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II (鬼崎)
story.12 すれちがいの芽
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人生はよくマラソンにたとえられる。山あり谷あり、寿命を終えるそのときまで、長い人生を自分のペースで進んでいく。ときにコースを外れ、ときに立ち止まり、何があるのかわからないのが人生である。たまには間違いを犯し、後ろ向きに進んでしまうこともあるかもしれない。
人それぞれ、千種万様な道のりだ。
誰も代わってはくれないし、人と取り替えることもできない。だからどんなに苦しく辛い道でも、その上に立ち続けなければいけないのだ。
俺の道は暗く曇天のような空をしている。
いつになったら、俺はまた前を向けるのだろうか。
俺を映さなくなった瞳が、今でも俺を見ていた。
「社長、お昼寝なんてめずらしいですね」
鼻先に漂ったコーヒーの香りに、顔にのせていた廃棄書類を取り払う。社長室に顔を見せたのは社長補佐の雪乃りさ。見目も良く、今どきの子である。まだ二十代前半と若いはずだが、たいへん気が利いて優秀であり、ついでに秘書の役割もこなしてしまうスーパーウーマンだった。
雪乃はデスク上の物をわきに寄せ隙間をつくり、淹れたてのコーヒーのカップを置く。
「ハハハ、仮眠って言ってくれよ。これシュレッダーしておいてくれるかい?」
俺は苦笑しながら、手にしていた書類を雪乃に渡した。
「かしこまりました。・・・・・・しかし社長、これは捨ててはいけないものじゃないですか?」
「そうだったか? 再三確認したんだが、あ・・・・・・申し訳ない」
渡し返されたものを目にし、やってしまったと額を押さえた。廃棄書類に紛れていたのは写真。そこに映るのは自転車に乗った蓮太郎の姿だ。蓮太郎とルームシェアを始めるずっと前に隠し撮りをした写真だった。
「紙の写真ってレトロでいいですよね。でも持ち歩くのなら、ちゃんとしまっておいてくださいね。失くなっても知りませんよ」
「あ、ああ、気をつけるよ」
賢い雪乃から見れば、隠し撮りだと気づきそうなアングルの写真なのに、何も聞かずにいてくれることがありがたかった。
大人な対応をしてくれた彼女には頭があがらない。
「そういえば、新店舗予定地の下見に田米さんが行ってくれたそうですよ」
雪乃から報告を受け、写真に落としていた視線をあげた。
「さすがだ、早いな。来週の予定じゃなかった?」
「ええ、ですがテナントの所有者が早くと急いてきたので田米さんが飛んでいきました」
「なるほどな。近隣に近々、新駅ができると噂になっているせいだと思う。おそらくウチみたいな参入希望者が増えて、大家は引くて数多なんだろう。あの場所は絶対キープしておきたかったから助かったよ。ファインプレーだな」
田米を褒めると、雪乃はふわりと笑う。
この会社は俺が社長、そして田米こと田米葉助が副社長を務める『オフィス スモールハウス』。
外食業界に席を置き、スイーツを目玉としたカフェ、レストランを数多く出店させ、それらの店の運営と管理を行なっている。
その第一店舗めが蓮太郎の大学近くに店を構えている『coco touron』だった。当カフェを皮切りに店舗を増やし、小さいながらも順調に業績を伸ばしていた。
「それで、田米はそのまま直帰するって?」
「いいえ。お姉さんのところに寄ってくると」
「承知した。そうだ、なら私たちもそちらに向かおうか。十二月からスタートするクリスマスに合わせた新メニューも再チェックしておきたい」
「今日は定時で上がらなくても良いのですか?」
雪乃がまつ毛のぱっちりした目を大きく見開いた。
「ああ、今日は遅くなっても平気だ」
