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第二十九話 はじめてのお出掛け『身も心も』②
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目を瞑ったまま数秒経った。
何もされない、何も起きない。
ふと鬼崎がどこかに行ってしまったのではないかと焦りが込み上げた。それ程までに男は静かだった。
けれど、左頬に小さな震えを感じ取り、はっとして目を開けた。
鬼崎は俯いて黙り込んでいた。その顔を見て、自分がいかに無神経なことを言ってしまったのかを理解する。
林田は男の震える手を握った。
「ごめんなさい」
男の口が開く様子は無い。手を振り払われないのが唯一の救いだった。
「ごめんなさい」
男の大きな手のひらに頬を擦り寄せる。
「聞いて、鬼崎さん」
林田は返事を返さない男へ喋りかけた。
「俺ね、すっごく鬼崎さんのこと好きみたい。自分で思ってたよりもずっとずっと。だからね・・・だから・・・ひぐっ」
言葉に嗚咽が混じり、鼻をすする。
「だから、怖い」
しゃっくりを上げながら、その一言を絞り出した。
そこではじめて鬼崎はピクリと反応する。
「怖い?」
林田は「うん」と頷いただけで、あとは嗚咽をあげ続けていた。やがて鬼崎はゆっくりとため息をつく。
それが呆れられたように思えて、無性に悲しくなった。自分はちゃんと言葉に出して伝えたのに、蔑ろにされた気がして悲しい。
やっぱりこの男にとっては自分はその程度の人間なんだろうと・・・
だが「こっちを見て」と言われ見上げた先で、鬼崎は泣きそうな顔をしていて、林田はあっと息を呑んだ。
「また君を傷付けてしまったのかと思った」
林田と目が合った瞬間に、男はそう言った。
「そんなわけないじゃん!」
言葉に出るのと同時に、林田は男の首に抱きついていた。
同じなんだと思った。この男の眉間に刻まれた苦悶の深さを自分は知らないわけじゃない。自分もこの人も同じものを抱えている。
林田は「蓮太郎」と鬼崎の開きかけた口に唇を押し当てて塞いだ。
「もう『すまない』なんて言わないで、もう謝らなくていい」
笑ってあげようと思ったけれど、上手く笑えない。本当にそうじゃないんだと、林田は顔を曇らせて下を向いた。
「俺が怖いって言ったのは鬼崎さんのことじゃないよ。・・・それに、知ってるでしょ?俺にとっては、鬼崎さんから与えられるものは何だって嬉しいんだよ。痛いのも、苦しいのも、恥ずかしいのも何だって」
今度は声が震えた。自分の中にある言いようのない不安と、この男への途方も無い愛情。でもそれを何て言い表したらいいのかカケラも思い付かない。
鬼崎の大きな手のひらが林田の後頭部を包み、そっとキスを返される。柔らかく慈しむようなそれを林田は目を閉じて受け止めた。
「ん・・ふっ・・鬼崎さんも気持ちいい?」
「当たり前だろ」
温かい、気持ちいい、身体に流れ込んでくる直接的な感覚。頭でごちゃごちゃ考えている事とは関係なく、身体は正直にこの男を求めて反応する。
そんなもの無くてもと思うのに、感じてしまう自分が憎らしい。
「蓮太郎?」
鬼崎が林田の頬を拭う。その手に自分の手を重ねた。
「いっぱいにして、もっと。何も考える余裕が無いくらい」
不安なんて入る余地が無いくらい、俺の全てを支配して、縛って、それ以上の快楽を注いでほしい・・。
注文を終え、ウェイターが会釈をして立ち去る。その姿を作り笑いで見送った。
「俺が適当に頼んでしまったけれど、良かったかな?」
正面の男は穏やかに微笑む。
「うん・・いいよ、よく分からないから」
真っ白に統一されたテーブルクロスと皿、それを囲うように並ぶ銀のカトラリー。曇りひとつ無く磨かれたワイングラス。
「ランチタイムだから、そんなにかしこまらなくても大丈夫だよ」
そうは言われてもだ。
こんな高級そうな店には初めて入った。パノラマサイズの大きな窓から程よく陽が差して、窓際は優雅に食事を楽しむ客で満席だ。
その一番奥のテーブルに自分たちはついている。端っこにしてくれたのはこの男の配慮なのかもしれないが、自分の今の状態が場違い過ぎて頭がくらくらする。
「緊張しているのかい?」
林田は黙って頷いた。着慣れないジャケットのボタンを落ち着きなさげに触る。かろうじて、この場に合うとしたら服装くらいだ。
林田の服はまた一式、取り替えられていた。新しくオープンしたフレンチレストランに連れて行きたいからと、雰囲気に沿うように鬼崎が選んでくれたものだ。
店内に聞こえるのはフォークとナイフが擦れ合う音と、上品な笑い声だけ。少しでも変な音が鳴れば、店中に響き渡ってしまうだろう。
きっとあえてこの店を選んだのだ、俺のために。
テーブルに前菜が運ばれてきた。林田は不自然に思われないように姿勢を正す。ウェイターがすぐ脇まで近寄り、皿をセッティングしてくれる。
今にも心臓が飛び出そうだ。
「ひっ・・」
「どうされましたか?」
目の前に座る男は悠然とグラスを手にしている。
「すみません、何でもないです」
ウェイターが去った後に、静かに眠ったようなそれを腹の上から撫でた。
林田は緊張感と焦りの中にあるスリルに似た痺れをぞくりと感じ取る。最初に注文を受けに来たウェイターにも、振動音が聞こえていたんじゃないかと気が気ではない。
「とてもいい顔だ」
