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第七話 桜の木と首輪②
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ドクン、ドクン、ドクン
まだ心臓の音がうるさい。
林田は男の家から完全に見えないところまで走り、自転車を降りた。緊張感の抜けない顔は強張っていて険しく、頬っぺたが岩にでもなったかのようにピクリとも動かない。きっと今笑えと言われても、一億円積まれたって無理だろう。
だがそれも仕方がない、俺の精神状態は未だかつてなく異常事態なのだから。
林田はパーカーのポケットに収まっている例のモノをやんわり手で触った。しなりのある輪っか状のそれ。首輪をこんなにじっくり触るのは初めてだった。表面は滑らかですべすべ、所々触れる凹凸を指で弄ぶとカチャカチャと小さく金属音がした。
ポケットから取り出して首輪を見下ろす。手渡されるままに、つい持ってきてしまった。自分が置かれているどん底の環境とこれを受け入れることによるメリット、二つを比べる天秤は林田の心の中でどっち付かずに揺れていた。
首輪なんて形はベルトと同じ、お洒落でこんなのを首にしてる人だっている。楽観的に捉えれば、大した事ないんじゃないかと思えてくる。引き換えにタダで約束される綺麗で暖かい生活、それを目の前にして捨てる事など勿体無くて出来ない。
男の素振りは全てにおいて優しかった。たとえ、このような趣味があっても乱暴にされたりはしないだろう、あの優しさが見せかけじゃなかったらの話だが・・・
「ワン!ワン!」
林田はハッとして顔を上げる、急いで首輪をポケットに突っ込んだ。散歩中の柴犬とすれ違う、大きく開けた口に舌をベロリと出して、食い気味にリードを引っ張る様子を遠い目で眺めた。
待って、アレに俺もなるの?
嫌々無理でしょ、普通じゃない。林田の中の天秤がじりじりと首輪とは反対に傾いていく。
危なかった、危うく安易な考えに流されてしまうところだった。
あの男は「ペットになれ」と言った、他がどんなに素晴らしい条件でも、了承した瞬間に俺は人間としてのプライドを捨てる事になるのだ。
返事の期限は二週間、このまま放っておけばいい、何も言わずとも勝手に諦めてくれる。あんな失礼な奴にもう会わなくて済むと思うと、林田は心からせいせいした。
自転車はいつもの土手沿いまで来ていた。この場所にも飼い主と犬の姿がちらほらと見受けられる。
林田は徐にポケットに手を入れ、首輪を掴み、思い切り川に向かって放り投げた。ボールや石ころと勘違いした飼い犬たちが、目を輝かせてそれを追う。
林田はその姿を一瞥してすぐに背を向けた。
首輪が吸い込まれた水面は変わらずに静かに流れ続ける。最初からポケットには何も入ってなかった、そう思うことにする。
せっかく割いた時間をロスしてしまった分、帰る前にあと一件だけ不動産屋に行こう。
葉も花も無く丸裸の桜の木は寂しげに土手沿いに佇む。その横を振り向きもせずに通り過ぎた。
この木が満開を迎える時、自分はどんな顔でここに立っているのだろう。その頃にはもう、この道を通る事さえ叶わないのかもしれない。前を向こうとしても、どうしても沈んでしまう気持ち。
林田は暗い顔でペダルを漕いだ。
あれから二週間、男からの音沙汰は無い。自分の連絡先は教えてないのだから当然なのだが。
引っ越し先探しの方も進展は無しだった。堂々巡りの日々にまたのめり込む、懐の寂しさか、不安の現れか、心なしか手足が冷たく感じた。
今俺の持つ運を総動員しても、この状況は打破出来ないみたいだ。
