17 / 33
第一章
追憶 2
しおりを挟む
思い出したくないことに限って、思い出したくないタイミングで思い出されて、気が滅入る。
伊津は寝不足の瞼を擦って、早朝の台所に立った。
昨夜の夕食前のむつみ合いの現場でもあり、どんよりと曇った気持ちのまま、微妙な心境が広がって行く。
「おはようございます。伊津さん、昨日はすいません」
「おう」
暖簾を潜って起きてきた本堂に、声と手だけで挨拶を返す。
顔を合わせるのが気まずくて、伊津は振り返らなかった。
そんな悩みも伊津だけの苦しみで、伊津の心を掻き回している張本人は飄々と肩越しにガス台の鍋を覗いている。
コトコトと火にかけている鍋の中身を見て、嬉しそうな声を出しやがる。
「伊津さん、これは昨日の作りかけの」
「時間もあるしゆっくり煮込むさ。今日一日置けば美味くなってる」
「いいな。夜が楽しみだ」
「ああ、・・・そうだな」
萎むような声で呟いた伊津は、続けざまに溜息をついた。
竜善組組長である竜善丈太郎。若頭である本堂八雲。伊津が組に籍を置いていた頃は、若頭は竜善清景という男だった。丈太郎の一人息子。次期組長の既定路線だった。
伊津の一つ歳下。色男の父親のせいで霞むが、清景も父の面影をわずかながらも引き継いでいた。悪くはない顔立ちだったと思う。伊津は清景の顔をよく覚えている。
丈太郎は息子の前でも伊津を甚振った。
客観的に考えれば、本当に気持ち悪い趣味だ。
お前もこうしろと示しているみたいに。まるでそれこそが組を背負って立つ人間の正しい姿であるかのように。踏みつけた伊津の背中を愉快そうに見下ろし、己れの力を誇示していた。
清景本人がどう感じたか知ったことではないが、父であり組長である丈太郎に否と言えるわけがない。
いつ見かけてもヘラヘラと媚びへつらって、父親の真似をして伊津を踏みつけた。無断で靴を舐めろと強要されたことがあったが、丈太郎に運悪く見つかり、流石にその時はこっぴどく制裁を受けていた。
しかし骨折程度の怪我で済んでおり、やはり彼が血の繋がった息子で次期組長候補だったからだ。
覆らない決定事項のはずだったのが、伊津の知らぬ間に若頭の座が本堂八雲という男と入れ替わっていた。
本堂。伊津の中で記憶している本堂はガリガリで細いガキ。中卒で高校に行っていない十六歳だと聞かされたが見えなかった。大人を睨みつける眼光だけは評価できたが、いかんせん筋肉も無いしチビで礼儀もなっておらず、いつも兄貴勢に教育を施されて痣だらけだった。
伊津が本堂に遭ったのは、本堂が一人で竜善家の大豪邸の草むしりをやらされていたのを見たのが最初。
広い庭を炎天下の中。兄貴分からの嫌がらせだ。
汗をかいて、泥だらけになって。いくら若い男子でも、食事をまともに取っていない身体には酷だったに違いない。
きっと逃げ出したくても逃げ出せなかったのだ。
あんな子どもで裏社会に来てしまった人間に、他に居場所があるとも思えない。
伊津はそんなことを思いながら、窓から本堂の姿を眺めていた。哀れに感じたものの、自分だって助けてやれる状況にいない。
自分自身も自由のない生活だった。
生活空間は六畳程の一部屋と限られており、窓とドアには外から鍵がかけられていた。
食事と風呂トイレは決まった時間に、丈太郎の側近幹部のうち誰かが世話をしに来る。丈太郎本人が訪れる時は決まって、失神するまで身体を酷使された。
丈太郎は手酷く伊津を扱ったが、病院送りにならないように細心の注意を払っていた。
それでも伊津の身体に不調が見られた場合には、当時はまだ闇医者をやっていた谷渕が呼ばれて内密に治療を受けさせられた。
伊津をぼろぼろに痛めつけた後、決まって丈太郎は「いつかお前を幹部にしてやるから」と甘い言葉を囁いた。
俺の横に立ちたいだろう?
