ご主人様(♂)とルームシェア

倉藤

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第一話 二つのマグカップ①

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 お手と目の前に差し出された手のひら。こうすれば喜んでくれると分かっているから、素直にそこに右手をのせる。次の命令を予見して言われる前に左の手を少し浮かした。

「ふふ、蓮太郎は賢いね。はい、おかわり」

 嬉しいを表現する尻尾は無い、言葉も出せない、返事の代わりに左手をのせてじっと見つめた。すると優しい手が頭を撫でてくれる。
 男は口元に笑みを浮かべて満足したように立ち上がった。

「じゃあ、いってくるね」

 男が部屋を出て行くのをその場で見送る。玄関で靴を履く音、ドアが開けて閉められる音が聞こえて、窓から男が駅の方向へ歩いて行ったのを見届けた。
 林田蓮太郎ハヤシダレンタロウは首輪を慣れた手つきで外す。この家に居る間は俺はペット、たぶん犬。もちろん自分で望んだことじゃない、ここの主で、ルームメイトで、そして俺のご主人様である鬼崎亮平キザキリョウヘイという男がここに住む代わりに提示した条件だ・・・。
 林田は手早く支度を済ませて自分も家を出た。玄関前に停めた自転車に跨り、思い切りペダルを漕ぐ。今日は天気が良い、追い風が自転車の背を押して、ぐんぐんスピードが上がった。
 途中に通り過ぎる桜の木はこの前散ってしまったばかり、道路に残された花びらが風で舞い上がって、一枚林田のマウンテンパーカーの肩にふわりと乗っかった。それを指で摘んで、ふぅと息を吹きかける。くるくると再び舞い上がった花びらは、今度はどこにも捕まらずに青い空に飛んでいった。
 近くの小学校のチャイムが鳴る。「やばっ」と口にして、林田は慌ててペダルに足をかけた。この先は信号は一つだけ、遠くに見えたそれは青信号、土手沿いの道を進み、そのまま大学の正門を駆け抜けて駐輪場まで止まらずに走った。

「おはよー」

「今日は間に合ったな」

 友人の楠木大地クスノキダイチはニヤリと笑う。その横に崩れるように腰掛け、大きく息を吸った。

「死ぬ・・・」

 全力疾走した時と同じ苦しさに顔が歪む。そんな林田に、呆れたような面白いような変な顔をして楠木は肩をすくめた。
 大学の講義は難しくて眠くなるけど、つまらなくはない、これでも真面目に法律の勉強をしている。眠くなる理由は他にもあって、大学の高額な授業料と生活費を捻出するために、アルバイトを掛け持ちしているから。

「そういや、お前最近どうなの?鬼崎さんと」

「え・・変わらずだよ」

「ふーん、変な人だよなあ」

 自分から聞いてきたくせに、楠木は他人事と言った様子で呑気に頬杖をつく。楠木にだけは全てを話してある。ペットとして家に住まわせて貰ってるなんて引くかと思われたが、予想外に聞いた途端、大笑いをして受け入れてくれた。まぁ興味が無いだけかもしれないが、それでもコイツに話して良かったと思った。
 この日の講義は午前中に一コマ、午後イチに一コマ、それだけで早く終わる。本当はその後にもう一コマあったのだが、先程休講になったと掲示されていた。アルバイトまでに時間が空いた、突然出来た暇な時間に林田は首を捻る。
 楠木は彼女に会うために意気揚々とスマートフォンにメッセージを打ち込んでいる最中だ。学食のカレーの上にため息が落ちた。画面と睨めっこをしている楠木を一人残して、早々にカレーを掻き込み席を立った。
 林田は講義を終え、大学を適当にふらつく。たまっていたレポートでもやろうかと思ったが、こんな時に限って図書館は満員で、全然集中できずに五分で外に出た。
 仕方なく帰路に着く。のろのろと自転車を押して歩くと、いつもは猛スピードで通り過ぎていた大学近くが、思っていたよりも栄えていたんだと気がついた。
 郊外のキャンパスらしく自然溢れる景色の中に、若者向けのカフェや雑貨屋が軒を連ねる。女子たちがざわざわと並んでいる一番後ろに楠木を見つけた。暇つぶしに、彼女の横でだらしなく呆けている顔を写真に撮って送ってやった。
 自転車を一人寂しく押しながら、俺も彼女でも居ればな・・と空を仰ぐ、脳裏にポンと浮かんだ鬼崎の顔。いやいやと頭を振る。あの人は男、俺も男。ご主人様とペットというアブノーマルな関係だけど、それ以上はない。言葉通り、性的な事を求められた事は無いし、鬼崎からは頭を撫でる以外に触れられた事さえ無い。
 赤信号で立ち止まり、ぼんやりと前を眺める。交差点のちょうど向かいのショーウィンドウに、仲良く二つ、寄り添うように置かれたマグカップが目に入った。雑貨屋だろうか。普段は入らない雰囲気の店に、この時は自然と足が向いた。
 マグカップが二つ入った紙袋を大切に腕から下げて、林田は土手沿いの道を軽快に走った。つまらなかった気持ちがほんの少し晴れていた、身の回りの世話をしてもらっているお礼として渡そうと思った。喜んでくれたらいいな、単純にそれだけを期待して、家路を急ぐ。
 林田は家に紙袋を置くと時計を見た。結局、アルバイトの時間のぎりぎりになってしまった。水道の蛇口をひねり、コップ一杯の水を一気に飲み干すと、また慌ただしく外へ飛び出した。
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