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第六話 桜の木と首輪①
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ソファに横たえられて、薄いブランケットが掛けてあった。リビングの窓から入る風が心地よくて、そちらに顔を動かす、横を向くと額の上の濡れタオルがぽとりと落ちた。
シャワーを浴びる遠い音が聞こえる。林田は自分のパンツをこっそり覗いた。先程までのと柄が違う・・、林田の身体はすでに綺麗に整えられていた。気を失っている間に洗われて拭かれて着替えまで、羞恥心に苛まれつつ、男の気遣いに「へへ」と笑った。
そういえば、鬼崎と出会った時も風が吹いていた。でもその風は今よりずっと冷たくて擦り切れるように痛かった。
まだ桜の木に花が咲く前の冬の終わり。
林田は苦渋の選択を迫られていた。良くある話だが、親が突然リストラされて家族は露頭に迷う寸前だった。当然、大学に払えるお金も仕送りもゼロになった。
退学、その二文字が重くのしかかる。でも林田にはどうしても諦められない夢があった。アルバイトを増やし、自分の力だけで卒業すると親を説得して、何とか大学に残ることが出来た。
それまで親の脛をかじってやれていた事を全て見直さないといけない。一番に考えたのは住む場所だった。可能な限り安い家賃の部屋を探すために、掛け持ちしたアルバイトの合間を縫って、不動産屋を梯子した。
けれど家賃が下がれば、物件の古さも設備も治安だって悪くなる、ここで直面する現実に打ちのめされた。
一軒家と小綺麗なマンションにしか住んだ経験の無い林田は、希望の条件と家賃の折り合いが付けられずに、営業マンに迷惑顔をされて帰される事もしばしばあった。
駅前の不動産屋に六度目の門前払いを食らった日、肩を落として自転車を押した。これからの人生が不安で前に進むのが怖かった。
赤信号が青に変わっても、一人だけその場から動けなかった。ついこの前までは同じだと思っていた人々が、どんどんと自分を追い越して去っていく。
疎外感、孤独感、どう表現すべきかは分からないけど、一人ぼっちで心が潰れそうだった。
肩に手が置かれて振り向いたのは、その時だった。
「信号、もう三回くらい変わってるよ?」
涙で濡れた林田を見て男は驚いた顔をした。
林田が慌てて自転車を前に押すと、腕が掴まれ、「まだ赤だよ」と困ったように笑った。
男と二人で信号を渡り、その先も横に並ぶ形で歩いた。
「部屋を探してるの?」
唐突に切り出された話題、何で知ってるんだろうと思いながら頷いた。男はしばらく何も喋らなくなって、この話題はそれで終わったんだと林田も黙り込んだ。
「いい物件があるんだけど、たぶん君も気に入ると思う」
その声に顔を上げた。男に連れて行かれた場所は大学から自転車で二十分、いい立地だった。普通の二階建ての一軒家、ぱっと見はそんな印象で、人の家に上がるような緊張感が少しだけした。
玄関のすぐ前に階段があり、廊下の奥にリビングとキッチンに入るドア、その途中に浴室とトイレがあった。二階は十畳くらいの部屋が三つ、どの部屋にも家具や家電が揃っているのが気になった。
「ここは俺が住んでいる家なんだ、でも一人きりだと広過ぎて、人に貸すか売りに出そうと思ってたんだ。約束してた不動産屋で君を見かけた。何やら揉めてたみたいだから」
見られてたなんて恥ずかしい、林田は赤面して俯いた。
「君が住んでくれるなら、不動産屋は断るよ」
「あなたはどうするんですか?」
「俺も一緒にここで暮らすよ、ルームシェアだと思ってくれればいいから」
「・・・ルームシェア」
部屋は沢山あるし、男同士で風呂やトイレを共有することは普通にある。今まで紹介されていたボロアパートに比べたら、天と地ほどの優良物件だ。