蓮太郎は帰りが遅く、夕飯の準備は必要ない。カレンダー上のイベントごとが近づくと忙しさがピークに達する。早く帰りたいときに、帰宅できなかったら困るので、俺は今日のうちにできる限りの業務を終わらせておきたいと思っていた。
しかし車を回してくると出ていった雪乃を待つあいだ、写真の口止めを忘れてしまったことに臍を噛んだ。彼女のことは信頼しており大丈夫だと思うが、女性というのは口が二つも三つもついているようで、本人の性格とは乖離している部分があるらしい。
まぁ、女性に限った話ではないのかもしれないけれど、女性はとくにそうであるのだろうと感じる。男の俺には理解ができない領域であるから尚更。
どんなに口の固そうな女性に話をしても、気づいたときには大勢の知るところであったという話しもザラに聞く。
戻ってきたら一番に伝えなくてはいけない。そう心に留めながら、俺は蓮太郎の写真を手帳に挟み、書類を整理した。
デスクの上は飲みかけの栄養ドリンク、いつのだかわからないコーヒーの空き缶、パソコン、書類の山とひどく乱雑だった。蓮太郎と暮らすあの家での食事作りや家事には手を抜かないものの、実際の俺はこんなもんだ。
家のことに気を使うようになったのに特別な理由はなく、最初がマイナス印象のスタートであったからこそ、居心地良く生活してもらいたいと思ったまでだった。
やり始めてみると案外楽しく、自分ひとりのためにであれば面倒くさいと感じていたことも、反応を返してくれる人がいるとまるで違った。そのことが俺には嬉しくて、料理の本を買ってみたり、柔軟剤にこだわってみたり、近所のスーパーで食材を選ぶ瞬間を楽しいと思うなんて、衝撃以外の何ものでもなかった。
そうして当たり前に身の回りの世話をしてやるようになり、それこそが俺の生きる楽しみであるかのようにも思えた。
蓮太郎と暮らすことで救われる。
今の俺の毎日は幸せであると共に、蓮太郎に声をかけた日の判断は間違いではなかったのだと、不誠実な自分に言いわけをする日々であった。
「社長、お待たせしました。お車を下につけましたので行きましょう」
「ありがとう、今行くよ」
俺はネクタイを締め直してアタッシュケースを手にすると、雪乃に続いて車に向かった。
夕方の幹線道路。運転席には雪乃が座り、黒のセダンを走らせていた。慣れた道のりで、オフィスからカフェまでナビを使わないでも問題ない。
俺は後部座席に腰を沈め、外を眺める。ウィンドウのむこうを流れていく景色に視線を移ろわせながら、栗色のロングヘアをした後頭部に話をふった。
「雪乃、さっきの写真についてだが他言は避けてくれ」
カールした毛先がわずかに揺れる。あまり深刻な口調にならないように努めたが、どうだっただろう。ミラーに映った雪乃を窺い見ると、いつもと変わらない表情で前方を見つめていた。その顔にピンとくる。
「もしかして、写真を見たのって今日がはじめてじゃなかった?」
途端に、フッと彼女の口がゆるむ。
「フフ、ええ。なのでこれからも誓って誰にも言いません。念書も残しておきましょうか?」
「なんだそうなのか。念書はいい、きみを信頼しているよ。それより道が混んでいるな、どれくらいかかりそうだろう?」
滑らかに流れていた景色が徐々にスピードダウンしていく。すると、はかったように車内ナビ音声がこの先の渋滞情報を伝えてきた。
「この調子だと二時間くらいでしょうか、お休みになられていても構いませんよ」
ミラー越しに雪乃と視線が合い、俺は首を傾げる。
「いや・・・・・・?」
「遠慮なさらないでください、夜は眠れていないのかと思いまして」
ずばり言い当てると雪乃は視線を外し、ナビで迂回経路を探しはじめた。彼女が口にした言葉に、またもや一本取られた気分になる。
「わかるのか?」