と、伊津が何より欲しいものを餌にして、伊津を縛り続けたのだ。
好きな男と同じ場所に立って、同じ未来を見たい。
それはそんなに浅はかな願いだったのだろうか。
右も左もわからない頃に見せられた世界が脳裏から離れなくて、諦められなくて、分不相応な希望に縋っていた。
意味のない行いに意味を見出すことに必死になっていたあの頃の自分に一言教えてあげられるのなら、「お前は馬鹿だよ」と張り倒してやりたい。
窓から眺めて知っていただけの痩せっぽちの少年が食事を運んで来たのは、伊津が監禁生活から開放される少し前のことだった。
伊津は寝不足の瞼を擦って、早朝の台所に立った。
昨夜の夕食前のむつみ合いの現場でもあり、どんよりと曇った気持ちのまま、微妙な心境が広がって行く。
「おはようございます。伊津さん、昨日はすいません」
「おう」
暖簾を潜って起きてきた本堂に、声と手だけで挨拶を返す。
顔を合わせるのが気まずくて、伊津は振り返らなかった。
そんな悩みも伊津だけの苦しみで、伊津の心を掻き回している張本人は飄々と肩越しにガス台の鍋を覗いている。
コトコトと火にかけている鍋の中身を見て、嬉しそうな声を出しやがる。
「伊津さん、これは昨日の作りかけの」
「時間もあるしゆっくり煮込むさ。今日一日置けば美味くなってる」
「いいな。夜が楽しみだ」
「ああ、・・・そうだな」
萎むような声で呟いた伊津は、続けざまに溜息をついた。
竜善組組長である竜善丈太郎。若頭である本堂八雲。伊津が組に籍を置いていた頃は、若頭は竜善清景という男だった。丈太郎の一人息子。次期組長の既定路線だった。
伊津の一つ歳下。色男の父親のせいで霞むが、清景も父の面影をわずかながらも引き継いでいた。悪くはない顔立ちだったと思う。伊津は清景の顔をよく覚えている。
丈太郎は息子の前でも伊津を甚振った。
客観的に考えれば、本当に気持ち悪い趣味だ。
お前もこうしろと示しているみたいに。まるでそれこそが組を背負って立つ人間の正しい姿であるかのように。踏みつけた伊津の背中を愉快そうに見下ろし、己れの力を誇示していた。
清景本人がどう感じたか知ったことではないが、父であり組長である丈太郎に否と言えるわけがない。
いつ見かけてもヘラヘラと媚びへつらって、父親の真似をして伊津を踏みつけた。無断で靴を舐めろと強要されたことがあったが、丈太郎に運悪く見つかり、流石にその時はこっぴどく制裁を受けていた。
しかし骨折程度の怪我で済んでおり、やはり彼が血の繋がった息子で次期組長候補だったからだ。
覆らない決定事項のはずだったのが、伊津の知らぬ間に若頭の座が本堂八雲という男と入れ替わっていた。
本堂。伊津の中で記憶している本堂はガリガリで細いガキ。中卒で高校に行っていない十六歳だと聞かされたが見えなかった。大人を睨みつける眼光だけは評価できたが、いかんせん筋肉も無いしチビで礼儀もなっておらず、いつも兄貴勢に教育を施されて痣だらけだった。
伊津が本堂に遭ったのは、本堂が一人で竜善家の大豪邸の草むしりをやらされていたのを見たのが最初。
広い庭を炎天下の中。兄貴分からの嫌がらせだ。
汗をかいて、泥だらけになって。いくら若い男子でも、食事をまともに取っていない身体には酷だったに違いない。
きっと逃げ出したくても逃げ出せなかったのだ。
あんな子どもで裏社会に来てしまった人間に、他に居場所があるとも思えない。
伊津はそんなことを思いながら、窓から本堂の姿を眺めていた。哀れに感じたものの、自分だって助けてやれる状況にいない。
自分自身も自由のない生活だった。
生活空間は六畳程の一部屋と限られており、窓とドアには外から鍵がかけられていた。
食事と風呂トイレは決まった時間に、丈太郎の側近幹部のうち誰かが世話をしに来る。丈太郎本人が訪れる時は決まって、失神するまで身体を酷使された。
丈太郎は手酷く伊津を扱ったが、病院送りにならないように細心の注意を払っていた。
それでも伊津の身体に不調が見られた場合には、当時はまだ闇医者をやっていた谷渕が呼ばれて内密に治療を受けさせられた。
伊津をぼろぼろに痛めつけた後、決まって丈太郎は「いつかお前を幹部にしてやるから」と甘い言葉を囁いた。
俺の横に立ちたいだろう?