あと問題があるとすれば。
「家賃はいくらですか・・その、揉めてたの聞いてたのなら知ってると思いますけど、あまり高い家賃は支払えません」
これまでの部屋探しで一番ネックになった条件、散々これに阻まれてきた。
男は窓際から庭を眺めて目を細めた。
「タダでいいよ」
男の口から放たれた言葉にぽかんとしてしまった、そんなの余りにも現実的じゃない。
「家賃は要らないって言ったんだよ」
男はもう一度繰り返す。
「ここに住んでもらうのは俺の我儘みたいなものだし・・・ああ、一つだけ」
取って付けたような言い方、だがこれが本題なのだとすぐに分かった。男の目線の先の小さな犬小屋、それを指差して男はこちらを向いた。
「ペットが欲しいと思ってたんだ」
一瞬訳がわからずに首を傾げた。すぐにサッと血の気が引く。それでも一縷の望みをかけて、低い可能性を提示する。
「一緒に何か飼いたいって事ですか?」
「違うよ」
男は静かに否定した。
「君がペットになるんだよ」
何をどうしたらそう思えるんだろう、イカれてる。
俺だけじゃなくて一般論としての見解だ。林田はじりじりと男から距離を取った、すぐに逃げ出せるように入り口前を確保する。
「大丈夫、何もしないよ、ちょっと下に降りようか」
数歩分距離を開けて慎重に階段を降りる。リビングに戻ると、男は戸棚を左から順に開けて何かを探している。
林田は帰るに帰れずにソファに座って男を待った。
「あった、あった」
俯いていた林田の顔の前に何かが差し出された。
林田はごくりと唾を飲み込む。それは桜の葉を思わせる深い緑色をした、革製の大型犬用の首輪だった。
「気に入らなかったら、別のを買ってもいいし」
男は前にしゃがみ込み、穏やかに微笑んだ。
「この条件を飲むか飲まないかは君次第だから、決心がついたら連絡して。二週間だけ返事を待つよ」
淡々と語られる内容に林田は膝の上で拳を握り締める。冷や汗が背中を伝った、この男は本気で俺をペットにしようとしている。
それなのに、警戒すべき相手としては似つかわしくない優しい物言いと表情。
この男は何なんだ・・困惑した林田は男の言葉に黙って頷くしかなかった。
シャワーを浴びる遠い音が聞こえる。林田は自分のパンツをこっそり覗いた。先程までのと柄が違う・・、林田の身体はすでに綺麗に整えられていた。気を失っている間に洗われて拭かれて着替えまで、羞恥心に苛まれつつ、男の気遣いに「へへ」と笑った。
そういえば、鬼崎と出会った時も風が吹いていた。でもその風は今よりずっと冷たくて擦り切れるように痛かった。
まだ桜の木に花が咲く前の冬の終わり。
林田は苦渋の選択を迫られていた。良くある話だが、親が突然リストラされて家族は露頭に迷う寸前だった。当然、大学に払えるお金も仕送りもゼロになった。
退学、その二文字が重くのしかかる。でも林田にはどうしても諦められない夢があった。アルバイトを増やし、自分の力だけで卒業すると親を説得して、何とか大学に残ることが出来た。
それまで親の脛をかじってやれていた事を全て見直さないといけない。一番に考えたのは住む場所だった。可能な限り安い家賃の部屋を探すために、掛け持ちしたアルバイトの合間を縫って、不動産屋を梯子した。
けれど家賃が下がれば、物件の古さも設備も治安だって悪くなる、ここで直面する現実に打ちのめされた。
一軒家と小綺麗なマンションにしか住んだ経験の無い林田は、希望の条件と家賃の折り合いが付けられずに、営業マンに迷惑顔をされて帰される事もしばしばあった。
駅前の不動産屋に六度目の門前払いを食らった日、肩を落として自転車を押した。これからの人生が不安で前に進むのが怖かった。
赤信号が青に変わっても、一人だけその場から動けなかった。ついこの前までは同じだと思っていた人々が、どんどんと自分を追い越して去っていく。