「ええ、仮眠を取られたあとですが、とても眠たそうな顔です。お酒の匂いをさせてこなくなっただけ、前よりはましですけれど」
「はは、そうか。何も言えないな」
苦笑いをして目頭をギュッとつまんだ。
「・・・・・だがこの車の揺れはいい感じだ。お言葉に甘えて眠らせてもらおうかな」
「どうぞ、カフェに着いたら声をかけさせていただきますね」
「ありがとう」
サイドガラスに肘をつき、目を閉じる。気を利かせて下げられたナビの音量に耳を傾けて、自然に眠りに落ちるのを待った。
視界が暗闇に染まると、鼻腔に思い起こされる強いアルコールの匂い。純度の高い薬品じみた薫り。カッと熱が灯り喉を焼くように通過していく強い痛み。琥珀色の鉛のような液体とよく似た、濁った瞳。ざまざまな要素が合わさって、俺の眠りを妨げる。
最近、不眠症をまたぶり返してしまった。
眠れない理由はわかっていた。
蓮太郎のそばで蓮太郎を抱きしめて目を閉じた瞬間だけは悪夢の足音が聴こえなくなる。毎晩、彼をベッドに引きずり込んでしまいたいという劣情に悩み、さらに眠れなくなる悪循環。
・・・・・・駄目だ。またネガティブなループに入り込んでしまう。一秒でも早く蓮太郎に会いたい。俺の心はすっかりと蓮太郎に依存してしまった。
それがいかに恐ろしいことか。俺は俺の浅ましい欲望が怖い。今でも抑えられていないのに、これ以上距離を縮めたら、俺自身がどうなってしまうのか恐ろしくてたまらない。
蓮太郎のことを、もう二度と傷つけないと決めたのだ。
近づきすぎてはいけない・・・・・・。
しばらくしてトンと静かに後輪がタイヤ留めにあたり、到着したのだと感じ取れた。水面を漂っているみたいな、眠っていたかどうかもあやしいぐらいの睡眠を終える。とはいえ業務に支障をきたすほどではなく、いくぶんか眠気は覚めた。
「社長、お目覚めでしたか」
「ああ」
軽く頷いて返事をし、腕時計を見る。雪乃の見立てどおり、ちょうど二時間。時刻は午後六時を回ったころだった。
車を降りようかというとき、スマホが鳴った。
表示されているのは仕事関係ではない番号。
駐車場からカフェまでは徒歩で三分もかからない。俺は雪乃を先にカフェに向かわせ電話に出た。
「はい、鬼崎です」
『アタシからかけたんだから、わかってるわよ』
甲高く甘ったるい声で応えたのは俺を産んだ女だ。
「なんでしょうか? お金なら先月と同じく月末にちゃんと振り込みます」
『いやだぁ、可愛くない息子ね。まるでアタシがお金のことばっかり考えているみたいじゃない』
事実、そうなんだが。とは口に出せず、愛想笑いをして返す。
「はは、そうは言ってません。では何か別の要件があるのですか? 仕事中なので手早くお願いします」
『そぉ? ほらぁ、もうすぐ年末だから準備しなくちゃいけないものが多くてねぇ~』
はっきりと言えばいいのに、やはり金の無心ではないか。ため息をつきたくなる。
「わかりました、次回は多めに振り込んでおきます」
『あらほんと? できた息子で助かるわぁ』
「もういいですか? 仕事に戻ります」
俺は電話を切る。この人は俺の親であって、親ではない。昔から俺の気持ちを蔑ろにする大天才だ。だから俺がハタチを超えてまもなくに縁を切った。並々足らぬ出来事を経ての決断であったが、法律上の縁が切れても、血を分けた親子の繋がりはそうそう消えるものではない。
現にこうして、数ヶ月に一度の頻度で連絡をよこしてくる。憎たらしくも、こんなに母親と話す機会を設けられているのは物心ついて以来だった。
縁を切ったとたんにすがるようにまとわりつき、しかし俺も母親への愛情にすがって、無下にできないでいた。
金ならいくらやっても困りはしない。母親の声を聞く代わりに、自らの心が抉り取られていくのを放置しているのである。