と、伊津が何より欲しいものを餌にして、伊津を縛り続けたのだ。
好きな男と同じ場所に立って、同じ未来を見たい。
それはそんなに浅はかな願いだったのだろうか。
右も左もわからない頃に見せられた世界が脳裏から離れなくて、諦められなくて、分不相応な希望に縋っていた。
意味のない行いに意味を見出すことに必死になっていたあの頃の自分に一言教えてあげられるのなら、「お前は馬鹿だよ」と張り倒してやりたい。
窓から眺めて知っていただけの痩せっぽちの少年が食事を運んで来たのは、伊津が監禁生活から開放される少し前のことだった。
0
お気に入りに追加
97
あなたにおすすめの小説
くまさんのマッサージ♡
はやしかわともえ
BL
ほのぼの日常。ちょっとえっちめ。
2024.03.06
閲覧、お気に入りありがとうございます。
m(_ _)m
もう一本書く予定です。時間が掛かりそうなのでお気に入りして頂けると便利かと思います。よろしくお願い致します。
2024.03.10
完結しました!読んで頂きありがとうございます。m(_ _)m
今月25日(3/25)のピクトスクエア様のwebイベントにてこの作品のスピンオフを頒布致します。詳細はまたお知らせ致します。
2024.03.19
https://pictsquare.net/skaojqhx7lcbwqxp8i5ul7eqkorx4foy
イベントページになります。
25日0時より開始です!
※補足
サークルスペースが確定いたしました。
一次創作2: え5
にて出展させていただいてます!
2024.10.28
11/1から開催されるwebイベントにて、新作スピンオフを書いています。改めてお知らせいたします。
2024.11.01
https://pictsquare.net/4g1gw20b5ptpi85w5fmm3rsw729ifyn2
本日22時より、イベントが開催されます。
よろしければ遊びに来てください。
官能小説家の執筆旅行
市樺チカ
BL
山奥の家に籠って筆を執る毎日を送る官能小説家の真田伊織。新刊の発行を前に煮詰まった彼は、担当の勧めで創作意欲を掻き立てる旅に出ることにした。
手伝いとして雇った強面の大男、熊井と共に気の向くままに各地を巡る。
(性描写がある話には※をつけています)
(ムーンライトノベルズにも投稿しています)
ヤクザと捨て子
幕間ささめ
BL
執着溺愛ヤクザ幹部×箱入り義理息子
ヤクザの事務所前に捨てられた子どもを自分好みに育てるヤクザ幹部とそんな保護者に育てられてる箱入り男子のお話。
ヤクザは頭の切れる爽やかな風貌の腹黒紳士。息子は細身の美男子の空回り全力少年。
目が覚めたら囲まれてました
るんぱっぱ
BL
燈和(トウワ)は、いつも独りぼっちだった。
燈和の母は愛人で、すでに亡くなっている。愛人の子として虐げられてきた燈和は、ある日家から飛び出し街へ。でも、そこで不良とぶつかりボコボコにされてしまう。
そして、目が覚めると、3人の男が燈和を囲んでいて…話を聞くと、チカという男が燈和を拾ってくれたらしい。
チカに気に入られた燈和は3人と共に行動するようになる。
不思議な3人は、闇医者、若頭、ハッカー、と異色な人達で!
独りぼっちだった燈和が非日常な幸せを勝ち取る話。
召喚された美人サラリーマンは性欲悪魔兄弟達にイカされる
KUMA
BL
朱刃音碧(あかばねあおい)30歳。
ある有名な大人の玩具の開発部門で、働くサラリーマン。
ある日暇をモテ余す悪魔達に、逆召喚され混乱する余裕もなく悪魔達にセックスされる。
性欲悪魔(8人攻め)×人間
エロいリーマンに悪魔達は釘付け…『お前は俺達のもの。』
年上が敷かれるタイプの短編集
あかさたな!
BL
年下が責める系のお話が多めです。
予告なくr18な内容に入ってしまうので、取扱注意です!
全話独立したお話です!
【開放的なところでされるがままな先輩】【弟の寝込みを襲うが返り討ちにあう兄】【浮気を疑われ恋人にタジタジにされる先輩】【幼い主人に狩られるピュアな執事】【サービスが良すぎるエステティシャン】【部室で思い出づくり】【No.1の女王様を屈服させる】【吸血鬼を拾ったら】【人間とヴァンパイアの逆転主従関係】【幼馴染の力関係って決まっている】【拗ねている弟を甘やかす兄】【ドSな執着系執事】【やはり天才には勝てない秀才】
------------------
新しい短編集を出しました。
詳しくはプロフィールをご覧いただけると幸いです。
【完結】ぎゅって抱っこして
かずえ
BL
幼児教育学科の短大に通う村瀬一太。訳あって普通の高校に通えなかったため、働いて貯めたお金で二年間だけでもと大学に入学してみたが、学費と生活費を稼ぎつつ学校に通うのは、考えていたよりも厳しい……。
でも、頼れる者は誰もいない。
自分で頑張らなきゃ。
本気なら何でもできるはず。
でも、ある日、金持ちの坊っちゃんと心の中で呼んでいた松島晃に苦手なピアノの課題で助けてもらってから、どうにも自分の心がコントロールできなくなって……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる