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第三章

そして再び踏みつけられる

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 伊津は重たい意識の中で、覚えのあるイグサの匂いを嗅いだ。
 畳の匂いに身体の力が抜ける。

 ———いつのまに家に帰ってきたんだっけか。

 竜善丈太郎に話をしに行こうとして、丹野に迎えを頼んでいた。けれど待ち合わせ場所に現れたのは丹野じゃなかった。
 順番に記憶を整理して行くと、しだいに心臓が早鐘を打ち始めた。
 自分の置かれている状況は、決して良いものとはいえないだろう。
 ずきずきと痛む鳩尾と、無理やり眠らされた薬の後遺症で、船酔いのような吐き気がした。
 手首は後ろで一個まとめに拘束されており、うつ伏せから動けない。
 全てを総合して考えれば、自分は拉致されたのだ。信じたくないが。何者かにやられた。
 何者の仕業であるのかは、この畳の匂いが教えてくれている。

「最悪だ・・・・・・」

 伊津が出向こうと思っていたところを、あちらさんからお迎えに来てくださったらしい。
 そのタイミングの良さに、胸の内が不穏な感じにざらついた。

「お目覚めか。伊津向葵」

 ひゅうと喉が引き攣る。

「あんたは・・・清景さんっ」

 困惑する伊津を前にして、清景は不愉快そうに口を歪めた。

「若頭って呼んでくれよ。あの汚ねぇ野良鼠みてぇな本堂がいなければ、今も俺が若頭で、次期組長だったはずなんだからよ」

 重たい頭を持ち上げてよく見ると、清景の顔中には治りかけのあざが散らばっている。中でも右頬に食らった赤紫色の腫れが痛々しい。
 伊津が知っている清景の姿は、父親の威光のおこぼれを貰ってふんぞり返っていた。彼自身の偉業ではないのに偉そうで、むかつくが、伊津は一度も逆らえなった。
 本堂が若頭になり組内の勢力図が変わったのだ。自分を拉致したのは本堂を匿っていたからに他ならない。本堂の居場所を吐かせるためだ。
 好き勝手できなくなった腹いせに何をされるかわからないと伊津は予想する。けれど十年の月日は、互いに変化をもたらした。あの頃は敵無しだった清景が殴られた痕を晒して現れたように、伊津も以前とは違う。変わりたいと願っている。通り雨みたいに突然飛び込んできた本堂の存在が、変われなかった伊津を変えてくれた。

「いいや、あんたは清景さん・・・・だ。顔の傷はどうされたんですか」
「てめぇ、自分の立場がわかってんのか」
「いい感じに雑に拉致してくれたんで、おかげさまでよーく理解できてます」
「あーそうかよ、良かったなぁ。そのはったりもいつまで保つかねぇ?」

 清景は忌々しそうに伊津の前髪を掴んで上を向かせる。頭皮が引き攣れて痛んだ。

「っ、んなこと言ってますが知ってますよ。竜善組の組長は死にかけなんでしょう? 清景さんは父親の後ろ盾を失くすってことですよね。俺も・・・怯える相手はいなくなる。最後に俺はじじいをぶん殴ってやろうと思って来たんだ。ちょうど良かったよ。俺を変態みてぇな身体にしやがってクソ親子がっ!」

 伊津は唾を吐く。
 しかし清景はニタァと笑った。

「親父は元気だよ。残念だったなぁ。そりゃお前を油断させるために本堂が組のもんにつかせた嘘の情報だ。お前はあいつに騙されてんだよ。馬鹿だねぇ」
「なっ、・・・んでだよ」

 伊津は一撃で勢いを失った。胸が変な感じに苦しくなる。清景が伊津の前髪をさらに強く引っ張り、顔を近づけた。

「親父に献上するためだよ。そうして自分が組長にのし上がるためにな」

 伊津はざらついた心の正体に気づいた。
 本堂が必死になって伊津を組に連れ戻そうとしていたわけが納得のいくものだったからだ。
 本堂は伊津との下らない口約束を利用しただけで、本心は自我自欲でいっぱいだったのだと思う。
 それでも責められない。
 厳しい裏社会で他人を蹴落とすことは必ずしも悪じゃない。
 また信じたいと思う気持ちを暴走させ、一方的にのめり込んだ自分が悪いのだ。

「傷ついちゃったか? でもお前の性分にはそれが合ってるよ。底辺で踏みつけられてるのがお似合いだ。せめてその面で女に生まれてこられたら良かったのにな。そうすりゃ、もうちょっとマシな人生だったかもしれねぇなぁ」

 恨むなら自分の容姿を恨みなと、伊津は背中を踏みつけられる。
 女みたいな容姿で、悪趣味な男に目をつけられたのが運のツキ。もしかしたら生まれてきたことが間違いだったのかもしれない。伊津にあの頃を思い出させ、そう思わせるには充分な暴力だった。
 その時、清景が伊津の上に跨った。

「やめろ・・・・・・!」
「おいおいおい、暴れんなよ。親父は今出掛けんだ。帰ってくる前に楽しませろよ」
「父親に逆らっていいんですか?」
「顔を打たなければわかりゃしねぇさ。口とこっちで奉仕しろ」
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