名を変更し民主政治を取り入れたあとも締め付けが厳しい日々が続いている世界。東南アジアの元列強植民地が独立した大国・マカスネシア連邦と同盟を結んだ日本だが、果たして復権の日は来るのであろうか。ロマンと知略のIF戦記。
猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。
記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる