上 下
51 / 91
第3章 ダオ編・弐

50 恋煩い、茶番【ちゃばん】②

しおりを挟む
 侍女が「伝えておきますね」と弾んだ声で言うので、ぼくは大人しく新しく与えられた部屋に戻りました。
 暇になり、文字の練習をしようと巾着を引っ張り出したとき、ひらめきが浮かんできます。手のひらに墨汁の小瓶を握りしめて、再度、部屋を出ました。
(ぼくもフェンさまと話がしたい)
 久しぶりの胸の高揚。ぼくは気づかないうちに、歩調を早めていたのです。
 注意力が散漫になっていたのでしょう、そろそろ角だなと認識した瞬間、どすんっとだれかにぶつかってしまいました。
 侍女であれば相打ちくらいの跳ね返りだったと思うのですが、どうやら相手は骨格のしっかりした男性だったようです。ぐらついた身体は後ろに倒れ、ひやっと首から背筋にかけて総毛立ちました。

「おっと」

 腕を回してくれたのか、腰を支えにぐらついた身体は転倒を免れた。ぼくの腕だけが余韻でばたつき、咄嗟に触れた服の一部をつかんでいました。

「ごめんなさい、不注意でした」

 あわてて謝罪し、自分の脚で立ちます。

「いいえ、こちらこそ」

 耳馴染みのよい声に、ぼくの唇が笑んだ。

「フェンさまでしたか」
「ええ、そんなに急いでどこへ? 走ると危ないですよ」
「・・・・・・フェンさまを探しておりました。どうしても、会いたかったのです」
「俺にですか? これまた、なぜ?」

 いぶかしむようなフェンさまの返答を聴き、失敗したと思いました。フェンさまにとってぼくは、一度や二度、簡単な会話をしたくらいの相手なのですから怪しまれて当然です。
 ましてや、屋敷の人間以外とは交流がないために忘れてしまいがちですが、ぼくの立場はリュウホンさまの妻です。
 発言と振る舞いに気をつけなければいけませんでした。

「深い意味はありません・・・・・・っ、これが」

 そう言って、ぼくは墨汁の小瓶を差し出します。

「墨がなにか?」
「えと、中身が無くなりそうで」

 事前に考えておいた理由を伝えると、フェンさまは「なるほど」とこちらに聴こえるくらいの大きなため息を吐いたのがわかりました。

「貸してください。・・・・・・ああ、ほんとだ。振っても墨の音がしませんね」
「はい、図々しいお願いをして申しわけありません」
「いいですよ。屋敷の者には言えませんものね。次回来るときに必ずお持ちします」

 そしてふいに、頭に手が置かれたような気がしたのです。頭を動かすと、かすかな感触は風に飛ばされたみたいに消えてなくなり、ぼくの気のせいだったかもしれません。
(どうしよう)
 話題が切れてしまった。それでも、まだ立ち去りたくない。
 胸のあたりがつっかえて、むずむずした感じ。

「では、俺はこれで。リュウホン殿下に見られるとまずいのでは?」
「・・・・・・はい」

 引き留めたい。引き留めてはいけない。
 その感情の狭間で、ぼくは激しく揺れました。


 ◇


 次の訪問日は三日後でした。昼間にリュウホンさまが屋敷にいらっしゃるので、わかってしまいます。
 今日は新しい墨汁の瓶を届けに来てくれる約束がある。
 しかし大人しく待っていましたが、フェンさまはなかなか部屋に来てくれません。二人でこそこそと何をやっているのでしょうか。楽しみにしていた気持ちが、苛立ちに似たものに変わっていきます。
(待ってよ、これってぼく、リュウホンさまに嫉妬してる?)
 フェンさまのことを考えていると、感情の起伏が大きくなる。
 喜ぶ、怒る、驚く、ぼくの心は忙しい。
(でも、なんだか・・・・・・楽しいかも)
 息をするたびに、鼻腔をとおる空気が唄う。こんなに嬉しい気持ちになったのは、遠い昔の出来事以来でしょう。
(・・・・・・あれ、ぼくのこの気持ちは)
 胸に手をあてた。とくんと鳴る心臓。
 するとそのとき、トントンととびらを叩く音が聴こえました。待ち望んでいた音に、跳ぶように立ち上がり、ぼくは「はい」と返事をします。鼻先すれすれでとびらが横に引かれ、勢いをつけて近寄りすぎていたと気がつき、恥ずかしくなって一歩下がりました。

「どうも」
「ようこそ、お待ちしておりました」

 聴こえてきた声の方向に、ぼくは微笑みかけます。

「おや、丁重なもてなしをありがとう。ですが、俺のことはもっと雑に扱ってください。そこまでされたらリュウホン殿下に叱られてしまいます」
「それは、・・・・・・できません」
「どうしてでしょう?」

 あらぬところで深く突っ込まれ、不意打ちを食らいました。ぼくは考えましたが、そうしたかったからという理由しか思いつきませんでした。フェンさまに対して素っ気ない態度を取るのは、本意ではない。

「できないのです」

 頑なに同じ返事を繰りかえすと、「くすくす」と笑われたようです。

「ご、ごめんなさい・・・・・・。フェンさまがお嫌でしたら、やめます」
「いいえ、嬉しいですよ」

 優しい声でした。ぼくの心はふわふわと満たされていきます。

「なかに入っても?」
「———はい、どうぞ。好きな椅子を使っていただいて構いません」
「ご親切に、ありがとう」

 他人行儀の———・・・・・・、他人なのですから当たり前です。けれど、よそよそしいやり取りに、また胸のあたりがむずむずしました。

「墨はどこに置いておけばよろしいですか?」
「もらいます、くださいっ」

 手のひらを前に差し出すと、小さな小瓶が二個置かれました。

「あ、ふたつ?」
「すぐ無くなったら困るかと思いまして」
「そうですね・・・・・・」
「どうしました?」
「なんでもありません。ありがとうございます。助かりました」

 首を横に振って口角を上げます。ぼくは知らぬうちに唇を噛んでいたことを、口を開けたときに広がった痛みで気がつきました。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

出戻り聖女はもう泣かない

たかせまこと
BL
西の森のとば口に住むジュタは、元聖女。 男だけど元聖女。 一人で静かに暮らしているジュタに、王宮からの使いが告げた。 「王が正室を迎えるので、言祝ぎをお願いしたい」 出戻りアンソロジー参加作品に加筆修正したものです。 ムーンライト・エブリスタにも掲載しています。 表紙絵:CK2さま

夫には言えない、俺と息子の危険な情事

あぐたまんづめ
BL
Ωだと思っていた息子が実はαで、Ωの母親(♂)と肉体関係を持つようになる家庭内不倫オメガバース。 α嫌いなβの夫に息子のことを相談できず、息子の性欲のはけ口として抱かれる主人公。夫にバレないように禁断なセックスを行っていたが、そう長くは続かず息子は自分との子供が欲しいと言ってくる。「子供を作って本当の『家族』になろう」と告げる息子に、主人公は何も言い返せず――。 昼ドラ感満載ですがハッピーエンドの予定です。 【三角家の紹介】 三角 琴(みすみ こと)…29歳。Ω。在宅ライターの元ヤンキー。口は悪いが家事はできる。キツめの黒髪美人。 三角 鷲(しゅう)…29歳。β。警察官。琴と夫婦関係。正義感が強くムードメーカー。老若男女にモテる爽やかイケメン 三角 鵠(くぐい)…15歳。Ω→α。中学三年生。真面目で優秀。二人の自慢の息子。学校では王子様と呼ばれるほどの人気者。

公爵様、契約通り、跡継ぎを身籠りました!-もう契約は満了ですわよ・・・ね?ちょっと待って、どうして契約が終わらないんでしょうかぁぁ?!-

猫まんじゅう
恋愛
 そう、没落寸前の実家を助けて頂く代わりに、跡継ぎを産む事を条件にした契約結婚だったのです。  無事跡継ぎを妊娠したフィリス。夫であるバルモント公爵との契約達成は出産までの約9か月となった。  筈だったのです······が? ◆◇◆  「この結婚は契約結婚だ。貴女の実家の財の工面はする。代わりに、貴女には私の跡継ぎを産んでもらおう」  拝啓、公爵様。財政に悩んでいた私の家を助ける代わりに、跡継ぎを産むという一時的な契約結婚でございましたよね・・・?ええ、跡継ぎは産みました。なぜ、まだ契約が完了しないんでしょうか?  「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくださいませええ!この契約!あと・・・、一体あと、何人子供を産めば契約が満了になるのですッ!!?」  溺愛と、悪阻(ツワリ)ルートは二人がお互いに想いを通じ合わせても終わらない? ◆◇◆ 安心保障のR15設定。 描写の直接的な表現はありませんが、”匂わせ”も気になる吐き悪阻体質の方はご注意ください。 ゆるゆる設定のコメディ要素あり。 つわりに付随する嘔吐表現などが多く含まれます。 ※妊娠に関する内容を含みます。 【2023/07/15/9:00〜07/17/15:00, HOTランキング1位ありがとうございます!】 こちらは小説家になろうでも完結掲載しております(詳細はあとがきにて、)

大嫌いだったアイツの子なんか絶対に身籠りません!