疎外感、孤独感、どう表現すべきかは分からないけど、一人ぼっちで心が潰れそうだった。
肩に手が置かれて振り向いたのは、その時だった。
「信号、もう三回くらい変わってるよ?」
涙で濡れた林田を見て男は驚いた顔をした。
林田が慌てて自転車を前に押すと、腕が掴まれ、「まだ赤だよ」と困ったように笑った。
男と二人で信号を渡り、その先も横に並ぶ形で歩いた。
「部屋を探してるの?」
唐突に切り出された話題、何で知ってるんだろうと思いながら頷いた。男はしばらく何も喋らなくなって、この話題はそれで終わったんだと林田も黙り込んだ。
「いい物件があるんだけど、たぶん君も気に入ると思う」
その声に顔を上げた。男に連れて行かれた場所は大学から自転車で二十分、いい立地だった。普通の二階建ての一軒家、ぱっと見はそんな印象で、人の家に上がるような緊張感が少しだけした。
玄関のすぐ前に階段があり、廊下の奥にリビングとキッチンに入るドア、その途中に浴室とトイレがあった。二階は十畳くらいの部屋が三つ、どの部屋にも家具や家電が揃っているのが気になった。
「ここは俺が住んでいる家なんだ、でも一人きりだと広過ぎて、人に貸すか売りに出そうと思ってたんだ。約束してた不動産屋で君を見かけた。何やら揉めてたみたいだから」
見られてたなんて恥ずかしい、林田は赤面して俯いた。
「君が住んでくれるなら、不動産屋は断るよ」
「あなたはどうするんですか?」
「俺も一緒にここで暮らすよ、ルームシェアだと思ってくれればいいから」
「・・・ルームシェア」
部屋は沢山あるし、男同士で風呂やトイレを共有することは普通にある。今まで紹介されていたボロアパートに比べたら、天と地ほどの優良物件だ。
あと問題があるとすれば。
「家賃はいくらですか・・その、揉めてたの聞いてたのなら知ってると思いますけど、あまり高い家賃は支払えません」
これまでの部屋探しで一番ネックになった条件、散々これに阻まれてきた。
男は窓際から庭を眺めて目を細めた。
「タダでいいよ」
男の口から放たれた言葉にぽかんとしてしまった、そんなの余りにも現実的じゃない。
「家賃は要らないって言ったんだよ」
男はもう一度繰り返す。
「ここに住んでもらうのは俺の我儘みたいなものだし・・・ああ、一つだけ」
取って付けたような言い方、だがこれが本題なのだとすぐに分かった。男の目線の先の小さな犬小屋、それを指差して男はこちらを向いた。
「ペットが欲しいと思ってたんだ」
一瞬訳がわからずに首を傾げた。すぐにサッと血の気が引く。それでも一縷の望みをかけて、低い可能性を提示する。
「一緒に何か飼いたいって事ですか?」
「違うよ」
男は静かに否定した。
「君がペットになるんだよ」
何をどうしたらそう思えるんだろう、イカれてる。
俺だけじゃなくて一般論としての見解だ。林田はじりじりと男から距離を取った、すぐに逃げ出せるように入り口前を確保する。
「大丈夫、何もしないよ、ちょっと下に降りようか」
数歩分距離を開けて慎重に階段を降りる。リビングに戻ると、男は戸棚を左から順に開けて何かを探している。
林田は帰るに帰れずにソファに座って男を待った。
「あった、あった」
俯いていた林田の顔の前に何かが差し出された。
林田はごくりと唾を飲み込む。それは桜の葉を思わせる深い緑色をした、革製の大型犬用の首輪だった。
「気に入らなかったら、別のを買ってもいいし」
男は前にしゃがみ込み、穏やかに微笑んだ。
「この条件を飲むか飲まないかは君次第だから、決心がついたら連絡して。二週間だけ返事を待つよ」
淡々と語られる内容に林田は膝の上で拳を握り締める。冷や汗が背中を伝った、この男は本気で俺をペットにしようとしている。
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