やや沈鬱な気持ちになりながらカフェに行くと、店内はディナータイムの客で満席だった。カフェではスイーツをメインにパスタやオムライスなど女子ウケの良いメニューを揃えている。
来月にむけて冬季メニューも少しずつ取り入れており、売れ行きは好調。賑わっている様子に満足して厨房へ入ると、こちらに気がついた雪乃が俺を手招きした。
雪乃は白いコック姿の女性と並んで立っている。彼女は『coco touron』のパティシエ、田米梨穂子。副社長である葉助の姉だ。
女性二人で新作の味見をしているのだと思うが、近寄ってみると田米姉弟の弟の方がどこにも見受けられなかった。大柄な体格をしている彼を見落とすことなど、あり得ない。
「梨穂子さん、葉助来てませんか?」
「葉助なら、若い子たちを連れて帰ったところだよ」
呆れかえり、開いた口が塞がらなくなる。若い子たちとは? と首を捻った。
「まさか大学の女の子に手を出したんじゃないだろうな」
声をひそめると、梨穂子さんは豪快に笑った。
「はっは、安心しな、男の子だったよ」
「男の子?」
ますます謎である。
「そうそう、バイトの子が対応してたけど、今は帰っちゃたみたいだから詳しいことはわからないね」
「なるほど」
「まあ、あれでも常識のある男だよ。放っておいて大丈夫じゃないかな」
「それもそうですね」
田米は俺よりも一歳年上の立派な大人だ。相手が男というのならば口を出す必要もない。今はやるべき仕事をこなそう。
「雪乃、新メニューの写真は撮ったかい?」
「今、カメラを調整してます」
俺は一眼カメラの液晶モニターを覗いた。雪乃がダイヤルとボタンで調整していくのに合わせ、ピンぼけしていたモニターに被写体がくっきりと映し出される。
サンタクロースが描かれた皿の上に乗せられ、真っ赤な苺を飾ったパンケーキ。
雪を表現した粉砂糖には、特別に細かく砕いた氷砂糖を加えてあった。半透明の粒は光を反射し、周囲にセンス良く配置されたベリーと見た目の相性も良い。ナパージュと呼ばれる、果物に施されているジェリー状のコーティングとよく合っていた。
「予定どおりに出せそうですね」
「ああ」
俺は自信をもって頷く。写真に撮されたパンケーキはこれまでで一番最高の出来に見えた。
人それぞれ、千種万様な道のりだ。
誰も代わってはくれないし、人と取り替えることもできない。だからどんなに苦しく辛い道でも、その上に立ち続けなければいけないのだ。
俺の道は暗く曇天のような空をしている。
いつになったら、俺はまた前を向けるのだろうか。
俺を映さなくなった瞳が、今でも俺を見ていた。
「社長、お昼寝なんてめずらしいですね」
鼻先に漂ったコーヒーの香りに、顔にのせていた廃棄書類を取り払う。社長室に顔を見せたのは社長補佐の雪乃りさ。見目も良く、今どきの子である。まだ二十代前半と若いはずだが、たいへん気が利いて優秀であり、ついでに秘書の役割もこなしてしまうスーパーウーマンだった。
雪乃はデスク上の物をわきに寄せ隙間をつくり、淹れたてのコーヒーのカップを置く。
「ハハハ、仮眠って言ってくれよ。これシュレッダーしておいてくれるかい?」
俺は苦笑しながら、手にしていた書類を雪乃に渡した。
「かしこまりました。・・・・・・しかし社長、これは捨ててはいけないものじゃないですか?」
「そうだったか? 再三確認したんだが、あ・・・・・・申し訳ない」
渡し返されたものを目にし、やってしまったと額を押さえた。廃棄書類に紛れていたのは写真。そこに映るのは自転車に乗った蓮太郎の姿だ。蓮太郎とルームシェアを始めるずっと前に隠し撮りをした写真だった。
「紙の写真ってレトロでいいですよね。でも持ち歩くのなら、ちゃんとしまっておいてくださいね。失くなっても知りませんよ」
「あ、ああ、気をつけるよ」