みづき
BL
国王の妾の子として、宮廷の片隅で母親とひっそりと暮らしていたユズハ。宮廷ではオメガの子だからと『下層の子』と蔑まれ、次期国王の子であるアサギからはしょっちゅういたずらをされていて、ユズハは大嫌いだった。 そんなある日、国王交代のタイミングで宮廷を追い出されたユズハ。娼館のスタッフとして働いていたが、十八歳になり、男娼となる。 初めての夜、客として現れたのは、幼い頃大嫌いだったアサギ、しかも「俺の子を孕め」なんて言ってきて――絶対に嫌! と思うユズハだが…… 架空の近未来世界を舞台にした、再会から始まるオメガバースです。

余命僅かの悪役令息に転生したけど、攻略対象者達が何やら離してくれない

上総啓
BL
ある日トラックに轢かれて死んだ成瀬は、前世のめり込んでいたBLゲームの悪役令息フェリアルに転生した。 フェリアルはゲーム内の悪役として15歳で断罪される運命。 前世で周囲からの愛情に恵まれなかった成瀬は、今世でも誰にも愛されない事実に絶望し、転生直後にゲーム通りの人生を受け入れようと諦観する。 声すら発さず、家族に対しても無反応を貫き人形のように接するフェリアル。そんなフェリアルに周囲の過保護と溺愛は予想外に増していき、いつの間にかゲームのシナリオとズレた展開が巻き起こっていく。 気付けば兄達は勿論、妖艶な魔塔主や最恐の暗殺者、次期大公に皇太子…ゲームの攻略対象者達がフェリアルに執着するようになり…――? 周囲の愛に疎い悪役令息の無自覚総愛されライフ。 ※最終的に固定カプ

2番目の1番【完】

綾崎オトイ
恋愛
結婚して3年目。 騎士である彼は王女様の護衛騎士で、王女様のことを何よりも誰よりも大事にしていて支えていてお護りしている。 それこそが彼の誇りで彼の幸せで、だから、私は彼の1番にはなれない。 王女様には私は勝てない。 結婚3年目の夫に祝われない誕生日に起こった事件で限界がきてしまった彼女と、彼女の存在と献身が当たり前になってしまっていたバカ真面目で忠誠心の厚い騎士の不器用な想いの話。 ※ざまぁ要素は皆無です。旦那様最低、と思われる方いるかもですがそのまま結ばれますので苦手な方はお戻りいただけると嬉しいです 自己満全開の作品で個人の趣味を詰め込んで殴り書きしているため、地雷多めです。苦手な方はそっとお戻りください。 批判・中傷等、作者の執筆意欲削られそうなものは遠慮なく削除させていただきます…

【完結】かつて勇者だった者

関鷹親
BL
勇者として妹と共に異世界に召喚された春輝は、負傷した妹の治療を条件に魔王を討伐する旅へと出る。 周りからやっかみにあいながらも、魔王を打ち倒し凱旋するが、待ち受けていたのは思いがけない悲劇だった──。 絶望する春輝の元に死んだはずの魔王が現れ、共に王国を滅ぼそうと囁かれ、その手を取ってしまう。 利害関係から始まる関係は、徐々にお互いの心の隙間を埋め執着愛へと育っていく。 《おっさん魔王×青年勇者》 *ダークファンタジー色強めです。 誤字脱字等の修正ができてないです!すみません!

[完結]堕とされた亡国の皇子は剣を抱く

小葉石
BL
 今は亡きガザインバーグの名を継ぐ最後の亡国の皇子スロウルは実の父に幼き頃より冷遇されて育つ。  10歳を過ぎた辺りからは荒くれた男達が集まる討伐部隊に強引に入れられてしまう。  妖精姫との名高い母親の美貌を受け継ぎ、幼い頃は美少女と言われても遜色ないスロウルに容赦ない手が伸びて行く…  アクサードと出会い、思いが通じるまでを書いていきます。  ※亡国の皇子は華と剣を愛でる、 のサイドストーリーになりますが、この話だけでも楽しめるようにしますので良かったらお読みください。  際どいシーンは*をつけてます。

処理中です...