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第5章 ユリン編・参
72 過去——鬼の潜む湖②
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その日から、ユリンは会合の席に座らなくなった。もともと大人たちの小難しい話し合いを聞きたいわけじゃなかったから、そんなことよりもダオの声を聞いていたかった。
会合が終わるまでの時間、二人は中庭で話をした。
中庭の一角の広い花壇。不用意に花を踏んづけてしまうと、こっぴどく叱られてしまうために、子どもたちには不人気の場所だ。
静かで、ひとりになれる、ユリンは好きな場所だった。
それをうっかり口走ってしまったユリンに、ダオは「僕がいるとひとりじゃなくなるよ?」と首を傾げ、ユリンは「いいんだ、ダオなら」と言い訳にならない本音をこぼした。
すでに、ユリンはダオが好きだった。大人と同じ色恋のそれになるにはまだ拙くとも、ダオと時間を過ごしたあとのユリンの頬は初々しく火照っていた。
親しくなって何度目の会合の日だったか。
ユリンは十三歳になっていた。
ある日のダオはもじもじと夢うつつで、ぼんやりとしているように見えた。
「今度はなに?」
と、ユリンは問いかける。
するとダオは目を大きく見開き、意気盛んに「あのね」と話しだした。
このころには、ダオの性格の本質がかなり見えてきていた。
無垢で実直な彼は、生まれながらの強い好奇心に囚われてしまうという、ちょっと困った癖を持っていたのだ。ダオは自身の気になったことを、たったのひとつも放っておけなかった。
「教えてよ、ダオ」
「うん、すっごいこと聞いちゃった!」
傾けられたユリンの耳に興奮したダオの声が響く。
「すごいこと?」
「うんうん! ほら、あの日から、父さまたちが大人だけでよく会合をしてるでしょ? その話し合いの内容!」
「ああ・・・・・・あれね」
あの日は、ダオと話すきっかけになった日のこと。ユリンにとってはそちらの出来事のほうが大きく鮮明で、大人たちの話に興味はなく、頭のはしっこに避けられている。
「子どもには聞かせられない内容だって、ユリンは気にならない?」
きらきらと晴れやかな瞳で見つめられ、ユリンは目を伏せた。
「気になる」
「ふっふー。でしょ。なんと、なんと、北の森の湖に鬼がいるらしいのです!」
「鬼・・・・・・物の怪」
導術師の家系で育ったユリンは物の怪の恐ろしさを熟知している。物の怪は呪いを用いて人間を苦しめる悪しき者だと、ユリンは生まれたときからそのように言われて育ってきた。
嫌な予感。ダオの曇りない瞳に負けて訊ねれば、予想どおりの返答が返ってくる。
「もしかして探しに行きたいとか・・・・・・?」
「うん」
「無理だよ。ほんとうに遭遇したらどうするの? 危険だからやめよう」
「んー、でも、物の怪と言ったってもとは人間なんだから、もしも怒らせちゃっても、ごめんなさいって謝ったら帰してくれるんじゃないかな?」
人間なのは事実。けれど、ダオが言うように「もと」だ。物の怪に変化し、もとに戻れなければ人間とは呼べなくなる。
「お願い、ユリン。ついてきてくれる? ユリンって、とっても優秀なんでしょ? ユリンがいてくれると心強いな」
「・・・・・・え、うん」
ユリンは迷いに目をつぶってしまった。ダオの言葉は反則だった。
翌朝早く、それぞれの屋敷を抜け出した二人は北の森に出かけた。そこは国にどっしりとそびえ立つ山のちょうど陰。日が当たりづらい北の森は、木々の背が低いわりに霧深くて見通しが悪い。人間が通れる道はあるのだが、夜に育つという蔓の仲間が絡んで生い茂り、あたりは鬱蒼としていた。
———今からでも引き返したいと、ユリンは何度も口を開こうとするも、目を輝かせて森を進んでいくダオの背中を止めることはできなかった。
「ねぇ、ダオ、いちおう父上の持ち物から護符をくすねてきたけど、俺はまだ修行をつけてもらえる歳じゃないんだ。だから」
「わかってるよ、きっと使うことはないから大丈夫」
「うん・・・・・・」
ダオは気になったから確かめたいというだけで、鬼の噂を信じていないのだと、ユリンは直感していた。
(鬼が出たら、俺がダオを守らないと)
きゅっと拳を握る。ダオが平気でも、ユリンは森に入った瞬間から吐き気を覚えていた。ユリンの肌はそれの存在を敏感に感じとり、ぞわぞわと悪寒を走らせている。
「湖!」
ダオの声で目を凝らすと、枝と枝の隙間に水辺が見えた。
霧が消えないせいで湖の向こう岸が目視できない。ものすごく遠いのかもしれないし、実はすぐ近くにあるのかもしれない。
得体の知れない湖の全容が、二度と戻っては来られないような恐怖心を与えていた。
だが完全に視界が途切れてしまう手前に浮き小島があり、その上にはゴツゴツとした岩山が乗っかっている。
(あれは自然にできたものだろうか?)