捨ててしまった首輪の感触を思い出し、今更ながらに惜しい事をしたなと後悔する。終わった話だから、そう思うだけかもしれないけれど、心身共に弱り果て誰かに縋りたい気持ちでいっぱいだった。
林田はスマートフォンの検索画面を開き、一文字一文字、躊躇いがちに打ち込む。
「おっす」
突然頭上から降って来た声に大きく肩が跳ねて、慌てて画面を閉じた。
「こそこそ何やってんの?」
「・・なんでも無いよ」
いけない、大学の講義室である事をすっかり忘れていた。楠木が隣の席に座る。
「林田さぁ」
鞄の中を漁る楠木がやけに深刻そうに言う。
「なに?」
楠木は机に筆記具を並べながら言葉を選んでいるように見えた。必要以上に長い沈黙に林田は嫌な汗をかく。
授業道具を全て出し終え、楠木は重い口を開いた。
「今日飲み会来れる?」
「・・・は?」
腹が立つ程に的外れの質問、縮み上がっていた身体が椅子からずり落ちた。ドキドキさせられた時間を返せと楠木を睨む。
「えっ、何?人数足りなくて困ってるんだよ」
心底どうでもいい内容なのに、何故か楠木の声色は変わらない。林田は不思議に思ったが首を横に振る。
「無理、行けない」
「そうだよなぁ」
必死に稼いだアルバイト代を飲み会のために使いたくはない、毎日身を切る思いで節約をして貯金しているのだ。それでも少しだけ、肩を落とす楠木に申し訳ない気持ちが湧く。
「人数が揃わないとそんなにマズいの?」
「いやぁ、それがさ」
勿体つける言い方に林田は怪訝な顔をした。
「ごめんって」
楠木は頭を掻き、「実は」と切り出す。どうやら話によると、飲み会の幹事の女を楠木は狙っているようで、その子に「人が足りない」と泣き付かれたらしい。
「それで良いところを見せようってわけね」
「ソウデス、実は一回フラれてて、なんとか挽回できないかなって思ったんだけど」
心を鬼にして飲み会を断り続けて来たけれど、理由が分かってしまった今、困っている友人を見て見ぬふりして見捨てるほど冷酷にはなれない。
林田は「仕方ないな」とため息をついた。泣けなしのバイト代をはたく覚悟をする。講義室中に響き渡る声で「ありがとう」と叫ぶ楠木を、なんとも言えない眼差しで見つめた。
まだ心臓の音がうるさい。
林田は男の家から完全に見えないところまで走り、自転車を降りた。緊張感の抜けない顔は強張っていて険しく、頬っぺたが岩にでもなったかのようにピクリとも動かない。きっと今笑えと言われても、一億円積まれたって無理だろう。
だがそれも仕方がない、俺の精神状態は未だかつてなく異常事態なのだから。
林田はパーカーのポケットに収まっている例のモノをやんわり手で触った。しなりのある輪っか状のそれ。首輪をこんなにじっくり触るのは初めてだった。表面は滑らかですべすべ、所々触れる凹凸を指で弄ぶとカチャカチャと小さく金属音がした。
ポケットから取り出して首輪を見下ろす。手渡されるままに、つい持ってきてしまった。自分が置かれているどん底の環境とこれを受け入れることによるメリット、二つを比べる天秤は林田の心の中でどっち付かずに揺れていた。
首輪なんて形はベルトと同じ、お洒落でこんなのを首にしてる人だっている。楽観的に捉えれば、大した事ないんじゃないかと思えてくる。引き換えにタダで約束される綺麗で暖かい生活、それを目の前にして捨てる事など勿体無くて出来ない。
男の素振りは全てにおいて優しかった。たとえ、このような趣味があっても乱暴にされたりはしないだろう、あの優しさが見せかけじゃなかったらの話だが・・・
「ワン!ワン!」
林田はハッとして顔を上げる、急いで首輪をポケットに突っ込んだ。散歩中の柴犬とすれ違う、大きく開けた口に舌をベロリと出して、食い気味にリードを引っ張る様子を遠い目で眺めた。
待って、アレに俺もなるの?