賢い雪乃から見れば、隠し撮りだと気づきそうなアングルの写真なのに、何も聞かずにいてくれることがありがたかった。
大人な対応をしてくれた彼女には頭があがらない。
「そういえば、新店舗予定地の下見に田米さんが行ってくれたそうですよ」
雪乃から報告を受け、写真に落としていた視線をあげた。
「さすがだ、早いな。来週の予定じゃなかった?」
「ええ、ですがテナントの所有者が早くと急いてきたので田米さんが飛んでいきました」
「なるほどな。近隣に近々、新駅ができると噂になっているせいだと思う。おそらくウチみたいな参入希望者が増えて、大家は引くて数多なんだろう。あの場所は絶対キープしておきたかったから助かったよ。ファインプレーだな」
田米を褒めると、雪乃はふわりと笑う。
この会社は俺が社長、そして田米こと田米葉助が副社長を務める『オフィス スモールハウス』。
外食業界に席を置き、スイーツを目玉としたカフェ、レストランを数多く出店させ、それらの店の運営と管理を行なっている。
その第一店舗めが蓮太郎の大学近くに店を構えている『coco touron』だった。当カフェを皮切りに店舗を増やし、小さいながらも順調に業績を伸ばしていた。
「それで、田米はそのまま直帰するって?」
「いいえ。お姉さんのところに寄ってくると」
「承知した。そうだ、なら私たちもそちらに向かおうか。十二月からスタートするクリスマスに合わせた新メニューも再チェックしておきたい」
「今日は定時で上がらなくても良いのですか?」
雪乃がまつ毛のぱっちりした目を大きく見開いた。
「ああ、今日は遅くなっても平気だ」
蓮太郎は帰りが遅く、夕飯の準備は必要ない。カレンダー上のイベントごとが近づくと忙しさがピークに達する。早く帰りたいときに、帰宅できなかったら困るので、俺は今日のうちにできる限りの業務を終わらせておきたいと思っていた。
しかし車を回してくると出ていった雪乃を待つあいだ、写真の口止めを忘れてしまったことに臍を噛んだ。彼女のことは信頼しており大丈夫だと思うが、女性というのは口が二つも三つもついているようで、本人の性格とは乖離している部分があるらしい。
まぁ、女性に限った話ではないのかもしれないけれど、女性はとくにそうであるのだろうと感じる。男の俺には理解ができない領域であるから尚更。
どんなに口の固そうな女性に話をしても、気づいたときには大勢の知るところであったという話しもザラに聞く。
戻ってきたら一番に伝えなくてはいけない。そう心に留めながら、俺は蓮太郎の写真を手帳に挟み、書類を整理した。
デスクの上は飲みかけの栄養ドリンク、いつのだかわからないコーヒーの空き缶、パソコン、書類の山とひどく乱雑だった。蓮太郎と暮らすあの家での食事作りや家事には手を抜かないものの、実際の俺はこんなもんだ。
家のことに気を使うようになったのに特別な理由はなく、最初がマイナス印象のスタートであったからこそ、居心地良く生活してもらいたいと思ったまでだった。
やり始めてみると案外楽しく、自分ひとりのためにであれば面倒くさいと感じていたことも、反応を返してくれる人がいるとまるで違った。そのことが俺には嬉しくて、料理の本を買ってみたり、柔軟剤にこだわってみたり、近所のスーパーで食材を選ぶ瞬間を楽しいと思うなんて、衝撃以外の何ものでもなかった。
そうして当たり前に身の回りの世話をしてやるようになり、それこそが俺の生きる楽しみであるかのようにも思えた。
蓮太郎と暮らすことで救われる。
今の俺の毎日は幸せであると共に、蓮太郎に声をかけた日の判断は間違いではなかったのだと、不誠実な自分に言いわけをする日々であった。
「社長、お待たせしました。お車を下につけましたので行きましょう」
「ありがとう、今行くよ」
俺はネクタイを締め直してアタッシュケースを手にすると、雪乃に続いて車に向かった。