ユリンが気になったということは、ダオはもっと興味を示しているはずだ。
目を凝らしているダオの視線の先に何かがあった。岩肌のこちら側に面した箇所に、大人が四つん這いでやっと通れるくらいの横穴が見える。動物の巣穴か、外観上は鬼が出入りできそうな穴ではなかった。
「ユリン・・・・・・」
「うん、どうやってあそこまで行く?」
近々、山籠もり修行を控えているユリンはともかく、不気味な湖でお金持ちのご子息然としたダオを泳がせるのは忍びなかった。
そう思ってダオの顔を伺うと、ユリンの心配などご無用だと言わんばかりに、ダオは躊躇いなく衣装の帯に手をかけた。
「ちょっ、ダオ、泳げるの?」
「泳ぐよ。当たり前じゃん。ユリンも早く準備して」
会合が終わるまでの時間、二人は中庭で話をした。
中庭の一角の広い花壇。不用意に花を踏んづけてしまうと、こっぴどく叱られてしまうために、子どもたちには不人気の場所だ。
静かで、ひとりになれる、ユリンは好きな場所だった。
それをうっかり口走ってしまったユリンに、ダオは「僕がいるとひとりじゃなくなるよ?」と首を傾げ、ユリンは「いいんだ、ダオなら」と言い訳にならない本音をこぼした。
すでに、ユリンはダオが好きだった。大人と同じ色恋のそれになるにはまだ拙くとも、ダオと時間を過ごしたあとのユリンの頬は初々しく火照っていた。
親しくなって何度目の会合の日だったか。
ユリンは十三歳になっていた。
ある日のダオはもじもじと夢うつつで、ぼんやりとしているように見えた。
「今度はなに?」
と、ユリンは問いかける。
するとダオは目を大きく見開き、意気盛んに「あのね」と話しだした。
このころには、ダオの性格の本質がかなり見えてきていた。
無垢で実直な彼は、生まれながらの強い好奇心に囚われてしまうという、ちょっと困った癖を持っていたのだ。ダオは自身の気になったことを、たったのひとつも放っておけなかった。
「教えてよ、ダオ」
「うん、すっごいこと聞いちゃった!」
傾けられたユリンの耳に興奮したダオの声が響く。
「すごいこと?」
「うんうん! ほら、あの日から、父さまたちが大人だけでよく会合をしてるでしょ? その話し合いの内容!」
「ああ・・・・・・あれね」
あの日は、ダオと話すきっかけになった日のこと。ユリンにとってはそちらの出来事のほうが大きく鮮明で、大人たちの話に興味はなく、頭のはしっこに避けられている。
「子どもには聞かせられない内容だって、ユリンは気にならない?」
きらきらと晴れやかな瞳で見つめられ、ユリンは目を伏せた。
「気になる」
「ふっふー。でしょ。なんと、なんと、北の森の湖に鬼がいるらしいのです!」
「鬼・・・・・・物の怪」
導術師の家系で育ったユリンは物の怪の恐ろしさを熟知している。物の怪は呪いを用いて人間を苦しめる悪しき者だと、ユリンは生まれたときからそのように言われて育ってきた。
嫌な予感。ダオの曇りない瞳に負けて訊ねれば、予想どおりの返答が返ってくる。
「もしかして探しに行きたいとか・・・・・・?」
「うん」
「無理だよ。ほんとうに遭遇したらどうするの? 危険だからやめよう」
「んー、でも、物の怪と言ったってもとは人間なんだから、もしも怒らせちゃっても、ごめんなさいって謝ったら帰してくれるんじゃないかな?」
人間なのは事実。けれど、ダオが言うように「もと」だ。物の怪に変化し、もとに戻れなければ人間とは呼べなくなる。
「お願い、ユリン。ついてきてくれる? ユリンって、とっても優秀なんでしょ? ユリンがいてくれると心強いな」
「・・・・・・え、うん」
ユリンは迷いに目をつぶってしまった。ダオの言葉は反則だった。
翌朝早く、それぞれの屋敷を抜け出した二人は北の森に出かけた。そこは国にどっしりとそびえ立つ山のちょうど陰。日が当たりづらい北の森は、木々の背が低いわりに霧深くて見通しが悪い。人間が通れる道はあるのだが、夜に育つという蔓の仲間が絡んで生い茂り、あたりは鬱蒼としていた。
———今からでも引き返したいと、ユリンは何度も口を開こうとするも、目を輝かせて森を進んでいくダオの背中を止めることはできなかった。
「ねぇ、ダオ、いちおう父上の持ち物から護符をくすねてきたけど、俺はまだ修行をつけてもらえる歳じゃないんだ。だから」
「わかってるよ、きっと使うことはないから大丈夫」
「うん・・・・・・」
ダオは気になったから確かめたいというだけで、鬼の噂を信じていないのだと、ユリンは直感していた。
(鬼が出たら、俺がダオを守らないと)
きゅっと拳を握る。ダオが平気でも、ユリンは森に入った瞬間から吐き気を覚えていた。ユリンの肌はそれの存在を敏感に感じとり、ぞわぞわと悪寒を走らせている。
「湖!」
ダオの声で目を凝らすと、枝と枝の隙間に水辺が見えた。
霧が消えないせいで湖の向こう岸が目視できない。ものすごく遠いのかもしれないし、実はすぐ近くにあるのかもしれない。
得体の知れない湖の全容が、二度と戻っては来られないような恐怖心を与えていた。
だが完全に視界が途切れてしまう手前に浮き小島があり、その上にはゴツゴツとした岩山が乗っかっている。
(あれは自然にできたものだろうか?)
ユリンが気になったということは、ダオはもっと興味を示しているはずだ。
目を凝らしているダオの視線の先に何かがあった。岩肌のこちら側に面した箇所に、大人が四つん這いでやっと通れるくらいの横穴が見える。動物の巣穴か、外観上は鬼が出入りできそうな穴ではなかった。
「ユリン・・・・・・」
「うん、どうやってあそこまで行く?」
近々、山籠もり修行を控えているユリンはともかく、不気味な湖でお金持ちのご子息然としたダオを泳がせるのは忍びなかった。
そう思ってダオの顔を伺うと、ユリンの心配などご無用だと言わんばかりに、ダオは躊躇いなく衣装の帯に手をかけた。
「ちょっ、ダオ、泳げるの?」
「泳ぐよ。当たり前じゃん。ユリンも早く準備して」
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