嫌々無理でしょ、普通じゃない。林田の中の天秤がじりじりと首輪とは反対に傾いていく。
危なかった、危うく安易な考えに流されてしまうところだった。
あの男は「ペットになれ」と言った、他がどんなに素晴らしい条件でも、了承した瞬間に俺は人間としてのプライドを捨てる事になるのだ。
返事の期限は二週間、このまま放っておけばいい、何も言わずとも勝手に諦めてくれる。あんな失礼な奴にもう会わなくて済むと思うと、林田は心からせいせいした。
自転車はいつもの土手沿いまで来ていた。この場所にも飼い主と犬の姿がちらほらと見受けられる。
林田は徐にポケットに手を入れ、首輪を掴み、思い切り川に向かって放り投げた。ボールや石ころと勘違いした飼い犬たちが、目を輝かせてそれを追う。
林田はその姿を一瞥してすぐに背を向けた。
首輪が吸い込まれた水面は変わらずに静かに流れ続ける。最初からポケットには何も入ってなかった、そう思うことにする。
せっかく割いた時間をロスしてしまった分、帰る前にあと一件だけ不動産屋に行こう。
葉も花も無く丸裸の桜の木は寂しげに土手沿いに佇む。その横を振り向きもせずに通り過ぎた。
この木が満開を迎える時、自分はどんな顔でここに立っているのだろう。その頃にはもう、この道を通る事さえ叶わないのかもしれない。前を向こうとしても、どうしても沈んでしまう気持ち。
林田は暗い顔でペダルを漕いだ。
あれから二週間、男からの音沙汰は無い。自分の連絡先は教えてないのだから当然なのだが。
引っ越し先探しの方も進展は無しだった。堂々巡りの日々にまたのめり込む、懐の寂しさか、不安の現れか、心なしか手足が冷たく感じた。
今俺の持つ運を総動員しても、この状況は打破出来ないみたいだ。
捨ててしまった首輪の感触を思い出し、今更ながらに惜しい事をしたなと後悔する。終わった話だから、そう思うだけかもしれないけれど、心身共に弱り果て誰かに縋りたい気持ちでいっぱいだった。
林田はスマートフォンの検索画面を開き、一文字一文字、躊躇いがちに打ち込む。
「おっす」
突然頭上から降って来た声に大きく肩が跳ねて、慌てて画面を閉じた。
「こそこそ何やってんの?」
「・・なんでも無いよ」
いけない、大学の講義室である事をすっかり忘れていた。楠木が隣の席に座る。
「林田さぁ」
鞄の中を漁る楠木がやけに深刻そうに言う。
「なに?」
楠木は机に筆記具を並べながら言葉を選んでいるように見えた。必要以上に長い沈黙に林田は嫌な汗をかく。
授業道具を全て出し終え、楠木は重い口を開いた。
「今日飲み会来れる?」
「・・・は?」
腹が立つ程に的外れの質問、縮み上がっていた身体が椅子からずり落ちた。ドキドキさせられた時間を返せと楠木を睨む。
「えっ、何?人数足りなくて困ってるんだよ」
心底どうでもいい内容なのに、何故か楠木の声色は変わらない。林田は不思議に思ったが首を横に振る。
「無理、行けない」
「そうだよなぁ」
必死に稼いだアルバイト代を飲み会のために使いたくはない、毎日身を切る思いで節約をして貯金しているのだ。それでも少しだけ、肩を落とす楠木に申し訳ない気持ちが湧く。
「人数が揃わないとそんなにマズいの?」
「いやぁ、それがさ」
勿体つける言い方に林田は怪訝な顔をした。
「ごめんって」
楠木は頭を掻き、「実は」と切り出す。どうやら話によると、飲み会の幹事の女を楠木は狙っているようで、その子に「人が足りない」と泣き付かれたらしい。
「それで良いところを見せようってわけね」
「ソウデス、実は一回フラれてて、なんとか挽回できないかなって思ったんだけど」
心を鬼にして飲み会を断り続けて来たけれど、理由が分かってしまった今、困っている友人を見て見ぬふりして見捨てるほど冷酷にはなれない。
林田は「仕方ないな」とため息をついた。泣けなしのバイト代をはたく覚悟をする。講義室中に響き渡る声で「ありがとう」と叫ぶ楠木を、なんとも言えない眼差しで見つめた。
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