夕方の幹線道路。運転席には雪乃が座り、黒のセダンを走らせていた。慣れた道のりで、オフィスからカフェまでナビを使わないでも問題ない。
俺は後部座席に腰を沈め、外を眺める。ウィンドウのむこうを流れていく景色に視線を移ろわせながら、栗色のロングヘアをした後頭部に話をふった。
「雪乃、さっきの写真についてだが他言は避けてくれ」
カールした毛先がわずかに揺れる。あまり深刻な口調にならないように努めたが、どうだっただろう。ミラーに映った雪乃を窺い見ると、いつもと変わらない表情で前方を見つめていた。その顔にピンとくる。
「もしかして、写真を見たのって今日がはじめてじゃなかった?」
途端に、フッと彼女の口がゆるむ。
「フフ、ええ。なのでこれからも誓って誰にも言いません。念書も残しておきましょうか?」
「なんだそうなのか。念書はいい、きみを信頼しているよ。それより道が混んでいるな、どれくらいかかりそうだろう?」
滑らかに流れていた景色が徐々にスピードダウンしていく。すると、はかったように車内ナビ音声がこの先の渋滞情報を伝えてきた。
「この調子だと二時間くらいでしょうか、お休みになられていても構いませんよ」
ミラー越しに雪乃と視線が合い、俺は首を傾げる。
「いや・・・・・・?」
「遠慮なさらないでください、夜は眠れていないのかと思いまして」
ずばり言い当てると雪乃は視線を外し、ナビで迂回経路を探しはじめた。彼女が口にした言葉に、またもや一本取られた気分になる。
「わかるのか?」
「ええ、仮眠を取られたあとですが、とても眠たそうな顔です。お酒の匂いをさせてこなくなっただけ、前よりはましですけれど」
「はは、そうか。何も言えないな」
苦笑いをして目頭をギュッとつまんだ。
「・・・・・だがこの車の揺れはいい感じだ。お言葉に甘えて眠らせてもらおうかな」
「どうぞ、カフェに着いたら声をかけさせていただきますね」
「ありがとう」
サイドガラスに肘をつき、目を閉じる。気を利かせて下げられたナビの音量に耳を傾けて、自然に眠りに落ちるのを待った。
視界が暗闇に染まると、鼻腔に思い起こされる強いアルコールの匂い。純度の高い薬品じみた薫り。カッと熱が灯り喉を焼くように通過していく強い痛み。琥珀色の鉛のような液体とよく似た、濁った瞳。ざまざまな要素が合わさって、俺の眠りを妨げる。
最近、不眠症をまたぶり返してしまった。
眠れない理由はわかっていた。
蓮太郎のそばで蓮太郎を抱きしめて目を閉じた瞬間だけは悪夢の足音が聴こえなくなる。毎晩、彼をベッドに引きずり込んでしまいたいという劣情に悩み、さらに眠れなくなる悪循環。
・・・・・・駄目だ。またネガティブなループに入り込んでしまう。一秒でも早く蓮太郎に会いたい。俺の心はすっかりと蓮太郎に依存してしまった。
それがいかに恐ろしいことか。俺は俺の浅ましい欲望が怖い。今でも抑えられていないのに、これ以上距離を縮めたら、俺自身がどうなってしまうのか恐ろしくてたまらない。
蓮太郎のことを、もう二度と傷つけないと決めたのだ。
近づきすぎてはいけない・・・・・・。
しばらくしてトンと静かに後輪がタイヤ留めにあたり、到着したのだと感じ取れた。水面を漂っているみたいな、眠っていたかどうかもあやしいぐらいの睡眠を終える。とはいえ業務に支障をきたすほどではなく、いくぶんか眠気は覚めた。
「社長、お目覚めでしたか」
「ああ」
軽く頷いて返事をし、腕時計を見る。雪乃の見立てどおり、ちょうど二時間。時刻は午後六時を回ったころだった。
車を降りようかというとき、スマホが鳴った。
表示されているのは仕事関係ではない番号。
駐車場からカフェまでは徒歩で三分もかからない。俺は雪乃を先にカフェに向かわせ電話に出た。
「はい、鬼崎です」