鬼崎の目が怪しげに細められた。
「最後まで楽しんでくれ蓮太郎、俺の店のデセールは格別だよ」
何もされない、何も起きない。
ふと鬼崎がどこかに行ってしまったのではないかと焦りが込み上げた。それ程までに男は静かだった。
けれど、左頬に小さな震えを感じ取り、はっとして目を開けた。
鬼崎は俯いて黙り込んでいた。その顔を見て、自分がいかに無神経なことを言ってしまったのかを理解する。
林田は男の震える手を握った。
「ごめんなさい」
男の口が開く様子は無い。手を振り払われないのが唯一の救いだった。
「ごめんなさい」
男の大きな手のひらに頬を擦り寄せる。
「聞いて、鬼崎さん」
林田は返事を返さない男へ喋りかけた。
「俺ね、すっごく鬼崎さんのこと好きみたい。自分で思ってたよりもずっとずっと。だからね・・・だから・・・ひぐっ」
言葉に嗚咽が混じり、鼻をすする。
「だから、怖い」
しゃっくりを上げながら、その一言を絞り出した。
そこではじめて鬼崎はピクリと反応する。
「怖い?」
林田は「うん」と頷いただけで、あとは嗚咽をあげ続けていた。やがて鬼崎はゆっくりとため息をつく。
それが呆れられたように思えて、無性に悲しくなった。自分はちゃんと言葉に出して伝えたのに、蔑ろにされた気がして悲しい。
やっぱりこの男にとっては自分はその程度の人間なんだろうと・・・
だが「こっちを見て」と言われ見上げた先で、鬼崎は泣きそうな顔をしていて、林田はあっと息を呑んだ。
「また君を傷付けてしまったのかと思った」
林田と目が合った瞬間に、男はそう言った。
「そんなわけないじゃん!」
言葉に出るのと同時に、林田は男の首に抱きついていた。
同じなんだと思った。この男の眉間に刻まれた苦悶の深さを自分は知らないわけじゃない。自分もこの人も同じものを抱えている。
林田は「蓮太郎」と鬼崎の開きかけた口に唇を押し当てて塞いだ。
「もう『すまない』なんて言わないで、もう謝らなくていい」
笑ってあげようと思ったけれど、上手く笑えない。本当にそうじゃないんだと、林田は顔を曇らせて下を向いた。
「俺が怖いって言ったのは鬼崎さんのことじゃないよ。・・・それに、知ってるでしょ?俺にとっては、鬼崎さんから与えられるものは何だって嬉しいんだよ。痛いのも、苦しいのも、恥ずかしいのも何だって」
今度は声が震えた。自分の中にある言いようのない不安と、この男への途方も無い愛情。でもそれを何て言い表したらいいのかカケラも思い付かない。
鬼崎の大きな手のひらが林田の後頭部を包み、そっとキスを返される。柔らかく慈しむようなそれを林田は目を閉じて受け止めた。
「ん・・ふっ・・鬼崎さんも気持ちいい?」
「当たり前だろ」
温かい、気持ちいい、身体に流れ込んでくる直接的な感覚。頭でごちゃごちゃ考えている事とは関係なく、身体は正直にこの男を求めて反応する。
そんなもの無くてもと思うのに、感じてしまう自分が憎らしい。
「蓮太郎?」
鬼崎が林田の頬を拭う。その手に自分の手を重ねた。
「いっぱいにして、もっと。何も考える余裕が無いくらい」
不安なんて入る余地が無いくらい、俺の全てを支配して、縛って、それ以上の快楽を注いでほしい・・。
注文を終え、ウェイターが会釈をして立ち去る。その姿を作り笑いで見送った。
「俺が適当に頼んでしまったけれど、良かったかな?」
正面の男は穏やかに微笑む。
「うん・・いいよ、よく分からないから」
真っ白に統一されたテーブルクロスと皿、それを囲うように並ぶ銀のカトラリー。曇りひとつ無く磨かれたワイングラス。
「ランチタイムだから、そんなにかしこまらなくても大丈夫だよ」
そうは言われてもだ。
こんな高級そうな店には初めて入った。パノラマサイズの大きな窓から程よく陽が差して、窓際は優雅に食事を楽しむ客で満席だ。
その一番奥のテーブルに自分たちはついている。端っこにしてくれたのはこの男の配慮なのかもしれないが、自分の今の状態が場違い過ぎて頭がくらくらする。
「緊張しているのかい?」
林田は黙って頷いた。着慣れないジャケットのボタンを落ち着きなさげに触る。かろうじて、この場に合うとしたら服装くらいだ。
林田の服はまた一式、取り替えられていた。新しくオープンしたフレンチレストランに連れて行きたいからと、雰囲気に沿うように鬼崎が選んでくれたものだ。
店内に聞こえるのはフォークとナイフが擦れ合う音と、上品な笑い声だけ。少しでも変な音が鳴れば、店中に響き渡ってしまうだろう。
きっとあえてこの店を選んだのだ、俺のために。
テーブルに前菜が運ばれてきた。林田は不自然に思われないように姿勢を正す。ウェイターがすぐ脇まで近寄り、皿をセッティングしてくれる。
今にも心臓が飛び出そうだ。
「ひっ・・」
「どうされましたか?」
目の前に座る男は悠然とグラスを手にしている。
「すみません、何でもないです」
ウェイターが去った後に、静かに眠ったようなそれを腹の上から撫でた。
林田は緊張感と焦りの中にあるスリルに似た痺れをぞくりと感じ取る。最初に注文を受けに来たウェイターにも、振動音が聞こえていたんじゃないかと気が気ではない。
「とてもいい顔だ」
鬼崎の目が怪しげに細められた。
「最後まで楽しんでくれ蓮太郎、俺の店のデセールは格別だよ」
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