『アタシからかけたんだから、わかってるわよ』
甲高く甘ったるい声で応えたのは俺を産んだ女だ。
「なんでしょうか? お金なら先月と同じく月末にちゃんと振り込みます」
『いやだぁ、可愛くない息子ね。まるでアタシがお金のことばっかり考えているみたいじゃない』
事実、そうなんだが。とは口に出せず、愛想笑いをして返す。
「はは、そうは言ってません。では何か別の要件があるのですか? 仕事中なので手早くお願いします」
『そぉ? ほらぁ、もうすぐ年末だから準備しなくちゃいけないものが多くてねぇ~』
はっきりと言えばいいのに、やはり金の無心ではないか。ため息をつきたくなる。
「わかりました、次回は多めに振り込んでおきます」
『あらほんと? できた息子で助かるわぁ』
「もういいですか? 仕事に戻ります」
俺は電話を切る。この人は俺の親であって、親ではない。昔から俺の気持ちを蔑ろにする大天才だ。だから俺がハタチを超えてまもなくに縁を切った。並々足らぬ出来事を経ての決断であったが、法律上の縁が切れても、血を分けた親子の繋がりはそうそう消えるものではない。
現にこうして、数ヶ月に一度の頻度で連絡をよこしてくる。憎たらしくも、こんなに母親と話す機会を設けられているのは物心ついて以来だった。
縁を切ったとたんにすがるようにまとわりつき、しかし俺も母親への愛情にすがって、無下にできないでいた。
金ならいくらやっても困りはしない。母親の声を聞く代わりに、自らの心が抉り取られていくのを放置しているのである。
やや沈鬱な気持ちになりながらカフェに行くと、店内はディナータイムの客で満席だった。カフェではスイーツをメインにパスタやオムライスなど女子ウケの良いメニューを揃えている。
来月にむけて冬季メニューも少しずつ取り入れており、売れ行きは好調。賑わっている様子に満足して厨房へ入ると、こちらに気がついた雪乃が俺を手招きした。
雪乃は白いコック姿の女性と並んで立っている。彼女は『coco touron』のパティシエ、田米梨穂子。副社長である葉助の姉だ。
女性二人で新作の味見をしているのだと思うが、近寄ってみると田米姉弟の弟の方がどこにも見受けられなかった。大柄な体格をしている彼を見落とすことなど、あり得ない。
「梨穂子さん、葉助来てませんか?」
「葉助なら、若い子たちを連れて帰ったところだよ」
呆れかえり、開いた口が塞がらなくなる。若い子たちとは? と首を捻った。
「まさか大学の女の子に手を出したんじゃないだろうな」
声をひそめると、梨穂子さんは豪快に笑った。
「はっは、安心しな、男の子だったよ」
「男の子?」
ますます謎である。
「そうそう、バイトの子が対応してたけど、今は帰っちゃたみたいだから詳しいことはわからないね」
「なるほど」
「まあ、あれでも常識のある男だよ。放っておいて大丈夫じゃないかな」
「それもそうですね」
田米は俺よりも一歳年上の立派な大人だ。相手が男というのならば口を出す必要もない。今はやるべき仕事をこなそう。
「雪乃、新メニューの写真は撮ったかい?」
「今、カメラを調整してます」
俺は一眼カメラの液晶モニターを覗いた。雪乃がダイヤルとボタンで調整していくのに合わせ、ピンぼけしていたモニターに被写体がくっきりと映し出される。
サンタクロースが描かれた皿の上に乗せられ、真っ赤な苺を飾ったパンケーキ。
雪を表現した粉砂糖には、特別に細かく砕いた氷砂糖を加えてあった。半透明の粒は光を反射し、周囲にセンス良く配置されたベリーと見た目の相性も良い。ナパージュと呼ばれる、果物に施されているジェリー状のコーティングとよく合っていた。
「予定どおりに出せそうですね」
「ああ」
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